Knight, Carl, 2009, Luck Egalitarianism: Equality Responsibility, and Justice, Edinburgh University Press.

[運の平等主義擁護論の箇所のみ]

 

■情報

 

 結果に対する責任の所在とその程度についての情報が基礎になる。だが、その情報をどのように集めるのかは結果を見るよりも困難だ。障害をもつ人を識別するほうが、怠け者を識別するよりも簡単だ、というフローベイの批判。
 信念や嗜好になるとさらに難しい。本人の選択に基づく涵養と生来の環境等による洗脳との間に幅広い責任の程度についてのグラデーションがある、と批判されている。


 とはいえ、このフローベイのような議論では、宗教的に強いられたコストはすべて補償に値するということになる。だがそれはimplausibleだろう。そしてもしさまざまなコストのなかで差別を行おうとするならば、コストに対する責任が道徳的に重要性をもつと考えるのは合理的だろう。(125)
⇒ 情報収集をめぐる困難はそれだけで、ある分配原理を拒否する根拠にはなりえない。(126)

 

■尊重

 

① ウルフの議論――情報収集に随伴する問題
 ⇒ 補償に値する人=恵まれない(可哀そうな・憐憫に値する)人

補償するためには、誰が「不運」な人であるかを(当人であれ行政であれ)証明しなければならず、それは、当人にとって自尊心を傷つけることになる。

 

だが、これは経験的問題だろう。

 

「人々はほとんどつねに、その自尊の水準がウルフが描写するようなかたちで損なわれているとしても、より大きな喜びや幸福を、自らの選好がうまく満たされることで経験するだろう。」(132-3)

 

「ウルフの運の平等主義への反論は、実際には情報に基礎を置く諸政策への反論である」(134)

 

② アンダーソンの議論

 

 アンダーソンの議論の中心的な内容は、運の平等主義は「その利益を受けると思われる人に対して「憐憫」しか表現できない。平等主義的に分配される資源を要求する人々は、他者よりも自分たちが劣っているということを根拠にするのであって、他者と平等な存在であるという根拠からではない。憐憫は他者の尊厳を尊重することとは両立不可能である」(134) というものだ。

 

⇒ だが、ここでは不平等と憐憫が混同されているように見える。運の平等主義は不平等を根拠にして分配するのであって憐憫ではない。

 

「不平等は二つの仕方で憐憫とは切り離される。」

「第一に、不運に対して補償を受ける人に対する態度は、優越性にはまずなりえない。」

「第二に、再分配の意思決定は恵まれた人々が行うのではない以上、その人々の感情〔優越感等〕について語ることはまったく不要である。……再分配の意思決定は、恵まれた人もそうでない人も差別なく、すべての市民の利害関心を代表する視点としての国家の不偏的な観点から下される。……再分配は憐憫の問題ではなく正義の問題である。」(134-5)

 

 また、もし、「望ましくない個人的性質に対するすべての補償がその動機にかかわらず憐憫の表現になる」と主張しているのだとすれば、それはあまりにも強すぎるだろう。
 逆に、他者が憐憫を示すような性格であるということに基づいて補償が問題だと言っているだけだとすれば、それは弱すぎる。ヴァン・パリ―スの「非優越的多様性」の提案でさえ、この弱い解釈を避ける。好むこと〔prefer〕と不快に感じたり哀れに思うことは違うからである。内的賦与を不快に感じたり哀れに思うことの必要条件は、それをもたないことに対する極めて強い選好であるが、それは十分条件ではない。ある種の内的賦与に対して不快感や憐憫をもたずに、それをもたないことに対する最も強い選好をもつことは可能だからだ。(136)

 また、アンダーソンはドゥオーキンの「羨望」テストについて侮辱的だと述べている。そして、羨望が義務を生じさせることは考え難いと述べている。これに対して、ドゥオーキンは、アンダーソンが「羨望」という語の心理学的意味と経済学的なテクニカルタームとしての意味を混同している、と主張する。(136)

 運の平等主義者がエンタイトルメント確立のために羨望に依拠しているというのは明らかに間違いである。羨望テストを用いる人は、それを純粋に、すでに受容されている正義原理に内実を与えるための技術的な装置として用いているからだ。この正義原理とは平等であり、運の平等主義の考え方では、それは選択外の不利益が除去されることを要求する。この考え方は、羨望などといった社会心理学的要素からは完全に独立している。(137)

 

■「不注意な犠牲者を見捨てるという問題」(137)

 

 見捨てないだろう。「基本的ニーズは非常に重要なので、それらを満たすために支払われるコストは往々にして道徳的観点から見て小さいものである」(138)
 アンダーソンはローマーを批判しているが、ローマーの医療保険に関する議論は貨幣コストを論じているのに対して、アンダーソンは命をめぐる議論に強く読み替えている。だが、金よりも命の方が重要であり、ローマーの金をめぐる議論を命がかかっているようなケースにも当てはめることはできないだろう。(140)

 

「最も一般的な運の平等主義は、責任感応的な議論の射程をある種の領域に限定しようとつねに努力してきた」(140)

 

「運の平等主義は、実質的な公的な医療保険制度と整合性がないということを示すのだろうか? 明らかに否である。もし国家が健康保険を強制的に、公的医療サービスへの課税を通して財源を確保するとすれば、健康保険の不平等が起こることは必ずしもないし、健康保険の補償範囲に関して、責任に応じて異なる取り扱いがされることもない。したがって、人々に選択肢を与えるように要求する厚生への機会平等原理においても、健康保険からの選択的な離脱はない。さらに、よりレッセフェール的な体系でも、諸個人は各々の健康保険の準備に失敗した場合に責任があると単純に考えることはできない。保険に入っていない人々の責任を弱めるような経済的そして心理学的なバリアが存在するだろう。普遍的な健康保険は、健康保険のレベルと責任のレベルをマッチさせるより確実な方法だということになるだろう。ここには、いかなる意味でも、運の平等主義がバートのような人を死ぬままに放置するだろうと考える理由はない。」(141)

 

■「依存者へのケア提供者の脆弱性」問題――運の平等主義は男性の経済主体を規範として想定している。(Anderson、297-)

 

 アンダーソンは、運の平等主義は、子どもや高齢者等をケアすることを選択した人、そしてその結果市場賃金を少ししか得られない、あるいはまったく得られない人を、怠惰を選択した人と同じようにみなす、と批判する。(142)

「依存者へのケア提供に伴う脆弱性を避けようと望む人々は、したがって、自分自身に対してのみケアをすることを決定すべきだ。このような立場はエゴイストだけのための平等主義である」(142)

 

 たしかに、運の平等主義が、フェミニストによる市場批判を考慮することに失敗しているという点は正しい。だが、とはいえ、「運の平等主義が男性稼得者へのケア提供者の依存に伴う不正義を補償するための基盤になるのかどうかは明確ではない」という結論は性急だろう。運の平等主義は、社会的価値によって市場を統制しようとするからだ。ドゥオーキンは「「自然」の市場などというものは存在しない」と述べている。このドゥオーキンの一節は、富を生み出す能力をもつ人は、その稼得力を市場が認める限り報酬を得るべきだという見解を批判する文脈のなかにある。私も同じく、社会的に価値のある活動を行う人々に報酬を与えることに、運の平等主義が反対するだろうとは思わない。
 次世代の育成によって万人が利益を得ているのだ、というアンダーソンの指摘は正しい。well-motivatedなケア提供者に世話を受ける子どもや、老衰した人(infirm)を世話することに社会的価値が与えられれば、ケア提供者は社会的価値によって統制された市場で良い地位を得ることになるろう。(142)

 

「運の平等主義は、社会的財源でどれくらいの補償をケア提供者に設定するのだろうか。ドゥオーキン主義者はおそらく、ケア提供者として見捨てられるリスクは、仮設的保険市場が、ケア提供者に対する所得を、失業者に支払われるよりも高く(課税を通して)補償するような保険を補償するに足るリスクであると言うだろう。厚生主義者は、ケア提供者になるという選択を、本人が涵養していない高価な嗜好と同じように扱うことができるだろう。そしてその選択から帰結する厚生の低下に対して補償することができるだろう」(143)

 

「社会的価値の要素を承認することは、運の平等主義の中心的理念になんら改変を要求しない。幼児やinfirmは、支援を必要とする自らの状態に対する責任はなく、したがって支援に対する権原があるからだ。」(143)