Susan Hurley "The 'what' and the 'how' of distributive justice and health"

Susan Hurley "The 'what' and the 'how' of distributive justice and health"
 ※「」内は引用。それ以外はまとめ。

1 導入

 分配的正義をめぐっては「何を分配するか?」というWhat問題と、「いかにして分配するか?」というHow問題がある。

「how問題について、我々は重要な財を平等に分配するという目的と、それを再不遇の地位にある人の完全のために優先的に与えるように分配するという目的を区別できる」(308)
「厚生-資源の区別と平等-優先の区別は、分配的正義の方法に対する四つの枠組みを生みだす。厚生ないし資源の平等という軸か、社会の最不遇者の厚生レベルに優先性を与えるのかあるいは資源レベルで優先性を与えるのか」(308)

⇒ この枠組みを、健康と厚生、健康と資源との関係性を考慮するために用いる。健康は果たして他の財に比して特別なものか? 

「健康は分配的正義が関心を持つ他の財と代替可能な関係にあるのか? 分配的正義は健康の分配パターンを他の財のそれと同じように要求するのか?」(309)

2 「What」問題
2.1 厚生と健康

分配的正義は厚生に究極的に関わるという見方がある。この見解では、農民の厚生も貴族の構成も依怙贔屓なく評価される。
この発想は功利主義の一つの着想源になっている。それによれば、ある資源は、それによって大きな厚生を得る人に分配すべきだということになる。
だが、この発想は不健康な人(unwell)や障害者にとって魅力ない含意を持つ。不健康な人や障害者を差し置いて、健康な人々に追加的な所得を与えることになりかねないからである。(309)
だが、これは通常我々が抱いている直観と対立するだろう。

「不健康な人あるいは障害者の厚生を増大させる配分は、健康な人の厚生を増大させる配分よりも、たとえ前者が厚生の最大化にはならないとしても、ときにより重要であり、あるいは緊急性をもつとみなされる」(310)

とするとやはり健康は特別なのだろうか? そうではないだろう。健康についての考察は、単に最大化と平等とのあいだにコンフリクトを示すだけだとされる。

2.2 依怙贔屓しないこと(nonfavoritism)と適応

所得配分ではなく別の資源、時間ないし生存年で考えよう。健康な人の方が障害者よりも高いレベルの厚生で生活しているとして、どちらの人の人生を延長するかの選択が問題になるとする。健康な人の人生を延長した方が厚生最大化になる。だがこれは不正に思える。なぜか?
 一つは、依怙贔屓しないという理念と厚生最大化を保持したまま、別の反論を行う道がある。(310)それは適応を考慮に入れることだ。人は病や障害に適応するから厚生は低くはならないケースもある、という議論が可能かもしれない。そう言えるならば、その場合最大化論とも両立する。
 この議論は、健康な人はつねに障害者よりも大きい効用を得るという一般化が間違いだ、という議論である。
 この適応論には、たしかに一定の魅力はある。だが、たとえば障害を軽減・治療できる場合はどうか。障害を除去ないし軽減できる可能性がある場合、仮に障害のある状態に適応した人が健康な人と同レベルの厚生を感じているとして、しかし治せるなら治したいと思う何らかの理由が存在するのではないか。もし、すでに適応して現に非障害者と同じ厚生を経験している人の厚生が、さらに障害の除去によって改善されるならば、彼はその時には、非障害者よりも高いレベルの厚生を得ていることになるに違いない。(311)とすれば、最大化論はこれまで健康であり続けていた人よりも、治った人の人生を延長する、という結論になるだろう。ここで、依怙贔屓をしないという理念は、障害の除去は厚生を増大させる、という前提のもとでは、別の方向に進むことになる。
 あるいは、元障害者だった人は、治った状態に再適応して「普通の」厚生のレベルに戻るかもしれない。とすれば、厚生最大化論の有効期限は短期間だということになる。この場合、依怙贔屓しないという理念は安泰だと言えるかもしれない。だが、障害の除去による厚生の増大が、再適応によって短期間で終わってしまうならば、厚生最大化論が「除去」を支持する理由もまた弱められるだろう。
 直観的には、我々は障害を軽減ないし除去する強い理由を持つし、人生延長に対して依怙贔屓ナシという理念を保持している。だが、厚生最大化論を採用する以上、これらの二つの立場を維持することは困難だということになるだろう。

2.3 厚生の平等と適応

 健康な人の人生を延長することを自動的に支持するような議論はなぜ不正なのか。第二の提案は、厚生最大化という目的を拒否し、平等に訴える議論である。この立場からはむしろ逆に、障害を持つ人に生存年を多く配分することで、厚生のより平等な形が実現する、ということになる。
 この立場は、厚生を非効率的に生み出す人(inefficient generators of welfare)から資源を取り上げるのではなく、むしろその人々に資源を割り当てる。非効率な人に多くの資源を分配し、他の人と同様の厚生水準に至らせるのが平等だからだ。
 しかし、この想定は再び「適応」という問題に突き当たる。障害という状態に慣れて厚生水準が高いならば、追加的資源も不要だということになるし、たとえば障害を軽減ないし治療できる場合にもそれはとくに不要だということになる。
 この問題を除去する一つの方法は、厚生ベースの立場を放棄することである。適応をめぐる困難が示すのは、健康が厚生に与える影響や厚生の手段が重要だという前提から生じている。しかしよく考えてみれば、適応そのものがこの想定に疑問を投げかけている。
 ある人が障害ある状況に適応すると、資源から厚生を産み出す彼女の力を描写する関数は変わる。この変化は直観的には、障害を除去したりする資源配分における変化を要求しないようにも思われる。これはさらに一般化することで強化されうる。つまり仮に誰かが適応したとして、その適応した厚生レベルを理由として彼女は資源を多く受け取ることも、少なく受け取ることもすべきではない、と。この見方では、適応の結果としての厚生水準の変化は、重要な意味で彼女にとって低下であるとされる。彼女が適応したとしても、我々の彼女の状態に対する義務は存在するとされる。彼女が新たに状況に応じて人生を楽しむ道を見出すことができたとする。その場合でも、我々は義務から解放されない。我々の義務は彼女の状況に向けられているのであって、彼女が成し遂げたものに向けられているのではないからだ。
 最初の「依怙贔屓ナシの読み」と、この第二の読みを比較しよう。第一の読みは言う。障害や不健康が厚生に対して低い能力をもたらすというのは偏見である、と。第二の読み、「責任の読み」にとっては、厚生に対する人々の選好と能力は様々な状況に置かれており、それは彼女自身の責任である。正義はある人がその健康状態からどれくらいの厚生を産み出すことができるか、ではなくてその状況そのものに関係しているべきだとされる。
 第二の見解を受容するとして、この見解は健康は特別なものだという見方を支持するのか? もし厚生ベースのアプローチを拒否するならば、健康を単なる厚生の手段としては扱わないだろう。
 別の可能性は資源主義である。それによれば健康状態は資源の中に含まれる。(314)この立場は健康を内的資源として位置づけるが、とはいえ、この立場でも健康とヘルスケアは他の財との競合から切り離されない。
 第二の可能性は健康状態を特別なモノとみなすことである。健康は他の資源と同列の資源ではなく、「機会の公正な平等を確立するのに特別な役割」を果たす、とみなされる。
 第三に、運と責任という枠組みで正義を理解する可能性もある。この見解では、たとえば先天的な盲人がそのために貧困に陥ってしまっている場合には資源分配の対象になるが、自堕落な生活の結果健康を害した人はそうではない(もちろんその人は別の理由から資源配分の対象になりうるが)。健康は特別なモノではないということになる。
 以下、これらの可能性をそれぞれ考えていくが、それを優先主義ではなく平等主義の中で考える。その後、what問題からhow問題に移行する。

2.4 健康状態 vs. 高価な嗜好

厚生の平等アプローチは厚生最大化アプローチの問題の一つを解決するが、別の問題を生じさせる。厚生平等化は厚生生産(generate)が不効率な人を補償する。しかし、厚生生産(generating welfare)の効率性と不効率性は、健康状態の良/不良の区別を横断している。
 すでにみたが、不健康ないし障害を持つ人の多くは、その状況に関わらず厚生を効率的に生産する。(315)上手く適応した人は資源を分配されないことになる。
 他方、健康な人の多くが厚生生産に不効率であるとする。高価な嗜好を持つ人がそうだ。その人は厚生平等アプローチでは補償されることになるだろう。しかし直観的にこの帰結は受け入れがたい。
 厚生平等アプローチは厚生だけしか見ないので、健康状態が特別であるとしてそれは、嗜好のように厚生を決定する他の要因(determinants)と同様のものとされる。嗜好と健康状態に正しく線を引くアプローチは何か。三つある。ドゥオーキン、ダニエルズ、ローマーはそれぞれ異なる解答を与えている。

2.5 資源平等と障害

まず、厚生と資源の間に根本的に線を引くという立場がある。正義が我々に平等化を要求するものは、厚生ではなく資源だとされる。
 資源主義はある人が自らがそこに置かれていると認識する賦与と状況を問題にする。金持ちで高い才能を持って生まれた人は//価値ある賦与を有している。(316-7)この人は多くの資源を持っている。
 ドゥオーキンは人々の選好や嗜好の結果としての厚生の不平等と、資源あるいは状況や付与の差異の結果としての厚生の不平等を区別する。たとえば高価な嗜好を持つ人はそれを持たない人よりも厚生水準が低いとして、それは正義の問題ではない。また、同じ賦与を持つ人が、異なる選好や企図を背景にして異なる選択を行い、暮らし向きに差が生じたとして、ドゥオーキンの見方ではこの不平等は不正義でも何でもない。
 自然の不運と選択運の区別によって資源平等論の目的を表現することもできる。最初の公正な資源分配を背景として、ある人がリスク承知の選択をした場合、そして運悪く実際にリスクが実現して差が生じても、それはギャンブルの結果と同じく不正ではないとされる。部分的に選択から生じた結果は悪い選択運として、悪い自然の運、たとえば盲目に生まれることなどとは区別される。ドゥオーキンによれば、後者は補償対象になるが前者はそうではない。平等は事後的視点ではなく事前に判断される。もちろん、実際に両者の運を区別することは困難である。(317)
 ドゥオーキンは健康状態や障害の有無を内的資源として、その補償のために外的資源が再分配されるとする。とはいえ、内的資源は、嗜好や企図ないし選好を含まない。
 ドゥオーキンは仮設的保険市場により、人々が購入する保険商品でおおむね内的資源への補償は可能だと考えている。人々はどの程度の水準まで補償額を設定するのか。おおむね人々は、たとえば、マリア・カラスのような才能の欠如に保険をかけることは非合理的だが、他方、障害を負うことに対する保険は妥当と考えるだろう、とされる。

2.6 健康――他の諸資源の中の一つの資源か?

健康を内的資源とする見方は、障害を他の才能とのスペクトラムと見るとすると、健康を特別なモノとする立場を擁護することは困難になる。じじつドゥオーキンは健康とヘルスケアは、他の諸財から分離され得ないと論じている。それに対して、ダニエルズは健康関連資源を他の諸資源と同じモノとすることに反対している。(318)
 ダニエルズは健康に対する考慮をロールズの分配的正義の理論に組み込むやり方を否定する。それによればロールズ理論は、「正常で活動的」な人に適用されるべく理念化されている。ではどうすればヘルスケアをカバーするようにロールズ理論を拡張すればよいのか。基本財に組み入れるとして、では他の基本財と健康関連資源との間での重み付けをどうすればよいのか? 他の財よりも優先するとして、ヘルスケアのコストがかかり過ぎて、他の財の保障が困難になる場合はないのか。
 これに対して、ドゥオーキンは健康を全ての財の中で最重要とするような見解を支持できない、と論ずる。(319)
 ドゥオーキンの理念化された状況下での個々人の選択を通したヘルスケア保険制度の正当化論は、概ね人々が妥当と思う範囲に収まるだろうとされている。(320)持続的な植物状態の人の生命維持に対して、多くの人々は保険で補償されるべき価値があるとはみなさず、それよりも家族や教育に費やした方がよいと考えるはずだ、と。
 他方、ダニエルズの見解では、ヘルスケアは、他の財と同列のものではない。資源のシェアが公正であるのは、合理的な健康保険が十分に存在するときのみだからである。あるシェアが公正であるかどうかを知るために、我々はすでに合理的なカバレッジを購入できるかどうかを知っているのでなければならない、と。
 こうした議論には、すべての人にとって合理的な熟慮を経た保険の水準が一つであるとはかぎらない、という反論がある。これに対してダニエルズは、熟慮は基本的ニーズの充足への関心を反映した構造をもっている、と再反論する。

2.7 健康と平等な機会

 ダニエルズは、あるニーズは正常な人生のライフコースに関係している、という。ダニエルズが健康を特別扱いするのは、「種に典型的な正常な機能」が基準とされる。(321)
 ダニエルズによれば、種の正常な機能の維持は正常な機会の範囲にとって重要である。それゆえ、障害と才能は非対称的である。ダニエルズは、病や障害は、さもなければ個々人に開かれていたスキルや才能の範囲に対して影響する。とはいえ、障害や不健康に才能に対するのとは異なる対応をすべき理由はなにか?
 ダニエルズは、機会平等が格差原理に優先するというロールズの議論から、健康は公正な機会平等を促進するのに根本的に重要な役割を果たす、と論ずる。(322)
 食糧や衣服は全ての人にとっておおむね同じだけの必要性を持つが、ヘルスケアはそうではなく、他の基本的ニーズとも区別される。ダニエルズはヘルスケアが機会平等に対する影響を教育と対比して主張する。とはいえ、無際限に保障されるわけではなく、社会の生産性が掘り崩されない程度で、という条件は付く。
 このダニエルズの議論は妥当か。まず教育とヘルスケアは異なるだろう。教育は若者に与えられるものであり、実際に機会にとって重要だが、ヘルスケアは機会を必要としない高齢者等にも与えられる。

2.8 責任と健康

見てきたように、厚生最大化主義は、障害の除去に対する理由と、依怙贔屓しないという理念を結びつけることが困難である。厚生平等主義にも問題点がある。これに対して、資源平等主義による応答を確認した。また、健康資源を他の財と同等に扱わないという議論を確認した。
 だが、これらの応答のどれも、健康の重要な特徴に焦点化することに失敗している。個人は、自らの健康に対してある程度コントロールできるし、また責任があるからである。同じ健康への機会があったとしても、人は様々な選択をする。この点について、ドゥオーキンは、人々はギャンブルに責任があるのと同じく、健康を自ら損なったことに責任があると論じている。(323)この見解について、正義は社会に、自らの健康を――たとえば喫煙等で――危険に晒した人への健康資源を要求するのか? という問いが成立する。
 一つの道は、リスキーな選択は完全に自由な状況で下されたのではない、と評価する方法があるかもしれない。だが、この見解は一般的な反パターナリズムの感覚と両立しないだろう。例えば、タバコ販売を規制すべきではなく、喫煙は個々人の自由だということと、他方でしかし喫煙は人々の責任ではないという見方は両立しないだろう。
 第三の道が、運の平等主義者、たとえばコーエン、ローマー、アーネソンらによって展開されている。それによれば、問題は人々は彼らの不利益に責任があるのかどうか、あるいはそれらは自然の運の問題なのかどうかである。この区別は厚生と資源の区別を横断する。正義が我々に要求するモノは、運の問題である程度に、資源ないし厚生における不利益を補償することだ、と。(324)

 「資源ないし厚生に関わる不利益が正義に訴えて補償に足るものになりうるのは、それらが自然の不運の問題である限りにおいてである」(325)と。

 こうした運の平等主義の問題の一つは、どの程度まで責任と運の区別を適用するか、というところにある。喫煙の結果の肺がんは部分的には自然の不運の問題でありうる。選択には生育環境や教育や所得階層等々、様々な要因が絡んでいるが、たとえばローマーはそれらを考慮に入れるようにという。(325)ローマーの解答は、ある種のタイプの人々の成員、たとえば黒人男性の肉体労働者と白人の女性教授等の区別をして、個々人の選択に対する影響のタイプを分けるという方策である。
 とはいえ、タイプ内にいる個人間には当たり前だが違いがある。タイプ内の差異に人々は責任がある。ローマーはこうした偏差を認めつつ、しかしそれぞれのタイプのおおむね平均で近似する方法をとる。だがやはり、どのタイプ集団に編入されるかによって、個々人は多く補償を得られたり得られなかったりするという問題は残るだろう。
 この帰結は、水平的な衡平についての標準的見解と対立する。だがローマーは、水平的衡平について別の理解をしている。それは、たとえ異なるタイプの集団に属していたとしても、責任を計算に入れて、二人の患者が同じ程度健康を害しないように努力をしていたとすれば、同等の回復を要求する、という理解である。
 ここで、what問題からhow問題に移る前に、これまでの議論をあらためて振り返っておこう。
 まず厚生ベースの議論は、疾患と障害を高価な嗜好から区別するのに失敗していた。この見解では健康は特別な役割を果たさない。対照的に、ドゥオーキンの資源平等論は、健康関連資源を考慮に入れ、疾患と障害を否定的な内的資源とみなす。(326) この見解は障害と高価な嗜好の混乱を回避し、適応に関係なく資源不足として障害を補償する。だが、ここでも健康は特別なものとはされず、むしろ他のさまざまな資源との競合関係に置かれる。
 機会平等論についての二つの見解を考察した。ダニエルズは健康を他の財の中の一つとして取り上げるが、彼はそれを、機会平等の条件として特別な財とみなす。ローマーは対照的に、健康への機会の平等という概念を採用する。健康不利益は他の不利益と同じものだとされ、それが不正なのは、自然の不運の問題である限りにおいてだ、とされる。不健康という結果が自律的選択から帰結した場合、それは、他の自律的選択から生じた悪い結果と同様、機会平等に関わるモノでは何らない、とされる。
 我々の当初の問い、つまり分配的正義についての「What」問題の考察は、健康を特別なものとみなす決定的な理由はそこでは提出されていない、と結論づけてよいだろう。ダニエルズは、機会ベースで健康は特別だという議論をしているが、しかし彼の〔教育と対比した〕議論はリタイアした人には適用されないだろうし、ローマーが言うような健康への機会を考慮に入れていない。議論の重点は別のところにある。 しかし、ダニエルズの「正常な」種の機能は機会平等にとって必要だという見解は、もし責任を考慮に入れたとして、それでも他の財と健康には非対称性があると言える根拠を提示していると言えるかもしれない。健康型の社会経済的財の条件であると言える二つの道がある。ダニエルズが示す方向性は、絶対的健康は社会経済的財への機会の条件であり、相対的な健康もそうだ、というものである。もし逆に考えるならば、絶対的な社会・経済的地位が健康に対する機会の条件だと認めるべきだということになる。だが、相対的な社会・経済的な地位は、健康にとっての機会の条件ではない。この非対称性が、健康の分配がとくに考慮されるべき理由になるとされる。
 とはいえ、この応答は経験的事実に依存している。相対的健康は社会・経済的地位に因果的な影響を与えるが、相対的な社会・経済的地位は//健康に対して影響を与えない、と。(327-8) とはいえ、これがもっともらしいとして、それは表面的なものだろう。たとえば、ウィルキンソンは、人々の絶対的な健康レベルが、彼らの経済的・社会的な〔相対的な〕地位に相関して強い影響を受けていることを経験的に明らかにしている。
 ウィルキンソンが正しいとすれば、ダニエルズのような機会の条件としての根本的な因果的な役割を根拠にした非対称性論は維持できない。ウィルキンソンの見解は、分配的正義の関心の対象となる財のなかで、「what」問題に対する解答は、健康に対して他の財との関係で特別な位置を与えない、という見方を強化する。

3 「How」問題
3.1 平等 vs. 優先――レベルダウンとトリクルダウン

「how」問題に移ろう。健康が特別な役割を果たす理由を見出すことができるか? これはトリクルダウンとレベルダウンに関する議論との関係で明らかにできるかもしれない。
 「how」問題は、パーフィットによる平等と優先の区別によって導入された。それによれば、平等主義はある人々が実際に他の人々よりも暮らし向きが悪いかどうかに関心を持つが、優先主義は、現実の個々人の状態を仮想的に達成されうる状態と比較する。(328)優先主義にとって、不遇者に対する利益が問題になるのは、他の人々とその人との関係性が問題になるからではなく、その人の絶対的レベルが問題だからである。優先主義にとっては平等は単なる手段に過ぎない。
 優先主義は絶対的な重みづけを用いるが、個人間比較を含んでいる。ただ、比較の種類が異なる。平等主義は現実の個人間比較を行うのに対して、優先主義は最不遇者が可能的に得られるかもしれないような、仮想的状態と現実との比較を行う。これは個人間比較から反実仮想的な比較への移行である。
 「how」問題は「what問題」への回答を横断する。what問題に対する回答としては厚生主義と資源主義がある。how問題への回答、平等主義と優先主義はこのいずれのバージョンも取りうる。平等主義は平等に分配すると答えるが、優先主義に分配すべきだとは言わない。その対象は厚生でも資源でもある。もう一つ、フランクファートによる「全ての人が十分に得られる」ように分配すべきだ、という充分性論もある。だがその基準は曖昧である。優先主義に絞っていこう。
 平等主義と優先主義との論争は、トリクルダウンとレベルダウンに関する問題を生じさせる。追加的労働インセンティブを生み出すことで、生産性向上の恩恵を他者に得させることができる。優先主義からすれば、もしある種の不平等が、平等状況下で彼らが得るよりも、より良い生活をすべての人々に可能にするならば、//それは反論できないだろう。(329-330) この状況で平等を主張することは、すべての人のレベルを低下させることになる。多くの人々が優先性論に魅力を感じるのは、彼らが、もしトリクルダウン効果が生ずるならば不平等は受容可能だということを認めたいと思っているからであり、より一般的に言えば、彼らは平等のためのレベルダウンには問題があると考えているからである。

3.2 トリクルダウン効果と健康

トリクルダウンとレベルダウンに関する問題は、「what」問題へのさまざまな解答の中で実際に利いてくる。所得の不平等には、所得、厚生あるいは健康についてトリクルダウンの利益があるのかどうかが問われうる。所得の不平等が全ての人に所得増大をもたらすことがあるとして、それが健康に対してもトリクルダウン利益をもたらすか否かは経験的な問題であり、両者は少なくとも別の話である。もし、所得増大が健康利益にならないとすれば、それは、健康は他の財との関係で特別なものだ、ということになるかもしれない。
 この経験的可能性を見過ごすことは自然だと思える。まず、健康は絶対的な所得増加とともに向上すると想定するのは自然だと思われるからである。次に、ある社会で高所得層の求めに応じた医療技術の進展は、それより低い層の人に対する医療ケアを改善するトリクルダウンがある、と想像できるからである。 しかし、これが経験的な問題だという事実を見過ごすべきではない。ウィルキンソンによる「リッチに発展した国よりも平等な国の方が、良い健康状態だ」という主張を再考しよう。もしこれが正しなら、先進国では絶対的な所得レベルよりも、相対的な所得レベルが絶対的な健康レベルに大きな影響を与える、ということになる。(330) とすれば所得不平等は彼らの健康レベルを悪化させる可能性がある。優先主義は、所得不平等の効果を考慮するさいに、所得レベルの改善と健康レベルの改善の間での衝突に直面する。彼らはトリクルダウン効果の評価の中で、他の財のレベルから健康レベルを除外して、健康を特別扱いする必要が生ずるかもしれない。

3.3 レベルダウンと健康

「how」問題の考察は、トリクルダウン効果との関係で、健康を特別視する必要があるかもしれない、という方向性を提供する。ここで、所得不平等が健康の絶対的レベルに与えるトリクルダウン効果に関わる問題をとりあえず措いて、平等と優先をめぐる見解が、他の財と対立するものとしての健康そのものにどのように適用されるかを考えよう。
 社会Aでは成員の半分が病気で、半分は健康である。社会Bでは全ての人が病気である。Bの方がAよりも平等である。平等主義はAからBへの移行を支持するが、優先主義はそうではない。全ての人が健康状態のレベルダウンすることを支持しないならば、平等を拒絶すべきである。
 テムキンは平等を擁護する。テムキンはレベルダウンへの反論は「人格影響要請(person-affected requirment)」によって動機づけられている、と述べる。それは、ある状態の別の状態に対する良し悪しは、その状態をより悪いとかより良いと感じる人が存在している限りにおいてだ、という「スローガン」にまとめられる。テムキンはこのスローガンに反論する。第一に、人格影響要請への反論を通して、第二に、多元主義を採用することによって。平等は、もしレベルダウンが正当化されないとしても、レベルダウンに対してある理由を提供する、とされる。ここではテムキンの議論を詳論しないが、人格影響要請によってレベルダウン反論が動機づけられている、という彼の診断を取り上げたい。
 レベルダウンに対する反感にとって最も基本的な動機は、人格影響要請ではなく、むしろよりシンプルな非人格的な卓越主義(perfectionism)と卓越(excellence)の価値だと思われる。レベルダウンが無駄にするのは、善へのより高い達成である。(331)
 人格影響要請のスローガンは次のような問いを導くだろう。〈そこに誰もより良い人が存在しないのに平等が良いといかにして言えるのか?〉と。この問いは、同じ人が平等シナリオと不平等シナリオに存在しており、同一人物の二つのポジションがシナリオ間で比較されていることを含意する。だが、非人格的な卓越主義では次のようになる。〈平等が卓越を捨て去るのになぜよいと言えるのか?〉と。この問いは、平等シナリオと不平等シナリオに同じ人が存在していることを含意しない。不平等シナリオは、それがより大きな卓越を含んでいる程度に従って良いとみなされる。二つのシナリオの中にいる人々が別の人になるとしても、論点は変わらない。
 テムキンは人格影響要請スローガンが反平等主義を動機づけると考えているが、私は、より根本的な動機は卓越主義だろうと考える。では、この相違は健康に対してどう効いてくるのか? 卓越主義は、健康な人よりも不健康な人が多い状態は、たとえその人々にとっては悪いことでないとしても、端的に、より悪いと考える(たとえば〔人格影響説にとって難問の〕出生選択の場合でも、卓越主義は良し悪しを問題にできる)。もちろん、これは可能な解釈の一つにすぎないが、これはレベルダウンが比較する二つの状態に別々の人が存在するとしても、レベルダウンが忌避される理由を表現している。もし、二つの状態に別々の人が存在するとしてもレベルダウンが忌避されるならば、同じ人々が存在する場合にはもちろん忌避されるだろう。
 この議論は、とくにある種の財に対して強力である。リベラルな立場は、ある人にとって良い財について、その人が自由なトレードオフを行う権限を否定することは難しい。だが、人々にとって良いだけではなく、それ自体として良い財の場合、同じ場合でもトレードオフはできないだろう。健康はそれ自体として良いモノであると思える。それは、人々にとって良いというだけでなく、それ自体において良い、と。(332)次を比較しよう。高所得が人々にとって良いと主張するだけでなく、高所得の人々が存在するほうが、低所得の人々が存在するよりも良いと主張することはできるだろうか? 後者のように言うことは、せいぜい派生的に真であるにすぎないと思われる。
 卓越主義に基づくレベルダウン批判は、スローガンに対する反論によってまったく弱められない。
 これは健康が特別扱いを要求する別の解釈である。健康な人にとって良いのと同時に、それ自体として良いものだという卓越の一つとして、健康はレベルダウンと厳格な平等に反対するだろう。

4 結論

 what問題とhow問題には様々な答えがある。おそらく驚くべきことに、健康を特別な財として扱うためのより強い理由は、「何を(what)」分配すべきかという問題よりも、「いかにして(how)」分配すべきかをめぐる考察の方から生じる。厚生、資源あるいは運に関する「what」問題では、健康を特別なモノとして扱う強い理由を見出すことはできない。むしろその理由は、トリクルダウンとレベルダウンに関する「how」問題によって示唆された。健康のレベルダウンに対する反論の文脈における卓越主義の貢献は//、健康に特別な役割を認める議論の一つの方向性を示している。