Disability and Disadvantage

Brownlee, Kimberley; Cureton, Adam eds. 2009 Disability and Disadvantage,Oxford Univ Press

3 Vagaries of the Natural Lottery? Human Diversity, Disability, and Justice: A Capability Perspective  Lorella Terzi(pp. 86-111)

◆ 「」内のみ引用。それ以外は要約。

3.1 導入
 人間の多様性は、正義に関する現代平等主義理論において中心的な役割を果たしている。(86) 現代平等主義理論は、利益と不利益を構成する特徴に関わってきた。それらが自然に引き起こされたものか、あるいは社会的なものなのか、また正しい分配図式を決定する際、多様な個人の特徴を、なぜそしていかにして考慮に入れるべきなのか、入れるべきでないのか。個人間比較においてこれらの理論が採用する人間の多様性は、往々にして「正常な」あるいは「平均的な人間の機能」という考え方をもっている。
 とはいえ、こうした見方は、とくに障害者をもつ人々によって批判されてきた。正常な人間の機能という「観念化された」概念と、障害を個人的不利益とする見方の限界、排除性、抑圧性が強調される。障害者運動に提唱され支持されている社会モデルの核心は、個人的インペアメントとディスアビリティとの因果的必然的な関係性を否定することだけでなく、正常性についてのいかなる観念も否定することにある。(87)
 障害者の学者の立場は、平等主義理論が、障害についての過度に単純化した見方を採っており、諸個人の能力の不足(deficits)に対する補償という不適切な対応になっていることを批判する。

⇒ だが、これに対して、平等主義理論の主要な目的は個人間の利益と負担の正しいシェアを評価することであるため、いかなる種類の差異が障害であるかを決定し、公正な社会的シェーマの中でそれが持つ重みの程度を決定することが優先されることになる。

こうした観点から、以下ではセンのケイパビリティ・アプローチを使って障害者の要求に対する平等主義者の応答を明確化することを試みる。議論は三つに分かれる。

① 障害の社会モデルの理論的な限界、とくに社会モデルによる正常性(normality)に対する批判の限界を画定する。
② 障害に対するケイパビリティ的な見方の要点を提示する。ケイパビリティ・アプローチは障害を本質的に関係的なものとみなす議論に対応する。つまり個人と社会的要素の相互作用の帰結であるということを説明する。とはいえ、批判もある。一つはケイパビリティという考え方の曖昧さについて、もう一つは、障害を劣った自然的賦与とみなすことに伴うスティグマへの批判である(ジョナサン・ウルフなど)。(88)
③ 最後に、これらの反論に応答することを通して、障害に関するケイパビリティ・パースペクティブを擁護する。

3.2 人間の多様性、正常性、障害の社会モデルにおける差異
 オリバーによる障害の社会モデルの定義によれば、

「障害を引き起こすのは個人のインペアメントではない(インペアメント⇒障害)し、インペアメントが障害であるのでもない(インペアメント=障害)、そして障害という問題を生みだすのは身体的、感覚的、知的なインペアメントによる個人の機能における困難ではない。」

障害は社会編成の結果であり、インペアメントをもつ人々の活動を制限するように働く障壁である。(89) そして最終的には、障害は「社会的に生み出される(社会的障壁⇒障害)」ということになる。
オリバーによれば、「正常性」とは「差異しか存在しない現実に押し付けられた一つの構築物」であり、正常な機能というイデオロギーは障害をもつ人々を管理し排除するための構築物である。障害者運動と社会モデルを採用する論者には、正常性に関するどんな概念も批判的に拒否する態度が共有されているが、障害学においても議論は続いている。たとえばモリスは「正常性」や「異常」に結び付けられた文化的・社会的な意味に十分に注意しつつも、個人のインペアメントに活動の制約や苦痛、病気という側面を関連付けて考察し直している。(90)また、障害の価値を人間の経験を構成するものとして肯定し、スティグマ化されるものではなくむしろ寿がれるべき差異として肯定する。
 社会モデルは政治的アピールと道徳的次元についての重要な遺産だが、明らかにいくつかの限界をもっている。第一に、障害は差別と不正な社会的経済的構造によって生み出されると述べることで、社会モデルは、障害の源泉と原因という両方について社会的次元を誇張している。たとえば、視角にインペアメントをもつ人が非音声的な合図を読むことができないことを、社会的バリアとしてのみ記述することができるというのは考え難い。第二に、社会モデルは、インペアメントのもつ複雑な次元と、それがある種の活動や能力について有する制約的な効果、つまりその障害との関係性を看過する。たとえば、インペアメントに関連した痛みや疲労等、そしてそれが機能にもたらす帰結を看過する。(91)
 さらなる問題もある。たしかに規範的概念としての正常性の否定はその否定的で差別的な含意と用法への反論として重要だ。だが、記述の水準においてもこの概念を否定するとすれば、受け入れがたい理論的・実践的結論を導くだろう。平均的な、したがって典型的な人間の機能への参照を否定するならば、いかにしてインペアメントと障害を評価すればよいのだろうか? 何がインペアメントや障害を構成することになるのか。たとえば、自立生活とパーソナル・アシスタンスへの要求も、平均的な人間の機能を参照している。正常性概念の記述的な意味、つまり平均的ないし典型的という意味を完全に否定し、参照すべき概念をなくしてしまうことは、理論的・実践的な限界だけでなく、社会モデルの理論的基盤とその政治的目標のいくつかとの間のミスマッチをも示している。
 近年、障害に関係して社会的構築物としての正常性を拒否する立場について、より分節化された、また正当化できそうな見方が提示されている。(92)アニタ・シルヴァースは、「正常な機能」が自然で中立的であるという想定を否定し、代替的ないし非典型的な機能(alternative or atypical modes of functioning)としての障害理解を提案する。この見解は、少なくとも記述的には、平均的条件からの逸脱としてのインペアメントを考慮に入れる可能性に開かれているが、非典型的あるいは代替的な形態の機能をもつ人々に対する正義については、さらに言うべきことがある。(93)
 ケイパビリティ・アプローチは、インペアメントと障害の関係性を、正義に適ったそして包摂的なかたちにデザインされた制度的社会的編成の中で評価するのに適している。ケイパビリティ・アプローチは、障害について個人と社会的要素の相互作用から生ずるものとして、正常性や異常性といった概念に訴えることはしないからだ。

3.3 インペアメントと障害についてのケイパビリティ・パースペクティブ
 機能は福利(well-being)を構成する諸々のあり方(beings)と様々に為すこと(doings)である。栄養を得られている状態(Being well nourished:あり方)や教育されている状態などなどである。ケイパビリティは、福利を達成する現実的な諸機会を表している。ケイパビリティは福利に対して道具的であると同時に本質的に関係している。(94)
 センは、社会政策の適切な目的としてケイパビリティの平等を支持し、またケイパビリティ空間において個人間比較を行うことの重要性を主張する。(95)
 諸個人の利益と不利益を比較するのに使用される指標に関して、人間の多様性とその中心性についての考慮が、センを、平等にとって重要な概念としてのケイパビリティと機能の空間の概念化へと導く。
 とはいえ、このアプローチの本質的に非特定的な性質と、正義原理についての意図的な省略は、いくつかの問題をもたらす。このアプローチが直面する最も重要な問題は、とくに、多様な善の構想をもつ人々の多様性を前提として、ある状況を平等であるかどうかを決定することにある。

3.3.1 ケイパビリティと障害
センのケイパビリティ・アプローチのインペアメントと障害の概念に対する貢献は、主に二つある。第一の洞察は、インペアメントと障害を人間の多様性の側面として考察するその仕方に関わる。(96)第二のものは民主主義的手続きに関わる。
 ケイパビリティ・アプローチが核心的である第一の主な理由は、障害を人間の多様性に結びつけることにある。まず、人間の多様性を個人の利益と不利益の評価にとって中心的なものとして位置づけ直すことで、このアプローチは障害の複雑性を扱う平等主義的なパースペクティブを進展させる。第二に、センによる人間の多様性概念は、人間の多様性についてパーソナルな側面と環境的側面の相互関係を含む。インペアメントは、特定の社会的・文化的・環境的構造と相互作用によって、障害になるか否かが決まるような個人的特徴と見なされる。「この定義により、障害は、本質的に関係的かつ環境的なものとされ、//別言すれば、インペアされた個人と彼女を取り巻く環境との接点にある現象とされる。」(97-8) 第三に、この関係的な見方により、平等主義的な立場と同じく障害をめぐる理論は、障害についての現行の見方、つまり生物学的に決定されているか社会的に決定されているかといった二択的な見方を乗り越えることができる。最後に、ケイパビリティ・アプローチは、障害の因果的起源に依存しない権原を〔障害者に〕可能にするような平等主義的枠組みを提供する。というのも、このアプローチは障害を、その因果的起源から独立させて、ケイパビリティの失敗(capability failure)として評価する個人間比較の指標を擁護するからである。「言い換えれば、このアプローチは、障害は生物学的に引き起こされるのか社会的なのかという論点から、ケイパビリティ――諸機能に対する諸機会――の完全なセットについての見方へと視点を移し、この自由のセットの中でインペアメントが果たす役割へと視点を移行させる」(98-9)

 「たとえば、歩くことは機能であり、それは空間を移動することであり、移動することはさらに別の諸機能――子供を学校に連れて行ったり、仕事にでかけたり、政治家として勤務したりする――を可能にする一つの機能である。この意味で移動することは、他のより複雑な諸機能を可能にするための基本的機能だとみなされる」(99)

 このケイパビリティ・アプローチが示唆するのは、車椅子利用者であることは、もし車椅子が提供されず、あるいは物理的環境が適切にデザインされていない場合には、不利益を受けているということである。「車椅子が準備され、車椅子のアクセシビリティが確保されることは、ケイパビリティ・アプローチによると正義の問題である。なぜなら、それらは、福利の追求と達成に対するケイパビリティの平等化(the equalization of the capability to pursue and achieve well-being)に貢献するからである」(99)
 究極的には、インペアメントとディスアビリティをケイパビリティ・アプローチの中で再考することは、機能とケイパビリティという用語でそれらをあらためて枠づけることを意味する。インペアメントは、ある機能に影響するかもしれないような個人的特性であり、したがって、ディスアビリティになるかもしれない個人的特徴である。ディスアビリティとは、諸機能に対する制約である。その制約は、個人的特徴と社会的特性の絡まり合いの結果として生ずる。諸機能は個人のあり方を構成するので、そして、ケイパビリティはその人が達成できる諸機能の多様な組み合わせ、つまり、その人が多様な人生を選択し、送ることができる自由を表現しているので、諸機能の制約は、個人にとって入手可能な諸機能のセットの制約になる。かくして、ディスアビリティは、ケイパビリティの範囲を狭めることになり、正義の問題として取り組むべきであるような、ある種の差異になるのである。(100)
  第二の貢献は、重要なケイパビリティの決定に関して民主主義的な参加を重視する点である。とくに、決定によって最も大きな影響を受ける人々は決定の結果と同時に、決定のプロセスに参加すべきだ、とされる。(100-101)
「どのケイパビリティが守られるかについての選択は民主主義的決定を通して下されるが、民主主義的参加にとって重要なケイパビリティそれ自体は、正しい帰結を可能にするために、民主主義的決定に先行した憲法の原理の対象として保護されている必要がある」
 この点はじつはこのアプローチにとって一つの問題なのだが、本論では扱うことはできない。

3.3.2. 正義の問題
ケイパビリティの枠組みでは、障害は本質的に関係的なものとされ、また、社会の編成の中での諸個人の互酬的な地位の評価にあたって、そして利益と負担の分配の評価にあたって考慮されるべき人間の多様性の一側面であるとされる。二つの要素が重要になる。まず、社会編成における人々の互酬的な地位を評価する際に選択される指標の中での障害の位置であり、そして社会の枠組みのあり方(design)の選択である。(101)
 ケイパビリティ・アプローチでは、平等を追求することとは、機能とケイパビリティの分配パターンのなかで障害を適切に扱う指標に関わる。このことは、障害をもつ人々を正義の対象とするような追加的対策を含むし、この対策の大部分は個人的で自然の不足に対する直接的な「補償(compensation)」という形をとらない。なぜなら、個人的特徴としての障害の関係的な性質にとって、社会の枠組みは根本的なものだからである。
 社会の協働の枠組みが、誰が包摂されて誰が排除されるのかを規定している以上、社会の協働の枠組みの編成は重要である。どんなゲームを選択するかによって、個々人に要求される資源や身体的能力も変わる。(102)
 いかなる社会編成がよいかの選択は、正義の問題である。とはいえ、正義の負担(burdens of justice)が考慮に入れられなければならない。障害者運動は「個人ではなく、社会を変えよう」と主張する。このスローガンはさらに考察する必要がある。たとえば、人工内耳手術を聾の子どもに受けさせることの是非が例になる。手術は、支配的な社会枠組みの中で効果を発揮する機能への機会を補償する、というリベラルな原理に従っているとも言える。だが、それに対して、それは聾文化へのアクセスを阻むことであり、望ましくない、とデフ・コミュニティの聾者の人々は主張する。(103)このどちらを選択すべきかは複雑な問題の一例である。障害をもつ人々と非障害者の利害関心を評価するための基準は難しい。その基準は、尊重と公正の配慮を含むだろうし、また開かれた公的な理由づけのプロセスの結果として実現されうるだろう。
 これらは依然として開かれた倫理的問題ではあるが、インクルージョンに対する二つの説得力ある理由がある。第一は排除がもたらす厭わしい帰結に関係する。第二は、そうした基準が目指す利害のバランスに関わる。ケイパビリティ・アプローチはこれらを考慮する枠組みを提供するだろう。
 とはいえ、いくつかの反論もある。その検討を通して、このアプローチを擁護しよう。

3.4. インペアメントと障害に関するケイパビリティ・パースペクティブの正当化
 このアプローチは個人間比較の指標を提供し、障害者に対する正しい分配的対応を定式化することに向けた障害概念を提供しているが、批判もある。(104) 一つはジョナサン・ウルフによるものであり、ケイパビリティ概念の曖昧さに向けられている。第二の批判はトマス・ポッゲによるものであり、障害を劣った自然の賦与とすることでスティグマ化をもたらす、という批判である。
 ウルフはセンの見解の意義を認めつつ、諸機能に対する機会というケイパビリティの理解について「諸機会は政府が正当に提供できる財の一種にすぎない」と指摘している。さらにウルフは、このアプローチの非特定的な性格を、ケイパビリティという考え方の曖昧さに結び付けている。機能に対する一つの機会が達成された機能になりうるのは、行為者の側で何らかの行為が実際に行使されることにおいてのみであり(105)、この行為が行為者の力で行われるときのみである、とウルフは言う。(105-6) ウルフの見方では、真の問題は、人々がある機能を達成し、また享受するために、いかなる種類の行為が人々に期待されるかを特定することにある。人々は諸機会を得て行為すること、そして諸機会を達成することが期待されるが、それは、インターパーソナルな形でそれが適理的に期待される限りにおいてである。
 ウルフの議論は、ケイパビリティの選択にあたってセンが導入する民主主義的プロセスと開かれた公的な理由づけをめぐる議論と基本的に両立する。ウルフはケイパビリティ論を明確化するために、適理性(reasonableness)概念を導入しているが、この議論は、ケイパビリティの考え方および枠組みを明確化しそれに付加する論点という意味で重要である。
 より論争的な反論は、トマス・ポッゲによって展開されている。(106)ポッゲはロールズ流の資源主義の立場から、ケイパビリティ・アプローチは重要で発見的な装置ではあるが、資源主義のオルタナティブにはならないし、究極的には正当化され得ない、と述べる。問題は「自然の不平等」の取り扱いにある。ケイパビリティ・アプローチは、障害を「垂直的不平等」とみなすことになり、障害をもつ人々を、他の人々よりも全体として恵まれない(worse endowed)人々としてスティグマ化する。それに対して、ポッゲによれば資源主義は、障害を、たとえば目の色や体重等々と同じ「水平的不平等」として位置づけて、それ自体を追加的資源の根拠にはならないものとする。(108)
 この批判に対する答えはこうだ。では資源主義は車椅子利用者に追加的に車椅子を提供しないのか。提供するべきだというだろう。しかし、提供するとして、

「資源主義者は、機能の概念に直接訴えることなしに、いかにして障害に関係する制度的デザインの調整の必要性を説明するのかはまったくもって明らかではない」(108)

 またケイパビリティ・アプローチは障害を多様性の側面の中に含めるから、妊娠した女性がスティグマ化されないのと同様、障害者にスティグマを貼ることはない。(109)


■ 4 Disability among Equals Jonathan Wolff pp. 112-137

◆まとめ ※ 「」内のみ引用。それ以外は要約。

課題 「私たちは、人々がその障害の状態にかかわらず平等者として扱われるような社会を構築しようとするならば、何が必要なのかという問い」(112)

4.1 平等主義的思想と障害政策

近年の平等をめぐる考察は「運の平等主義」と呼べるものによって席巻されつつある。それは平等主義的正義の目標を、個人の運命に対する幸運と不(過酷な)運の影響を中和化することに設定する。この立場が中和化を達成するために提唱する方法論は、普通「補償」と名指されている。この見解では障害は往々にして不運の典型とみなされ、補償が当然視されている。
 「補償」の意味はつねに明確なわけではない〔注5 グディンの「目的置き換え的補償」と「手段代替的補償」の区別は役に立つ〕。だが貨幣であれ物質的財であれ、補償は何か失われたものや欠如したものを「埋め合わせ」るという意味をもつ。障害者に対する補償としては、二つの現代平等主義の学派から、異なる理由づけがなされている。厚生の観念に基づくアプローチによれば、障害はその他の人よりも低レベルの厚生(たとえば選好充足レベルで)に甘んじており、それを適切なレベルに高めるために補償の必要があるとされる。資源平等主義によれば、障害者はその他の人に比べて「内的資源」を欠如した人として(それが厚生にもたらす影響に関わらず)概念化され、その欠如を埋め合わせるために追加的な「外的資源」を提供されるべきだと言われる。いずれの立場も、理由こそ違えど障害に対する貨幣による補償を提供する政策に収斂している。
 だが、社会政策に注意を向けると別の論点に気付く。貨幣による補償は、他に追及されるべき多くの手段の一つにすぎず、障害者は決して、障害という特別な悲劇に対する補償を主張していないように思われる。確かに貧困や他の医学的・機器的・人材的な援助を要するため金は必要とされている。しかし、気付くべきは、貨幣の移転のほかに、障害に対する他の多くの可能的戦略が現実には存在するという点だ。医学的介入、技術的・社会的・文化的変革等である。
 それが選択肢に入っていないとすれば、それはこれらの理論の重大な弱点である。(114-115)

 

4.2 よき社会

運の平等主義の失敗は、それがもっぱら諸個人間の公正の観念に集中し、人々の間の平等な関係性を創造するという考え方を除外しているところにある。とはいえ、全てが社会関係の問題だと思うのもまた反対の誤謬を犯すことになる。むしろ平等は分配の問題であると同時に社会関係の問題であり、必要なのは、両者を一つの図式に統合することである。詳細はここでは措くが、よき社会にとっての二つの目標だけを確認しておく。よき社会とは第一に、市民各人に「諸機能を保障するための真の機会」を提供する社会、第二に、「平等者たちの社会」であるべきだということである。(以上:116)


4.2.1 ⇒ 第一の目標の説明【省略】
4.2.2 ⇒ 第二の目標の説明【省略】

4.3 機会の創出と不利益の是正

障害〔の不利益〕を是正するための「汎用」アプローチとしての貨幣保障の不適切さを確認した。では、他のどんな戦略があり得るか。
 もし利益なるものが諸機能を保障するための真の機会という意味で理解されるべきだとするなら、私たちは何が諸個人の機会を規定するのかを問うべきである。二種類あり得る。第一に、その人が持っているものであり、その人がそれですることができる事柄である。資源というドゥオーキンの言葉はこの方向性を正しく示している。しかしそれだけではダメである。(以上:123)「社会的・物質的な構造」が重要な役割を果たすからである。ようするに、あなたの資源は、あなたがそれをもってゲームに参加するものであり、構造がそのゲームのルールを提供する。(124)
 誰かが機会を欠いていると考えられるとき、そこには少なくとも三つの領域がある。内的資源、外的資源そして社会構造である。内的資源については教育、練習、医学的外科的手術が対応しうる。それを「個人的増強(personal enhancement)」と呼ぶ。
 ※ 「不利への対処と人間の善」(菅原寧格・長谷川晃訳『北大法学論集』57-1, 2006年所収)では、personal enhancementは「人格的増強」と訳されているが、この文脈では「個人的」ないし「個体的」が適切。
 外的資源は二つの形態がある。一つは貨幣保障であり、もう一つは目的に応じた現物支給である。これを「目標特定的増進」と呼ぼう。
 最後に、資源を変えなくても諸個人の機会を改善するやり方がある。ゲームのルールを変えることである。それは、法や社会的態度の変化あるいは物質的環境の配置の変化などによって可能となる。それを「地位向上」と呼ぼう。地位向上の認識は、障害者の社会運動の大きな成果であり貢献である。(以上:124)

 

4.4 障害の本質

こうした枠組みで、障害をどのように理解すべきか。
障害は諸個人の個人的資源と外的条件が交差する点に存在するに違いない。これはきわめて大ざっぱな把握であり、二つの重要な反論について議論が必要である。
 第一の反論は、外的資源の役割を明確化することが重要だという議論である。たとえば、メガネは外的資源である。ここで重要な区別がインペアメントとディスアビリティだ。よい外的技術でも通常インペアメントを除去はしないだろう。だがそれは、インペアメントがディスアビリティになるのを妨げてくれる。外的資源の所有は、インペアメントを(除去するのでなく)緩和することによって、この意味での障害を除去してくれる。もちろん外的資源の所有で障害がつねに除去されるわけではない。(以上:125)
 第二の反論は上の大ざっぱな把握では、なんでも障害になってしまうという反論である。金がないことも障害になるという話になってしまう。これについて二つの応答が可能だろう。常識的アプローチは、貧困や人種や性差を除外し、障害の定義を限定する。他方、ラディカルアプローチは障害と他の不利益の諸形態の連続性を強調する。そうすると障害概念はその固有の意義を失う。
 ラディカルアプローチはマッキンタイアからきている。マッキンタイアは私たちは多かれ少なかれ他者に依存しており、その意味では概ね同じようなものだという。依存は程度問題であり種類の違いではない、と。この議論の系で障害者と非障害者に世界を分けることの意義が問われることにもなる。
 とはいえ、この区別にも重要な理由があると思える。その一つは、反差別政策が、特別な保護の対象になる人々を取り出す明確で有用な方法を必要としているように思えるからである。(以上:126)
 インペアメントは規範的概念であり、その展開可能性はいくつかある。一つはスタンダードなやり方だが、「正常な生物学的機能」あるいは「種に典型的な機能」という観念によって定義するやり方である。だがこれはあまりに個人主義化し過ぎているように見える。むしろ障害をもつとは、諸機能を保障するための真の機会が削減されていることであり、精神的ないし身体的インペアメントは、外的資源と社会構造を前提として、機会の削減についての説明の一部を構成する。(127)

 

4.5 個人的増強戦略選択の理由

障害者は特別な注意の対象になるべきだとして、どんな注意なのか。(以上:127)しばしば一つの戦略が実現不可能あるいはそのコストが支払えない事は明らかだろう。だが、実現可能な選択肢観で、コストは唯一の要素ではない。コストがかかり過ぎるが望ましい選択肢というものもある。異なる戦略は異なるメッセージをもつ。ある戦略にたいして一つの戦略が選択されるとき、人間の善についてのある説明が真であるということが前提になっていることが多い。
 個人的増強と地位向上戦略のあいだには明確な対照がある。障害の場合、障害の医学モデルと呼ばれるものが、個人的増強戦略の典型である。その反対者は、このモデルは本質主義あるいは少なくとも完全主義だと指摘している。個人的増強がすべて悪いとは言えないが、しかし、個人的増強が多くの場合人々をある種の理念化されたステレオタイプ、たとえば「種に正常な機能」といったものに近付けようとする方法として提示されることも確かである。
 それにたいして障害の社会モデルは個々人ではなく技術ないし法、建築物や公衆の理解を改変すること――つまり「地位向上」――を提唱する。地位向上は個人的増強よりも多元主義的で包摂的なメッセージをもつ。一つの懸念はあまりに寛容が過ぎる場合、誰かにとって悪いこともあるということである。たとえば、無文字社会のほうがよいという戦略を考えてみよう。さらなる懸念は、地位向上があまりにも高くつくかもしれない点である。(以上:128)
 目標特定的増進は多くのバリエーションがあり、多元主義的かつ完全主義的メッセージの両方をもつ。
 貨幣補償は一方で完全主義的であり他方で多元主義的である。完全主義的なのは貨幣が優位いつの財であるという想定をあらわしているからであり、他方多元主義的なのは、それは人々が貨幣を用いて何をするのかに干渉しないからである。
 内的資源、外的資源そして社会的物質的構造は、人生における個人的機会を決定する諸要素である。ではどれを選択すればよいのか。一つ以上の戦略が存在するところで、我々は最も効果的なものを用いるべきである。
 最も効果的と思えるのは個人的増強であるとも思える。それは直接的であり高い効果をもつ。(以上:129) この議論は、障害に対する医学テクアプローチが好まれる理由を提供していると言えるだろう。(130)

 

4.6 地位向上の理由

しかし、個人的増強で話が終わるわけではない。それは別の目標を手つかずにするからである。人々が平等者として互いに存在する社会の創出である。この目標は社会を変える戦略の理由を提供する。一つは地位向上はスティグマ的ではない、というものである。第二にそれはインクルーシブである。第三に、それはすべての人に利益になる。
 【事例省略】 なぜそれが望ましいのか。善き社会とは、画一性に対する圧力を含むべきでないし、差異に寛容であるべきだからである。(以上:130) なぜか。差異そのものが良いという人もいる。だがそれはもっともらしくない。違いを出すための遺伝子操作を望む人はいない。むしろ、我々は既に存在している(そして予見されている)差異を受容する世界を望んでいる。だが、なぜそれを望むのか。
 ある障害者活動家は四肢麻痺を「称賛する」ように公的にしばしば発言していた。これは一見ショッキングであり、無責任とさえ思える発言かもしれない。彼は四肢麻痺のほうが「良い」と考えているのだろうか。むしろ想像するに、彼は政治的意図をもって別のまったく異なる点を指摘しようとしていると思われる。四肢麻痺の人に合わせた社会のほうが私たち全員にとってもよいのだ、と。それがよいのは少なくとも二つの意味がある。第一に、人間はすべて平等であり、また社会編成に包摂されるべきであるというメッセージを伝達するのを助ける。第二に、我々の誰もが、明日に派自己で四肢麻痺になるかもしれない。もしそうなったときに、我々を受け入れる社会を望んでいるのだ、と。とすれば、四肢麻痺を称賛する活動家は高度に利他的な振る舞いをしていることになる。
 地位向上を好む社会はすべての人のリスクを削減する。それは四肢麻痺になるリスクを削減するのではなく、四肢麻痺になってもその結果として諸機能を失うというリスクを削減する。(以上:131)
 とはいえそれはいつも簡単なことではなく、地位向上は困難なことも多い。だが引き返すべきではない。(132)

 

4.7 障害と社会政策

地位向上のスティグマ化をしないという利益は、社会政策の観点からみると、障害を持つ人々を同定する必要があるという事実と対立するように見えるかもしれない。したがって、障害を持つ人々を援助するためにも彼らを同定する必要性と、その方法を論じる必要がある。(以上:132)
 一方に富裕者であるか貧困者であるかに関わらず、障害を持つ人々のニーズに対応すべきであるという見方がある。他方、障害そのものは重要ではなく、その人の生の経験総体を見る必要があるという見解もあり得る。どちらが正しいのか。一つの立場では、問題は、人々が諸機能を達成するための真の機会を持っているかどうかであり、その機能の欠如が特定の原因に帰されるかどうかではない、という見方もある。それによれば、知的・身体的インペアメントは厳密には社会政策にとって重要ではない。 双方にもっともな点があると思える。(以上:133) 生にもたらされる不利益総体をみる観点では、障害が特別なカテゴリーにならないが、とはいえ、障害は「不利益そのものではなく不利益の配置に対する指標として」やはり実践的には重要なものであり続けるだろう。(134)

 

4.8 反差別

障害者の権利擁護派はしばしば、次の二つの主張を展開したいと考えているように見える。まず、健康な身体の人々と障害を持つ人々のあいだには厳格かつはっきりした線はなく、同時に、障害者は特別な法的保護を受けるべきだ、と。ここでジレンマに直面していることにならないだろうか。もし障害者が特別な法的保護を受けるべきだとするなら、障害者と非障害者の明確な区別は不可避に見える。ラディカルな見解によれば、社会はその原因に関わらず不利益を改善すべきだということになる。その結果、生物学的にインペアメントをもつ人々は、社会的優先性を低下されられる可能性がある。
 これに対応するための方法として二元論的な見方を採用すべきだと考える傾向がある。直接的な差別と不利益との間には違いがある、という見方である。障害についての一般的な見方は、性差別や人種差別に反対する政策モデルに基づいて、障害者を差別から守るための規制や政策の基礎として本質的な役割を果たすようになってきているように見える。しかし他方、分配的正義の観点からみれば、障害概念のそのものは、社会的不利益――安定的に諸機能を達成するための機会の削減――と相関するものないしその原因として認識されるものという以外の役割をもたない。ここでもまた人種やジェンダーとパラレルな状況が確認できる。(以上:134) だが、さらなる考察は、我々は結局のところ、反差別政策のためであったとしてもディスアビリティに関する一般的な見方を必要としない、ということになるだろう。人種やジェンダーはディスアビリティではなくてインペアメントである、という形に沿って言えば、彼らに対する差別は、その身体的・精神的属性を基礎としているのであって、社会的機能の達成に対する機会に基づいているのではない、と。したがって、ここで擁護される見解に基づくならば、差別に対する政策はインペアメント概念を必要とする。他方、社会正義は安定的な諸機能の達成のための真の機会として解釈された利益概念を必要とする。しかし、にもかかわらず、それでも「ディスアビリティ」概念は重要であり続ける。深刻なインペアメントを持つ人々は、しばしば広範囲な機能の達成が困難であり、特別な配慮を必要とすることが多い。「ディスアビリティ」という語は、不利益の「群(cluster)」を同定するのに重要な役割を果たす。しかし、ディスアビリティ概念そのものは、障害者政策の背景になる理論構築において根本的な役割を果たす必要はない。(以上:135)

 

4.9 結論

この論文の中心的な議論は、不利益を扱うための一形態としての地位向上の利益である。その利点は、第一に、スティグマ付与的でない(non-stigmatizing)ことである。第二に、それは包摂的である。第三に、リスクを削減することですべての人の利益になる。(135)