Disability, Difference, Discrimination

Silvers,Anita, Wasserman,David, and Mahowald,Mary B. 1998, Rowman & Littlefield

■ 目次


 Acknowledgements
 Introduction
 1 Formal Justice    Anita Silvers
 2 Distributive Justice    David Wasserman
 3 A Feminist Standpoint    Mary B. Mahowald
 4 Response
    Silvers on Wasserman and Mahowald
    Wasserman on Silvers and Mahowald
    Mahowald on Silvers and Wasserman
 Afterword: Disability, Strategic Action, and Reciprocity   Lawrence C. Becker
 Bibliography
 Index


■内容の(部分的)まとめ ※ 「」は引用 

導入

シルバース…… 「障害者に対して他者よりもより豊富な資源を分配することは、障害者に対して不公正な相互行為実践をなくすよりも保持することで、障害者の人生の展望を暗くしてしまうような状況を再編成することができない。」(5)

→ 「シルバースは障害をもつ人々の社会的孤立をなくし、彼らの平等を促進することは、障害者の個人的欠点や欠陥を修正することではなく、その社会的アクセスに対する外的障壁を改善することによってであると強く主張する」(5)

ワッサーマン…… 「シルバースとは対照的に、ワッサーマンは障害に対する正しい社会的対応は、分配的関心を含むべきであり、インペアメントをもつ人々を劣っているとか無能だなどとみなさないような仕方でそれができると論ずる」(5-6)

とはいえ、従来のやり方は障害を内的な欠陥と見る過度に単純化された見解を反映しており不適切である。問題は自然の不平等に対する補償というものではなく、資源制約と様々なニーズ、利害関心、能力そして目的との超えしであり、それは分配的正義にとって一般的なものであり、障害に特有の問題ではない。(6)

ワッサーマンはインペアメントをもつ人々にとっての正義とはまず何よりもあるいはとりわけて差別の是正であり、また社会的環境の再構成であるというアプローチを考察する。障害は社会的に構築されているという認識は障害を自然の不平等として扱う正義についての理論を修正するのに役立つが、この認識は分配的正義の適切な理論の必要性を取り除かない。環境を変えることで、様々な異なりをもつ人々の利害関心の間での困難なトレードオフに直面することになる。このトレードオフをアドホックなやり方で処理したくないならば、より包括的な正義の理論が必要になる。
 この理論には二つの重要な反論があるだろう。第一に、人々が持っている資源を用いて人々ができることを考慮した福祉の指標(metric)が必要になる。だが適切な指標とはなにか? 最低限の主要な能力の実行を可能にすることを補償すべきか等々。(以上6)
 第二に、正義の理論は、選択された指標に関して受容可能な不平等の程度を決定しなければならない。これは平等を達成するために「レベリングダウン」することについての問題である。
 マホワルドにとって、障害をもつ人々にとっての正義は形式的なものでもなければ分配的なものでもなく、その両者には還元できない多様な立場調停する弁証法的なプロセスである。
マホワルドの見解の基礎にある平等の考え方は、異なる諸個人に等しい価値を与えるというものである。実践的には、社会的優先性の決定について、少数派の(nondominant)諸個人の参加を必要とする。マホワルドはそのためにフェミニスト・スタンドポイント理論の平等主義版を提唱する。女性だけでなく障害者を含む他の少数派の人々にとっての正義も要求される。女性と障害者の利害やニーズが対立するとされるのが選別中絶だが、マホワルドは両者は障害者をケアする負担が軽減されれば両立すると論ずる。(以上 7)
マホワルドの結論は補償問題を再度提起する。現行の障害をもたらすシステムによって傷つけられているのは誰か、誰が補償されるべきか、補償の個人的そして社会的コストの何が許容可能なのか、誰がそれを担うのか等々。これらの問いについてシルバース、ワッサーマン、マホワルドは一致していない。
 これらの議論では、障害について理論化する際の第一段階で論じられる問題が十分に議論されていない。たとえば、インペアメントとディスアビリティの関係性である。(以上8)  歩くことや見ることそして聞くことは、主要な生活活動にとって重要な能力(performance)であるがゆえに、それらを実質的に制約するインペアメントは通常障害とみなされる。だが、別の観点からすれば、歩く能力の欠如(inability)あるいは聴力の欠如は、ある個人がインペアされている証拠ではない。聾文化をもつ人々は聞くことができないが、それは喪失ではないし、したがってインペアされているわけでもない。さらに、すべてのインペアメントがディスエイブルメントを強いるわけではない。他方、ディスエイブルメントはインペアメントなく生じうる。
 さらに、「disabled」という表現を、とくに障害者解放論的な文脈で使い続ける人々の間でも統一的な見解は存在しない。英国の障害者活動家は、「disabled people」という言葉を、disablementとはある種の性質をもつ人々を他の人々と同じく尊重され扱われることから妨げる社会的プロセスだ、ということを強調するために用いる。他方、アメリカの障害者活動家は(以上9)、「people with disabilities」という語を、disablementは個人の内的なものに還元されず、社会的で偶然的な抑圧であるということを強調するために用いる。いずれの国でも、「the disabled」は、非常に異なった種類のインペアメントをもつ諸個人を一つの劣った階層として還元してしまうようなステレオタイプを拒否することと、異なった人々を一つの政治勢力に集結させるという政治的利点を獲得することとの対立に悩まされている。
 本書では、インペアメントとディスアビリティの概念的な関係性の複雑さや、ディスアビリティとパーソンとの辞書的関係性等について、それぞれの論者の用語法で論じられている。全般的には、「障害をもつ人々」は身体的感覚的あるいは認知的インペアメントを持つと一般に考えられている人々の集合体を指しており、「disabled people」はdisablementという社会的プロセスに晒された諸個人の集合を指しており、「the disabled」はそうした諸個人の階層に含まれるそれぞれの諸個人についてではなく、障害を持つ人々の階層についての主張を指している。つまりそれは個人的属性ではなく集合的に帰される文章の主題である。


1 形式的正義(アニタ・シルバース)

① 障害がもたらす不利益は人為的なのか自然なのか
② 我々は道徳的ないし政治的に傷害による不利益を削減する義務があるのか否か。

→ 女性・黒人の問題にも共通する。二十世紀初頭、女性と黒人の社会参加の乏しさと劣位は彼らの才能と性格の自然な結果だとみなされてきた。だが、今やもちろんそうは思われていない。むしろ、社会的編成が恣意的に女性や黒人への差別を促進している、と認識されている。
 では、障害も女性や黒人に対する差別と同じように位置づけられるか。(15) 一般的にはそうではない、と見なされている。つまり障害は社会的編成の問題ではなく医学的、生物学的現象だとされている。(16)

 障害を持つ個人をその不利益に対して直接的に補償するようないかなるアプローチにも私は警戒したい。資源の分配は状況を再編成しえない〔からである〕。障害を持つ人々に対する分配的利益は、彼らを孤立化させる偏見には差し向けられていない。偏見に満ちた実践によって強いられる不利益はその実践それ自体の再編成によって最もうまく扱うことができる。(17)

J・ビッケンバッハからの引用

「障害者に対する資金分配政策は、もっぱら障害を持つ人々に、労働市場から退出するチケットを与えるプログラムになっている。」(19=Jerome Bickenbach, 1993 Physical Disability and Social Policy, Toronto: University of Toronto Press, 121)

なぜ通常の独立した社会的参加から排除されるのか。ブキャナンやダニエルズの議論が参考になる。それらを要するに、障害者を通常の職場等に包摂するコストが、障害者にその能力を発揮するための平等な機会を提供することで得られる利益を相殺し、かつそれを上回るからである。(20-21)「それが障害者を隔離し続ける依存を促進する」(21)。

***中略***

「ADAは匡正的正義(Rectificatory Justice)の一手段である。つまりそれは不正に傷つけるような行為や実践からくる不平等を除去する。」(132)

ADAが利益集団と非営利団体に要求する積極的義務は、インペアメントを負った人々の集団に対する軽視に対する賠償(compensate)である。(132)

分配的正義(138~)

「ADAの基礎になっている理論と同様、私は、障害を持つ人々を平等化するための民主主義的な義務とは匡正的正義を保証することだ、と考える。ノージックは、こうした匡正は(再)分配を必要としないと論じている。それは、「「最終状態」原理ではなく「プロセス」の原理なのであって、諸個人の現行の相互行為を規制するが、何らかの究極的で理念的な「公正」な最終状態のラインに結果をもたらすために、それらの相互行為の結果を調整しようとはしない」と。」(139)

分配プログラムは障害を持つ人々の社会的機会からの排除を促進する。(141)

結論(141~)

「障害を持つ人々を、他者をサポートする人としてではなく他者によってサポートされる人とする分配的な図式は、それによって、障害を持つ人々の親密な相互的ないし互酬的関係性へのアイデンティティを拒否することで、彼らの機会を削減する」(142)

「障害を持つ人々は定義的に弱くあるいは依存的だという図式や考え方を除去すること」が重要だ。偏見に満ちた実践(biased practice)を変える(reshape)必要がある。(142)

「政治的道徳は、民主主義的価値とは、障害を持つ人々の貧窮(neediness)を除去することにあるというよりも、彼らの能力を解放し、それにより彼らの完全かつ重要な市民権を通して、貢献を導くことにあるという点を認識すべきである。  これに反して、次のように論じられるかもしれない。つまり身体的、感覚的そして認知的インペアメントはあまりにも広範にわたりうるため、インペアメントを持つ諸個人にとって意義のある社会的参加を達成する見込みはほとんどないだろう、と。」(143)

とはいえ、「私たちは、我々が今知的障害をもっているために機能不全であるとみなしている多くの人々が、施設化以前の時代には生産的な役割を見出していたということを思い起こすべきであり、しかし我々の現在の障害システムが採用されて以来、彼らは非障害者の人々の生産性に合わせるには非生産的だとみなされるようになった、ということを想起すべきである」(143-144)

「ここで私が論じてきたことは、インペアされた人々に大きな利益を与える分配的シェーマを支持することを除外しているわけではない。だが、そうした配分シェーマは障害を持つ人々に対して全般的に正義をなすことにはならないし、彼らを平等化することでもないという点を理解すべきだ。」(144)

たしかに、

「資源配分は、エヴァ・キテイが「依存労働者」と呼んだ役割(個人的援助者や他のヘルパー)を受け入れる人々を支援する。依存労働者という媒介を通したケア提供に対する資源分配は、さもなければ一人でそれを負わせられていたケア提供者の負担の不平等を軽減する。……だが、この図式は彼らに依存する人々の平等ではない。
 分配的正義の図式は、ケア提供に対する彼ら〔依存労働者〕の個人的責任を集合的義務へと転換することで、障害者よりもむしろ非障害者を平等化するのである。」(144)

「障害者にとって平等が意味するのは、彼らの場を、秩序だった協働的な社会的そして文化的な扱いに対する十分な貢献者として扱うことである。彼らにとって正義が提供すべきものとは、まずは、完全な参加的市民権としての認知度であり、彼らを他者よりもニーディーな者としてターゲット化するようなスポットライトではない。」(145)


2 分配的正義(デイヴィッド・ワッサーマン)

障害を持つ人々への対策(provision)には二つの解釈がある。
 一つは修復的(restorative)あるいは補償的(compensatory)なものである。それは諸個人を、機能的基準であれ福利の基準であれ何らかの基準に戻そうとするか、あるいはその基準レベルに達していないことについて補償しようとする。基準は多様である。怪我や病気以前の状態であったり、ソーシャルミニマムであったりあるいは社会の平均であったりする。補償の形式もまた多様だ。ある場合には正常な機能に修復するための医学的処置であるし、また正常な機能を補償するためのリハビリトレーニングだったりする。あるいは、現金(cash)の場合もある。とはいえいずれにしても、個人は彼の障害を理由にして、他の人々が享受するモノよりもより多くの、あるいはそれとは異なる財やサービスを受け取る。(以上147)
 これとは異なり、禁止政策という対策もある。それは差別禁止を目指す。両者の違いは一見分かりやすいが、実はクリアではない。障害を持つ人々にとっての平等な機会やアクセスは、往々にして、それに配慮する(accommodate)ような構造的な変化を必要とする。認知障害を持つ子どもに適した教育は、正常な認知機能を持つ子どもにとって適切な教育とは、重要な点で異なるだろう。いずれの対策も平等をめざしておりまたその達成のために似たような改変を命ずるのだが、とはいえ補償的解釈と反差別解釈はある重要な点で異なる。
 しばしば二つの解釈は異なるだけでなく、一貫しないと言われている。障害を持つ人々を特別な援助を必要とする人として扱うことは、彼らを劣った者として扱うことであり、第二の解釈が根絶しようとしている差別そのものを正当化ないし裏書きする、と。これはとくに「正常化」という点に向けられる。また、正常な機能の達成に失敗した人びとを保証しようとする尺度も問題になる。
 以下で論ずるのは、この非一貫性の主張を回避できる、ということである。補償的解釈は、機能欠損を持つ人々への特別な支援としてではなく、社会正義の一般的な説明の一部として理解するならば、必ずしも障害を持つ人々を貶めるものではない。補償的な解釈が分配的正義についてのより全般的な説明を必要とするならば、同じことが反差別解釈についても言える。
 障害とは個人とその環境のミスマッチのことであるという認識が示唆するのは、分配を狭い意味で理解する限り正義は達成されないということである。(以上148)障害者が経験する不利益の改善は所得分配としての正義の問題を超えている。
 とはいえ障害の社会的構成を認識したとして、しかし医学的介入ではなく環境改善だけを目指すべきだということにもならない。様々に異なる能力を持つ人々にとって公正な適合の方法を決める必要があり、異なる集団にうまく合うような構造的・組織的編成のあいだでのコンフリクトに裁定を下すべきだからだ。純粋な手続き的アプローチを採用しない以上は、この問題を避けることはできない。
 同時に、障害者に対する正義を自然の不利益に対する補償問題として解釈することもできない。不平等な自然資源と不平等な社会的資源を区別したり、自然の原因と社会的原因の間で不利益を振り分けるためのいかなる原理も存在しない。様々な方法が必要になる。とはいえこれは再分配や再構築の程度に限界を設定できないということではなく、その限界は政治的諸価値の困難なバランスの上で設定されるということである。

障害と公正な資源分配

最近の哲学的文献において、障害は、分配的正義のために提唱される福利の「通貨/指標(currency)」の適切性にとって難問を提起するものとなっている。(149)福利の評価のために外的資源だけに依存することは、「商品フェティシズム」と同じである。とはいえ、外的資源が福利に与える多様な影響を考慮できる方法はあるのか。二つの選択肢がある。(1)我々は「内的資源」を資源のなかに含めることができる。(2)人々の厚生に対する分配的正義の適切な対象subjectを採用できる。とはいえいずれにしてえも、外的資源基準としては少なくとも不十分に思える。
 内的資源の平等分配は平等達成のために内的資源の実際の再分配を要求するか、あるいは全ての人が等しく全員の身体と能力を分有できるような再分配体制を要求するだろう。前者と異なり後者はたしかに外科的介入を必要とはしないだろうが、それでも「有能な者の奴隷化」をもたらすだろう。
 この厚生指標(welfare metric)の要求は、ほとんどの哲学者が拒否する「社会的ハイジャック」になるだろう。厚生基準はある人々にあまりに多く要求し、別の人々にあまりに少なく要求する。(150)また、この立場は、重度障害や重症者の多幸症的な傾向や倹しい人生展望に対しては、たとえそれが安い薬等で簡単に改善できるとしても、配慮しない。
 厚生主義を維持しつつ社会的ハイジャックの危険を避ける一つの道は、アーネソンの厚生への「機会」の平等論であり、障害をこの機会を制約するものとして扱うことである。アーネソンは、政治共同体のすべての成員が選好充足としての厚生に対する平等な機会をもつときに、適切な平等が得られるとする。周知の適応的選好形成問題がある。これに対応するためには、仮設的ないし基準的選好セットを参照する必要があるだろう。障害を機械制約として理解しようとするこの試みは大きな意義がある。
 リベラルな哲学者たちは「商品フェティシズム」、「才能ある者の奴隷化」、「社会的ハイジャック」のトリレンマを避けようとしてきた。

「機能をインペアされた人々が、幅広い財や、広範な目的を上手く利用する(utilization)ための必定条件を欠いているとみなされるとして、彼らの欠如を是正ないし補償(restore or compensate)するための尺度は、彼らの不利益を、他者に厄介な負担を強いることなく、あるいは異なる人生の諸目的の間での中立性を侵害せずに、軽減できるものだろう」(151)

 そのために近年、障害を考慮するためのいくつかの全く異なる試みがなされてきている。
 資源指標(resource metrics)を保持し、しかし外的資源から得られる効用ないし利益に対する制約に配慮しようとする議論がある。二つの方法がありうる。一つは医学的・治療的サービスの提供。もう一つは外的資源のより多くの配分。また、これとは異なり、センを含めて障害者の被る不利益は、資源指標よりもよりセンシティブな、福利についての異なる尺度を通して考慮されるべきだと言う者もいる。以下では、まず資源ベースのアプローチから始めて、センのケイパビリティアプローチは後に扱おう。それにより、正義と障害についてのリベラルな理論が果たして、それに対する批判に応ずることができているかどうかを考察したい。

ロールズ流の枠組みにおける障害

目的遂行のための正常な感覚機能と運動機能を、他の社会的基本財よりも優先されるべき平等な機会という枠組みで扱う議論がある。二人いる。一人がノーマン・ダニエルズの「正常な種の機能」論であり、もう一人はトマス・ポッゲの大まかな平等な「健康保護」論である。

機会の厚生な平等

ダニエルズによれば、健康の優先性は、インペアメントの治療を含めて、機会の公正な平等を達成する手段とされる。(152)社会は福利に影響を与える全ての自然の差異を除去しようとはしないが、ヘルスケアニーズは優先性をもつ。スキルやタレントはそこには入らない。
 ダニエルズは、クリストファー・ブース(Chiristopher Boorse)による健康と病気についての生物学的説明を採用する。正常な機能は種に相関的に定義される。
 ダニエルズは「スキルとタレント」を定義していないが、明らかにそれらを一般的意味で、正常な機能に対して大きく関係するものとして理解している。ある種のスキルやタレントは解剖学的かつ生理学的機能によって定義される。たとえば、走ったりジャンプしたりするスキルは足の特定の運動を必要とする等々。(153) 他のスキルやタレント――おそらくそれが大多数だが――は、より偶然的な関係しかもたない。スキルは様々な機能の組み合わせで遂行される。そしてそれらのスキルは機能のさまざまな組み合わせだけでなく、社会環境の組み合わせにも依存する。では、なぜ異常な機能は「他者に対する特別な要求」を可能とするのか?
 ダニエルズは、異常なあるいはインペアされた機能の重要性を、それらが幸福を削減するという理由で主張する。彼によれば、正常な種の機能のインペアメントが特別な配慮に値するのは、それらが「「人生設計」を構想する際、あるいは善き生について構想する際に諸個人に開かれた機会の幅を削減する」からである。他方、スキルやタレントもまた機会の幅に影響するが、平等は、それらの機会が「同じようなスキルとタレントをもつ人々に等しくある」ことしか要求しないので、スキル等の違いは機会の厚生な平等を否定するものではない。これは定義上そうだとされている。
 だが、もちろんスキルやタレントが機会の平等の対象になると「定義」することもできる。いずれにしてもダニエルズは、なぜ機能の正常化が問題であり、スキルやタレントの平等化はそうではない、とするのか。
 直観的には分からないでもない。ダニエルズは「ライフプラン」を区別の基準にしている。(154) 「ライフプラン」は正常な機能のインペアメントとタレント不足を区別する基準にはならないだろう。ミュージシャンや役者になりたいというライフプランが、彼のタレントの欠如ゆえに閉ざされることを考えてみれば分かる。
 インペアされることとアンタレントであることの間に、いかなるカテゴリカルな差異もないことが、ダニエルズにより深刻な問題をもたらす。ダニエルズによれば、一つのインペアメントでも機会の公正な平等を否定するが、タレントのフルセットが正常の範囲内であれば、その不足は公正な平等を否定するものではないとされる。たとえば、感覚的ないし運動機能にインペアメントをもつ天才は、医学的介入などなくても、健康な凡人よりもはるかに大きな機会をもつだろう。
 仮にダニエルズの主張が直観的アピールをもつとすれば、それは「後天的な」インペアメントと「先天的な」不足(deficts)という暗黙の対比に由来するからだと思われる。後天的インペアメントは人々に入手可能だった機会を否定する。タレントの発展と維持の失敗は、人々の機会の範囲に対する影響が大きかったとしても、見え難い。しかし、ダニエルズにとってこの違いは問題にならないはずである。彼は「特定のライフプランをもち、あるスキルをそれにそって培ってきた個人からパースペクティブ」を導き出そうとしているからである。この混乱を除去すれば、タレントと機能の区別の恣意性は明らかだろう。(155)
 また、ダニエルズは「人種差別や性差別」との類比で、病気やインペアメンによる機会の制約は「自然の不正義」であるのに対して、人種差別等は差別的な配分の結果だと述べている。とはいえ、もしそうだとして、この不正義はスキルやタレントについても言える。またさらに、物理的デザインや社会組織等、障害者に対する差別を訴える議論もある。それらの是正はヘルスケアの問題ではなく、社会の再編成の問題だろう。
 ダニエルズの最期の議論は、ロールズの格差原理の対象をめぐっている。タレントの不平等による成功への不平等なチャンスは、格差原理等の方法で補償されうる、と。だが、インペアメントによる制約を補償できない理由はない。たしかにインペアメントに対して格差原理を用いた補償は不適切である。とはいえ、ダニエルズがインペアされた状態よりもタレントの不足に対して補償は適切だ、という理由をどこにも提示していないことは確かである。
 ダニエルズは正常な機能に対する優先性が道徳的に恣意的でありうることを認めている。だがダニエルズは我々の社会における平等な機会についての標準的な考え方を持ち出して自らの議論を擁護する。(156)とはいえ、多くの批判者が言うように、それは安定したものではない。
 また、異常な機能とタレントの欠如について彼は、コンセンサスという基準を持ち出す。スキルやタレントを補償すると補償が過剰になる、と。だが、このアプローチについて言えば、同じことがインペアメントの是正についても言えてしまうだろう。
 ダニエルズの二項対立の政治的帰結は、たとえば近年の学習障害等々の障害のインフレ〔この表現は堀田〕となるだろう(157)。結局のところ、ダニエルズの機会の厚生な平等の観念は、あまりに少ない人々に対して、あまりに多くのことを要求する議論である。

平等な健康保護

 ロールズ流の議論のもう一つのタイプとしてポッゲを取り上げよう。ポッゲによれば、ダニエルズの優先性論は、自然の賦与の偶然性を除去(nullify)すべきだというロールズの議論をあまりに強く解釈しすぎている。それに対してロールズ自身はより「弱い解釈」を採用している。つまり社会は自然の不平等を「緩和する(mitigate)」ことを要求するだけである、と。(158)
 ポッゲはヘルスケアに対する制約ある指令(imperative)を採用することで、ダニエルズのヘルスケア例外論を斥ける。同時にポッゲは医療ケアが「大きな戦略的な重要性」をもつことも認める。では、この両者はどのように両立するのか。健康が富に依存しないように「健康保護」の分配に制約をかけるというのがポッゲの案だ。ポッゲはこれを平等な教育の機会との類比で説明する。それによれば、教育の平等な機会が教育上の等しい達成を要請市内のと同じく、「平等な医療への機会」は平等な健康を要請しない。(159)とはいえ、このことは医療ケアは、より大きな生産性達成や、より基本的な社会的財のための単なる手段としてのみ分配されるのではない、ということになるだろう。誰もがおおむね平等な健康保護に対する資源への権限をもつだろう。健康や正常な機能に対する辞書的優先性がある。
 ではこのポッゲの枠組みを障害に適用するとどうなるか。ポッゲは中産階級の利害関心――ディーセントミニマム――に依拠している。もし中産階級の障害者が車椅子等を得ることができるならば、貧困層の障害者にもそれが保証される、ということになる。
 同時に、ポッゲはこの保険を、どの状態がカバーされるかを決定する政治的プロセスによって制約する。遺伝的ハンディキャップをもつ人により多くが要求されるならば、なぜ健康保護を使い果たした人にもより多くの資源が要求されないのか、と。(160)
 このポッゲの保険は、オレゴンの保健医療割当法案――障害をもつ人にむしろ少なくしか資源が割り当てられないような計画――に近づく。この種の計画はポッゲの基準を満たす。
 これが示唆するのは、教育資源と医療資源の間の基本的な非-類似性である。彼は教育を単一のサービスないし資源とみなし、医療サービスないし資源を無限に分割できる資源とみなしている。彼が教育を単一の資源とみなしているがゆえに、ポッゲは、あまり利口でない学生は――貧困であれ中産階級であれ――、重要な教育的利益を補償されると信じることができるのである。高い知性をもつ中産階級の人々が自分たちのために重要な教育資源を購入すると、学習が遅い人は貧困であっても、同じ一般的な教育機会を保障されるだろうと。それに対して、健康保護はそうではない。中産階級の障害のない人々の自己利益は、中産階級ないし貧困な障害者の健康保護にほとんど関係しないだろう。
 ポッゲは病気や障害に対する、より広範な社会的対応については手付かずにしている。彼の見解に一貫させるなら(161)、医学的条件が社会的に生み出される場合には、正義は「完全な健康保護」を要請すると言わなければならないはずである。彼はたしかに自然に生み出される医学的状態と社会的に算出されるものの区別は困難だということを認識している。
 だが、両者の区別を曖昧にする深い源泉がある。病気や怪我についてもストレスや交通事故等々がある。
 障害のもたらす不利益については、自然的/社会的の区別はさらに難しくなる。(162)
 つまるところ、不利益が自然の産物か社会的な産物かを区別することの困難さは、制限的な健康保護と完全な健康保護というポッゲの線引きを難しくする。

ロールズ的アプローチの比較

ポッゲによる平等な健康保護基準は、病気と障害に対する僅かでありかつ非常に不確定な供給になり、他方ダニエルズの機会の厚生な平等は、多大な分配要求を生じさせる。これらの相補的な極論は、機会を他の社会的基本財に辞書的に優先させる、というロールズ流の枠組みの厳格性を部分的に反映している。(163)
 とはいえ、ポッゲもダニエルズも、福利の完全な平等化という立場に立たずに、福利における深刻な格差を緩和するための原理的基礎を見出そうとしている点で一致する。彼らが一致しているヘルスケアの辞書的優先性は、次の二つの前提に基づく。(1)ある資源ないし機能が広範な効用をもつならば、その平等化は他のモノよりも優先される。(2)健康や正常な機能は多様な目的にとって有用であり決定的なモノだ。だがこの二つとも、一見したところに反して妥当ではない。

「第一点について言えば、ジェームズ・グリフィンは、より一般的なニーズに優先性を与えることは、汎用性と緊急性の葛藤を反映しているだろう、と論じている。つまり、ある財ないし機能がほとんどすべての人々の人生計画にとって有用だという事実が、財ないし価値の間の特定の対立においてそれに優先性を与えることはない。諸個人と社会は往々にして、より「基本的」な利害関心たとえば栄養状態等々と、より非普遍的な利害関心たとえば知識や美等々の確保との間でトレードオフを行う――個人は密教の求道の過程で〔断食等により〕飢えることもある。社会は、高い塀と広い路肩を備えた高速道路ではなく、景観重視の道路をつくることによって、怪我と死の危険性を高めている。」(164)

たしかに、ある資源ないし機能の汎用性(broad utility)はその獲得ないし所有は、政府が個人の人生設計を確実にするための福利の有用な指標になりうる。だが、これを認めたとしても(164)、最低限を超える諸機会の数ないしその範囲の大きさがどの程度ならば、個人的福利に多く貢献するか、あるいは社会的に有用な指標になるかどうかは疑問である。この論点は「分配的正義に立ち帰る」章で扱うことにする。
 第二の前提は、病気とインペアメントとの間の重要な差異を無視してしまっている。機能のインペアメントが病気から生ずることもあるが、多くの病気とは異なり、インペアメントは一般に持続的ないし劇的な痛みを伴わないし、機能を徐々に衰弱させたり喪失したりすることもないし、差し迫った生命の危機を伴うこともない。病気とインペアメントの違いを看過することが、適理的な目的追求の機会に対するインペアメントの影響に関する見方を歪めているのだが、それだけが問題の源泉ではない。同様の歪みがドゥオーキンによる仮設的障害保険についても言える。それはインペアメントを病気ではなく、才能(talent)の不足に近づける図式である。

仮設的障害保険論

 ドゥオーキンの保険はポッゲとは異なり、ある状態に陥ることに対して人々が購入することを予期されうるような額の保険を反映することで、状態の深刻さに応じた形で保険を支払う。つまりポッゲよりもより柔軟かつ寛大な分配論である。
 また、ドゥオーキンの説明は、ダニエルズの議論を重要な点で改善してもいる。障害と才能の不足を「程度の問題(one of degree)」として扱い、両者に補償できるような仮設的保険図式を提示しているからだ。ジェローム・ビッケンバッハが指摘するように、ドゥオーキンは、生物学的賦与と社会環境の相互作用から生ずる才能の不足と同じく、不利益がインペアメントに結びついていることを認識している。(165-6) だが彼は、才能の不足の影響はインペアメントの影響のように一般化できないとする。才能は企図(ambtions)と密接な関係にあるからだと言う。盲目や四肢まひ等のインペアメントは人生計画に広範に実質的な影響を与えるとされる。
 仮設的保険市場はどの状態が補償されるかだけでなく、いくら補償されるかの決定も社会的コンセンサスに委ねる。

※ ドゥオーキンの議論のまとめ(必ずしもWassermanの記述どおりではない:堀田)

ドゥオーキンによれば、障害への仮設的保険市場は、障害がどれくらいの補償に値するかについての多くの人――「平均人」――の選好は概ね一致するので、障害に対する保険料が、社会成員の奇妙なリスク選好や、企図(ambition)の違いによって大幅に変わるということはない。またたしかに、仮設的保険市場の設定、つまり自分が障害をもつか否かについて無知な状況では、個々人は人生に対してどんな企図を抱くかが変わるならば、――どの能力をどの程度評価するかは個々人の企図に応じて変わるので――保険料が一定の水準に至るかどうかは「不明確」かもしれない。それが不明確であるならば、厚生ベースの議論へのオルタナティブにならない。だが、ドゥオーキンは、「普通の身体障害(ordinaly handicaps)の場合には一般化が可能であることから、この不明確さにうまく対処することが可能である」(訳書:132)とする。それに対して、能力(skills/talents)についてはそうはいかないと述べて、「障害保険」と「能力保険(あるいは雇用保険)」を区別し、無知のベールの位置を変えて対応しようとしている。障害保険は、自らの障害の有無について無知だが、企図および能力の社会的分布は知っている状況で掛けられるとするのに対して、能力保険は、能力と企図を知っているが、能力の社会的分布(どの能力がどの程度社会的に評価されるか)については無知な状況とされている。とはいえ、他方、ドゥオーキンは障害と能力は「程度の相違」だ、とも述べている(訳書:130)。

ドゥオーキンは、客観的により大きな緊急性や優先性を賦与せずに、典型的な機能の汎用性を説明する。
ドゥオーキンの議論は詳細に検討するに値する。というのはその重要な利点にもかかわらず、分配的正義についてのリベラルな理論が障害に適用される際の最も重大な二つの落とし穴を明快に示しているからだ。第一に、人生計画と福利に対するインペアメントの影響を肯定するさいに、仮設的選択状況は、不在(absence)と喪失(loss)の混同を招く。第二に、個人の分配的分け前に焦点化する際、多くのインペアメントに結びつく制約を最も効果的に軽減する、構造的かつ組織的な改変を考慮に入れることが困難になる。ドゥオーキンの議論はポッゲやダニエルズの提案よりも柔軟ではあるが、障害をもつ人々が最も明白に権原をもつと思われるようなタイプの配慮(accommodation)を説明できない。
 もし障害が資源不足とみなされないならば、障害をもつ人々は等しい物質的な分け前を超えて何も受け取ることができないし、それは平等な配慮と尊重という考え方に整合しない(166-7)。だが、能力が資源であるとしても、それらは物質的資源と同じ意味で平等理論にとって資源であるとは言えない。なぜなら操作・移転できないからである。スキルや才能等の生産的能力は平等な分配の対象ではない。
 障害を無視することも、能力を割当可能な資源として扱うこともできない以上、資源平等論者にとって採用可能な選択肢はどのようなものか? ドゥオーキンは、ダニエルズのような方策、つまり共同体の資源をまずは機能のミニマムな水準に万人が達するために用いて、残りを平等に分配する、という方策を退ける。こうした調整は「正常な人間の能力という指標」を必要とするが、それにはドゥオーキンは懐疑的だからである。仮にそのような指標を得ることができたとして、治癒不可能な障害に対してそれを達成するためには社会資源を使い果たすことになるか、あるいはポッゲのように障害に対する切りつめられた分配に至るような政治的妥協を導くかのいずれかである。
 こうして、ドゥオーキンは、様々な不足に対する補償を、自らの能力を知らない人々が仮設的市場で購入する保険額の平均レベルに基づいて算出するという方法を提唱する。これは正常な力の尺度に依存しない。(167)
 ドゥオーキンは、人々の保険をかけたいという思いが非常に多様であることの重要性を認識はしている。ただ、障害に対しては、人々はおおむね同じ評価を下すだろうと述べている。この前提によって、ドゥオーキンはロールズと似た仕方で価値中立性を保持しようとしている。人々の欲求がどんなものであれ、欲される主要な能力がある、と。ドゥオーキンは、ロールズの基本財のような社会学的・心理学的一般化によってでも、また、生物学的理論を通してでもなく、社会的コンセンサスによってこうした諸能力を同定する。
 オークション参加者の熟慮を経た判断が、障害を補償するための価値中立的な基礎を提供する、と。(168)
 だが、ここにはいくつかの重大な難点がある。それは部分的には、分配的正義の問題を、社会資源を諸個人の資源の束へと分割することだ、という形で理解するドゥオーキンの考え方から生ずる。また、その難点はもう一つ、障害をもつ人々に対する正義の要請を明らかにするために仮設的無知(hypothetical ignorance)を用いることの困難を反映している。
 第一に、ドゥオーキンのオークションは障害者の主張のもつ重要な道徳的特徴を考慮に入れることはできない。改善的ないし補償的装置の――「現物」支払い――限定と、個人的援助を超えて、物理的構造と社会制度のデザインにおける配慮(accommodation)に対する主張である。これらはいずれも、仮設的オークションによって生み出される個人的権限という言葉では説明困難である。
 ドゥオーキンも仮設的な競り人が障害に対して改善的手段を望むかもしれないということを認識してはいる。だが、個々人は保険を彼女自身のために購入するとされている以上、集合的行動については明らかに問題を生じさせることになるだろう。

 「このような、障害をもつ人々の主張を認めることと、仮設的保険政策の支払との間の齟齬は、分配的正義の問題を、社会資源を諸個人の取り分に分割することだと考えるようなアプローチの限界を反映している。」(169)

ドゥオーキンにとって、他のリべルな政治哲学者と同じく、障害への配慮の問題は「物質的資源の所有権は身体的・精神的な力における差異によってどこまで影響を受けるべきかを決定する」ことである。これをドゥオーキンは、身体的・精神的な力を移転可能な資源として扱うことに反対する文章の中で述べているが、彼の問題枠組みは、諸個人の物質的資源の所有権を変えることへと問題の解決策を限定するため、障害をもつ人々のアクセスと参加を許容するための社会構造と社会組織における改変を看過する。
 第二の問題は、仮設的な障害に対する「保険への意思」が公正な補償の基礎を提供する、という考え方にある。リスク評価に間違いやバイアスがある可能性があるからだ。
 この問題は、仮設的選択状況における通常の人々を、理性的な意思決定者へと置き変えるならば除去されるかもしれない。(170)だが、完全に理性的な意思決定者を想定したとしても、仮設的選択を用いることにはより大きな問題が残される。我々は、障害に関する知識を除外して契約することはできない。深刻な障害をもたない人々は、障害をもつ人々の人生の展望を評価することは困難だろう。過少評価する可能性がある。
 皮肉なことに、「健常者」が障害をもって生活することの悲惨さを過度に評価する危険性もありうる。これは、障害をもって生き続けることの価値を、障害をもつ人々よりも健康な人々のほうが低く評価したオレゴン保険優先計画が示唆している。我々は仮設的意思決定者はテレシアース〔オイディプス神話に登場する盲目の予言者〕ではなく合理的であると考えることはできる。つまり、仮設的意思決定者は、感覚機能・運動機能において異なるセットをもって生まれた人々、ないし長い期間その状態にある人々のパースペクティブを比較することはできない。
 さらに保険料に関して問題は増幅する。現実の保険は「喪失」に対して購入される。だが、機能の「不在」に対する保険にとって、このアプローチは極めてミスリーディングである。
 生来の障害者は、機能の喪失を経験しない。「選択のコンテクスト」がある。ドゥオーキンは、人びとの企図が彼の才能と表裏一体であり、彼の機能とは結びついていないと〔述べているがそう〕いう根拠をどこにも提示していない(171-2)。機能とライフプランの間の結び付きは、ドゥオーキンが思っているよりも緊密である。

障害と差別

ダニエルズ、ポッゲ、ドゥオーキンはそれぞれ異なる議論を展開しており補償の範囲も異なるが、共有されていることがある。(172)それは、インペアメントを、外的資源を福利に転換するための個人的な能力不足として、あるいは外的資源を彼らの選択した目標に役だつモノにする能力の不足として扱う点である。
 この図式は反論がある。障害者が外的資源を目的に役だつように用いることを困難にしているのは物理的構造と社会組織がそうしているからだ、と。従来の議論は自然の差異に結び付けられる不平等が社会的であるその程度を看過している。(173)
 反差別アプローチの擁護者は、単に障害に結び付けられる不利益の多くが環境的起源をもつということや、環境の再構成を障害に対する社会的対応として主張するだけではない。そうした改変を他の主張よりも道徳的により喫緊のものだと考えている。つまり彼らはダニエルズと同様、インペアメントに結び付けられる不利益の除去が単なる分配的正義の緩和よりも優先されるべきだとする。(174)
 だが障害に結びついた不利益が社会環境に媒介されているという認識はそれ自体は、資源の再分配に対する主張よりも社会の再構成に対する主張の方が切迫しているということにはならない。他の人々、いまや価値のなくなったスキルの持ち主にも同じことが言える(程度問題である)。追加的理由が必要である。
 それは、この不利益の源泉が侮辱的で軽蔑的な態度にあるという主張である。有色の人々と同じく障害者は社会の多数派によって道徳的に平等な人間とみなされていない。それゆえそれが意図的な排除の帰結ではなくても、彼らを除外することは、市場や政治過程の変化によって生ずる分配的不正義の除去よりもより大きな切迫性をもつ。偏見や侮辱の結果の改善(compensating)は他のさまざまなかたちでの再分配よりも優先されるべきである。
 道徳的切迫性をもつと言えるとして、しかし、インペアメントに結び付けられる不利益がそのような源泉をもつという主張を擁護する必要がある。(175)
 〔ゴフマンのスティグマ論を参照して〕我々が障害者の「生活機会を効果的にあまり考えずに削減」する最も重要かつ広範囲なやり方は、非常に限られた身体的精神的状態の人〔健常者〕だけに配慮した社会の物理的構造と社会組織をデザインすることによってである。
 このような障害をもつ人々をマイノリティ集団として、障害を差別的な社会編成の産物とするような理解は、ADAの根拠になっている。(176)
 ADAの差別に対する対応策は、承認と再分配の主張のハイブリッドである。
 ADAの対応策を拒否する学者もいる。彼らは人種とジェンダーのアナロジー〔で障害を扱うことは〕不適切だとしている。ジェローム・ビッケンバッハは次のように論じている。

 「障害者をマイノリティ集団と同一視することは根本的に間違いであり、平等の拒否を伴う無力化の過程を差別と同一視することも間違いである。その全く反対で、身体的・精神的差異派、普遍的な人間の条件であり、そのインペアメントとディスアビリティを生きる人々はマイノリティではなく、他から切り離された集団ではない。様々に異なる精神的・身体的差異への社会的対応は非常に多様であるというだけでなく、様々に異なる障害をもつ人々の間には、ほとんど共通の経験も感覚も連帯も存在しない」

ビッケンバッハは障害者は人種的・民族的マイノリティがそうであるような意味で他から切り離された集団ではないという点で正しい。様々に異なる経験がスティグマの特徴であり、また障害の広範さも差別に反対する証拠にはなりにくいだろう。(177)子供や高齢者についてもそれは言えるからである。また、差別概念そのものが非常に広く使われていて、ここで必要な用途に使えるものではない。とはいえ、そのポテンシャルは探求するに値する。
 まず、フェミニズムの主張と親和的である。フェミニズムは形式的正義と「異常」な状態に対する特別扱いとの二者択一を拒否し、支配的規範を批判してきた。
 
「この立場は、一世代前にJacobus tenBroekによってすでに予見されていた。彼は、障害者の「世界に暮らす」権利は我々の物理的・社会的秩序の全面的な変革を必要とする、と論じていた。つまりそれは、単に建物や公共空間のデザインだけではなく、障害者が公的な場所を移動することに対する、歩行者、ドライバー、運送業者、資産家等によって担われるケアの義務における変革を要求する、と」(178-9) ※ Jacobus tenBroek “The Right to Live in the World: The Disabled in the Law of Torts” California Law Review 54(1966)

女性の平等な処遇が、従来とは違うより高価な設備を要求するとするならば、障害者にも同じことが言えるとも思える。
とはいえ、差別除去のためには障害者の方が女性よりもより広範囲のコミットメントを要する。
 ADAの前身の法(1974年のVocational Rehabilitation Act)でも、どこまですればよいのか、ということは問題になっていた。またADAは平等な移動のアクセスを命ずるが、多くの障害者のための特別な要請は、他の多くの人々にはるかに多大な移動の負担を伴うことになる。(179)もし、さらなる平等化が「簡単に達成できるもの」でないならば、あるいは「過度の負担(undue burden)」になったり「他の人々の健康と安全を直接脅かす」ことになるならば、障害者と健常者の間の差異はADAでも認められている。(179-80) これは障害者の権利擁護派によって批判されてはいる、だが、いかにして完全に平等化するかを考えることは容易ではない。また全面的な不平等の除去は不可能でありコストがかかり過ぎる。
 tenBroekでさえ「統合政策は限界をもっている。つまり障害者の身体的限界を超えてまでそれを押し進めることはできない」と結論づけている。この「障害者の身体的限界」に加えて、技術的限界と経済的限界がある。(180)
 これは単にADAだけの問題ではない。そもそも合理的配慮とは何か、「過度な負担」とは何か、どこまで何をすればよいのか、ということがつねに問題になるからだ。たとえば、歴史的建造物をバリアフリーにすることまでも含むのか。
 こうした点は曖昧であり、この非決定性が、反差別分析の適用を複雑にしており、実践的にも重要な難点を提起している。物理的構造と社会的実践が非常に狭く限定されているということに同意するとして、それと、我々はそこから排除される人々への差別を終わらせるための構造と実践の再構築をどこまですべきか、ということを決定することとは全く別である。

「アムンドソンが言うように、「社会的ハイジャックがもたらす経済破綻のリスク(risking bankruptcy from social hijacking)」を伴わない仕方で、障害者の権利を補償するための理に適った方法はあるのだろうか?」(181)

いかなる精神的ないし身体的条件をもつ人も全ての人々にとって厳密な負担あるいは利益の平等化のために、構造と実践をデザインするという要求は、明らかに問題があるし、障害者の権利擁護派から提起されたこともなかった。(181)
 反差別アプローチを評価ないし洗練させるための提案として、これまで二つのものがある。第一に、自然のバリアの除去の失敗と、人為的なものによる負荷を区別し、後者だけを市民権の侵害として扱うという方法。もう一つは、既存の社会編成を、障害をもつ人々が相対的に無力なマイノリティではないような社会編成と比較して、テストするという方法である。

ハンディキャップを与える特徴を自然と人為に区別すること

アムンドソンは社会的ハイジャックという亡霊は誇張され過ぎていると示唆している。たしかに盲人が飛行機のパイロットになれるように配慮することはできないが、しかし、公共交通機関に車椅子でアクセスできるようにすることはそうだとは思えない。後者も社会的ハイジャックだという結論を避けるためにアムンドソンは自然の制約と社会的に構築された制約とを区別する。(182)
 とはいえ、人間の選択、社会的編成から独立したバリアはほとんど存在しないだろう。たとえばアムンドソンは人為で生み出されたバリアと、何もしないこと、つまり不作為で生み出されたバリアを区別している。だが、作為と不作為の区別は病気よりもさらに障害にとっては分かりにくい。というのも、障害は身体の内的状況ではなくむしろ、個人の機能とその環境の間の相互作用だからだ。(183)
 ほとんどすべてが社会的だと言える。また、G・A・コーエンが述べるように、たとえば「自然状態」として誰にも何も占有されていない状態をベースラインに置くとして、しかしそれは、すべてが共有されている状態を考えれば、ある特定の判断がすでに下されている。(184-5)

障害者が多数派であるという基準

アニタ・シルバースは仮想的状況を想定し、その状況と現状を比較するというテストを提案している。(185)障害者が多数派であり健常者が少数派であるという状況が試金石にされる。
 このシルバースのテストを「人口統計的テスト」と呼ぼう。だが、このテストは妥当ではない。障害者が多数派の社会ではそもそも発展の仕方が違っていたはずであり、それを考慮に入れなければ比較にならないからだ。(186)
 また、このテストを配慮の基準とするためには、更なる問題がある。第一に、障害者が多数派の社会は、たとえば認知障害がある人々が多数派の社会では、政治機構等を含めて現在の社会よりも非生産的になり、諸個人が抱くことが可能な人生プランはより悪いものになるだろう。
 第二に、このテストはマキシマムを設定しないだけでなくミニマムも設定できない。仮想的社会ではより配慮があると言えるとして、それは我々の社会での配慮要求を正当化しない。(187)
 コストが大きくなるからである。彼らが多数派の社会に置いてより大きな配慮を享受するという事実は、コストに関わらず我々に同じ配慮を要求することにはならないだろう。我々は、我々自身のQOLを犠牲にすべきだとは感じないだろう。
 「社会的ハイジャック」は斥けるべきであるが、同時に、我々は形式的正義を超えた別の代替案ないし改変への義務があることを認めている。(188-9)
 たとえばシルバースの人口統計テストが決定的な答えをもたらすとしても、それは道徳的に説得力のある答えをもたらさない。

分配的正義への回帰

問題は正しい配慮にある。そしてそれは障害者政策に特有の問題ではなく、より一般的な正義の問題である。(189)
物理的社会的組織の公正性の評価は、利益の比較のために何らかの指標(metric)を必要とする。
仮に利益の比較のための適切な尺度を見出すことができたとして、依然として我々は、正義が許容可能な利益における格差の程度を決定しなければならない。これら二つの問題は独立していない。なぜなら我々がより包括的な福利の尺度を採用すると、平等化に課される要求もより大きくなるだろうからである。(190)

基本財リストの拡大

基本財のなかにキムリッカは文化的成員資格を入れるべきだと主張している。キムリッカは「自然のハンディキャップと自然災害」には金銭的利益の喪失が伴うのに対して、文化的成員資格は諸個人の目的追求のための単なる手段ではなく、個々人が目的を「選択するための文脈(context of choice)」を構成する点で異なると述べている。
 キムリッカの議論は妥当だが、彼が障害を金銭的に処理できるとしている点は違うだろう。キムリッカが文化的成員資格について述べることが、たとえば聾文化についても言えるからである。(192)
 正しい社会は、他の人とは異なる(atypical)機能をもつ市民の選択の文脈と自尊の社会的基礎を強化するだろう。(193)
 とはいえ、マイノリティ文化の主流化はコストがかかる。もちろん差別の歴史が背景になっており、その匡正要求が正義の名で主張されるケースもある。とはいえ、自尊の基礎への要求はカテゴリカルな優先性をもたない。(194)
 たとえば、収入や地位(あるいは富)と文化的成員資格とのトレードオフ問題がありうる。そうした場合、より包括的な福利の指標が必要になるだろう。

障害とケイパビリティ

人々が所有する資源ではなく、人々が資源を用いて何ができるかに着目する議論としてケイパビリティアプローチがある。(195)
このアプローチは確かに有用である。
とはいえ、リストを一般化すると人間の能力の開花(flourishing)に関する独善的な立場になるし、それを避けようとして積極的自由を善そのものとして強調すると、「機会フェティシズム」に陥る。(196)
 前者はヌスバウムにみられる。ではケイパビリティセットの大きさを基準にすればよいのか。たしかにセットが大きいほうが価値があるとひとまずは言える。だが、我々の選択は自らのケイパビリティとその制約の中で形成されている。先天的に盲目の人は画家になろうとしないだろう。たしかに、適応的選好形成を問題にすべき場合はある。とはいえ、我々がつねに制約下で成長していることもまた真である。(197-8)
 セットの大きさが意味をもつもう一つの理由として、スキャンロンの言う「選択の重要性」論がありうるかもしれない。たしかにそう言える場面もある。だが、これはまたある種の機会フェティシズムにならないか。(199)
 こうした問題は、センとヌスバウムの多様な人間の側面に関する洞察が福利の比較のための指標として用いる際の不確かさを反映している。

分配的正義の複雑性――平等、効用、優先性

格差是正か福利の絶対的水準の達成かをめぐる議論がある。格差を是正することが福利の絶対的水準を達成できないような状況で、それでも平等化を目指すべきだと言えるか。優先主義をめぐる諸問題がある。(200-206)
結局中間の道がよい。
そして、我々は平等と効用の間で、あるいは最底辺の人々への利益の切迫性と最善の人々の利益の大きさとの間でのアドホックなバランスをとる以上のことはできないのだろう。(207)

3 フェミニスト・スタンドポイント論(メアリー・マホワルド)――略