Brighouse, Harry & Robeyns, Ingrid eds. 2010 Measuring Justice: Primary Goods and Capabilities,Cambridge University Press
4 Justifying the capabilities approach to justice
Elizabeth Anderson
1 正義の理論の特定化――ケイパビリティ理論は成功しているか?
「分配的正義の理論は二つの問題を区別すべきである。すなわち指標とルールだ。指標は分配的正義の要求に従う財のタイプを特徴づけ、ルールは、この財がどのように分配されるべきかを指示する。
指標は主観的か客観的かのいずれかでありうる。主観的指標は幸福や選好充足といった善を含む。客観的指標は大きく資源と機能に分けられる。資源は個人にとって外的な財、たとえば所得や富、仕事の機会、法的権利などである。他方、機能は、個人の地位であり、たとえば識字、健康、可動性、恥ずかしくない形で公的に活動できることなどである。
ルールは大きく、制約なき手続き的ルール、制約ある手続き的ルール、そして分配パターンに分かれる。」(81)
制約なき手続き的ルールの典型はノージックであり、制約ある手続き的ルールの典型はロールズの格差原理である。分配パターンルールの典型はロールズの正義の第一原理である。
「分配パターンルールは、人が行った事柄とは独立に実際の財の分配を固定する。制約ある手続きルールは財へのアクセスに対する「諸機会」を固定するだけである。実際の分配は、諸機会を利用する諸個人の決定によって決まる。」(82)
「パターン感応的(sensitive)なルールは広く、平等主義、優先主義、充分主義に分かれる」(82)
「ここから正義の理論は、次のことを説明しなければならない。指標に関しては、(a)なぜ客観的指標が望ましいのか、あるいはなぜ主観的指標が望ましいのか。(b)どの「タイプ」の財/善goodsが分配的正義の要求に従うのか(主観的厚生か、資源か、機能か)。(c)どの「特定の」財/善がそのタイプのもとで主題となるのか(たとえば、どの機能が問題になるのか)。また、ルールに関しては(d)ルールは無制約であるべきか、制約されたものであるべきか、パターン化されたものであるべきか。(e)それはパターン非感応的であるべきか、パターン感応的であるべきか。(f)ルールはどんな特定の形態を採るべきか。」(82)
「ケイパビリティの理論家は誰もが次の点に同意する。(a)指標は客観的であるべきで、(b)正義の要求に従う財は機能であり、(c)ルールは分配感応的であるべきだり、(d)少なくともルールの一部は制約ある手続き的なタイプであるべきである。制約ある手続き主義は、ケイパビリティ理論がルールを、価値ある機能の達成ではなく、価値ある機能を達成するための「諸機会」という意味で定義しているという事実から帰結する。」(82)
ポッゲのケイパビリティ論批判は、ケイパビリティ論が「(e)ケイパビリティセットの中でどの特定の機能が重要かを述べていない点、(f)正義に適った分配ルールの形態を特定化していない点」に向けられている(83)
従来、センやヌスバウムは、低開発国を扱ってきたため、たしかにそれらの点が曖昧にされてきたと言える。低開発国ではあまりにレベルが低いため、正義論の違いを評価するのに役立たない。どの正義論からもおおむね同じような結論が導かれるからだ。(83)
私自身は、民主主義的平等という概念を提唱してきた。民主主義的平等論は正義に関して、ケイパビリティ指標の充足〔十分〕主義的基準を与える。(83)
2 指標の選択肢――主観的尺度対客観的尺度、ケイパビリティ対資源
「客観的尺度を選好する三つの理由がある。適応的選好、公示性条件、正義の主題としての基本構造である。」(85)
適応的選好形成の「問題を解決するために、主観的理論の擁護者は、仮設的基準へと小t値を移すことができるかもしれない。……だが本当の(authentic)選好から適応的選好を区別するために、そのような基準あるいは他の基準を適切に定式化することは困難だ。加えて、仮設的選好は、問題になっている状況では知られ得ない。さらに仮設的選好理論は、もしそれがパターン感応的ルールと結び付けられるならば、仮設的選好の共同に関する個人間比較を行えるようなものである必要があるだろう。一般的コンセンサスを得て、また公示性条件を満足するようなやり方で、そのような比較を実行する方法を知ることは難しい。公示性条件は、公共の正義の受容可能な原理がその社会の中で満足されるために、共有知の問題として万人に知られることができる、ということを要請する。」(85)
「主観的指標は、公示性条件を満たせるような正義の基準にとって良い候補にはならない」(85)
「正義の主観的指標を拒否するためにはこれらの理由で十分だが、問題の核心には届いていない。正義は根本的に二人称の規範的主張に関わっている。」(86)
「何が我々をお互いに責任によって結びつけるのか、しかも正義の強制的なルールの命令を正当化するような仕方で。ロールズのエレガントな答えは今でも有効であり続けている。すなわち、我々は、我々が作り上げる社会のあり方に対してお互いに連帯責任をもつ、と。」(86)
「本稿の目的にとって重要なポイントは、こうした正義の概念が何を排除しているか、である。」
→ 世界全体の最善の状態に関する構想でも、主観的幸福や選好充足はこうした正義の概念を導き出さない。
ポイントは、市民が市民としてのその客観的利害を満足させるために何が必要であるか、という点だ。
ロールズは市民の客観的ニーズは基本財という用語で定義されるべきだと論じたが、ケイパビリティ理論はこの点でロールズと袂を分かつ。
「資源主義者とケイパビリティ理論家は、国内的および国際的正義の目的にとって指標になるものは主観的ではなく客観的であるべきだという点に同意する」(86)
何が両者を分けるのか?
まず、次の点では一致する。つまり諸機能や個人の状態は直接的に分配され得ず、そのような状態にとっての手段、すなわち諸資源だけが分配されうるという点。たとえば、国家はヘルスケアを提供することはできるが健康を直接提供できない。食糧や食料を買うことのできる所得を提供できるが、良い栄養状態を個人に直接提供することができない。(87)
また、手段の分配の「諸目的」についても一致する。とくに人間の客観的ニーズ、諸機能という観点から尺度化されたニーズの充足(に対するアクセス)がそれである。我々はまず、重要な諸機能とは何かを決定しなければ、その諸機能を達成するのにどんな資源が必要とされるかを同定することはできない。(87)
両者の根本的な相違は、諸個人の内的差異への感応性、およびそうした差異と相互作用する環境的特徴と社会規範への感応性にある。
資源主義者は基本構造に課される役割は、「標準化された」資源パッケージに対するアクセスを提供することだと考える。それに対してケイパビリティ理論家は諸個人が諸機能に資源を変換する能力に感応的に、個々人に合わせて調整され他資源を提供すべきだという点を強調する。
3 資源に対してケイパビリティを支持する四つの理由
① 両者が共有する理解。正義は手段ではなく目的に関わるという観点から見て、この目的をケイパビリティアプローチの方がうまく達成できる。(87-88)
② ケイパビリティ尺度は構造的・心理社会的不正義に感応的である。スティグマ、集団隔離、その他のインフォーマルな不正な社会規範などである。これらは資源の分配によって構成されているわけでもないし、それによって改善されるわけでもない。
③ 諸機能に対する個人間のアクセスにおける多様性は、民主主義的な意味をもっており、これを上手く扱える。
④ 民主主義的制度はケイパビリティによって表現される正義にフィットする。(88)
②について…… 「ある種の不正義、例えば集団スティグマ化やステレオタイプ化といった抑圧的な言説規範、そして仲間はずれによる事実上の集団隔離は、社会の中で平等者としてふるまう諸個人の能力に干渉する。こうした種類の不正は、諸個人に対する特定の資源の分配によって構成されているわけではないし、従ってそれによって改善されうるものでもない。たとえばゲイやレズビアンの「クローゼット化」を考えよう。この不正は資源の再分配によって直接的に対処され得ない」(89)
discursive equalityが欠如していれば金がいくらあっても同じである。(89)
たとえば、人種差別による機会の制約は、「インフォーマルな社会的ネットワーク」によって不可避的に影響を受けている。
…… 「資源主義的アプローチは、こうした不正に対して、代替的な機会アクセスのルート――たとえばアファーマティブアクションプログラム等――を作り出すことで、諸機会へのアクセスにおける不平等を「補償」することを推奨することができるが、それは依然として、人種的スティグマ化の不正の根底にあるものは放置することになるだろう」(90)
これはロールズの「自尊の社会的基礎」に関わる。ロールズ自身は、これを他の基本財――基本的諸自由、ジョブ、教育機会、所得と富――で保証できると信じていた。だが私はこのロールズの希望は場違いだったと考える。
「不正なスティグマやステレオタイプ、言論空間内の不平等、孤立などは市民社会の持つ非民主主義的な側面であるが、それは資源の再分配によって構成されているわけではないし、それによって改善もされ得ない。また、それはいかなる直接的な規制によっても改善され得ない」
「それらが、行政決定に影響を与えているのではなく、インフォーマルな社会関係を構造化している以上、それらは正義に対する資源主義的アプローチにとっては不可視であると同時に、その射程を超えている。ケイパビリティアプローチは、インフォーマルな社会規範や予期が、諸個人が資源を機能に変換する能力――民主主義的に重要なもの――に影響を与えているその仕方に焦点を当てるため、それらの不正義を認識することができるし、非資源主義的な改善策を示唆することもできる。たとえば、公教育のカリキュラムや学生の社会化政策は、寛容の重要性と差異を超えた協力の意義を強調するように改善されうるし、ゲイ、レズビアン、女性、障害者、黒人、ムスリムその他の不利益を受けている集団についての間違ったステレオタイプをなくすように改善されうる。」(90)
「資源主義は、全ての公的不正義は、形式的に行政管理されうる改善策の主題だという希望を表明する。もし、不正義が存在するならば、何らかの資源の再分配はそれを是正することができるだろう、と。だがこれは間違いである。ある種の不正義は、形式的ルールによる直接的な是正の射程を超えている。というのも、直接的是正の試みは、人々が自由な社会で有する権利に対する資源を干渉するだろうし(つまり発言の自由や結社の自由)、直接的是正の試みは失敗するだろうからである(国家は人々に対してお互いにフレンドリーになることを強制できない)。だが、それでもこれらの不正義は、市民の平等者としての地位を傷つけ、したがって社会の民主主義的であることへの主張を掘り崩すがゆえに、公的な重要性をもつ。外的資源の分配と、平等者として存在することへのケイパビリティとの間にはギャップがある。」(91)
「公的文化の領域の正義は形式的に管理できるものではないが、公共政策は、こうした文化的不正義に対して間接的に、資源の分配とは別の手段によって対処することはできる。」
→ ケイパビリティアプローチは、こうした不正を認識しそれに対処する上で資源主義よりも望ましい。
③について…… ケイパビリティ・アプローチは資源を機能に変換する能力の違いを考慮に入れる点で、資源主義よりも優れている。
とはいえ、資源主義も人々の差異を考慮する、という反論がある。ポッゲは車椅子の人へのバリアは社会的に明らかな差別(overt discrimination)だとして、社会にはこれを解消する義務がある、と論じて、この批判に反論する。
とはいえ、ポッゲは同時に「自然の籤」の結果については、社会は解消する義務がない、と述べている。自然と公的インフラによる差別〔人為〕を区別している。
だが、この資源主義による区別は、整合的なものか。(91)
まず、公的インフラによる差別はほとんどの場合、意図的ではない。(91-2)
むしろ、たとえば、人は普通足で歩くものだといった標準モデルが無意識のうちに前提になっている場合の方が多い。(92)
これに対してポッゲは二つの解答を与えている。
① まず彼は資源主義的な正義の基準は、「人間の標準的ニーズと賦与に関するバイアスなき考え方」に基づいているべきだと論ずる。
② 他方、「人間のニーズと賦与の多様性の全範囲」を考慮に入れるような「バイアスなき考え方」が得られるなら、全ての人は、標準的な資源パッケージ、つまり個人のニーズと賦与のバリエーションに対して調整されていない資源パッケージへのアクセスの権利をもつと論ずる。
このような、諸個人の違いへの不感症は資源主義アプローチにとって構成的である。問題は、資源の標準パッケージが本当に「人間の標準的ニーズと賦与に関するバイアスなき考え方」に基づくことはできるか。人間の多様性を考慮に入れるならば、可能だとは思えない。(92)→ 障害者のための駐車スペースの事例。(92-3)
資源主義は、障害者のために広い駐車スペースを作り、健常者の駐車スペースを減らすようなことは、正義ではなく人道主義的配慮(humanitarian concern)の問題だと言う。(93)だが私はそれには同意しない。それは障害者の市民としての平等な地位を剥奪するからだ。剥奪は正義の問題である。
標準化された資源の束という考え方は成立しないだろう。(93)
ケイパビリティアプローチは隠在的差別(covert discrimination)に、資源主義よりもうまく対処できる。(94)
ポッゲはこの点について、ケイパビリティ論に二つの反論を行っている。それによれば第一に、ケイパビリティアプローチは、社会編成によって内的に劣位化された人々に対する援助の方が、自然の事故で欠損を負った人よりも、より強い正義に適った義務があるということを看過する。第二に、ケイパビリティアプローチは、補償要求の妥当性を受け入れることになる。
第一の反論はしかし指標ではなくルールの選択に関わっている。これはパターン化された分配ルールに共通する問題である。それに対して、制約された手続き的ルールはこのポッゲの反論を回避できる。たとえば、充足主義的民主主義的平等ルールは、ケイパビリティに下限を設定することで、優先順序を付けることができる。
ポッゲの第二の反論もまた、指標とルールを混同している。ケイパビリティ指標を選択することは、内的能力と障害に関する自然の分配を、それ自体として正義に適っているとか不正であるとみなす立場にコミットしない。誰かの自然の賦与は、他の人々のそれよりも不正に劣っているから補償を得る権原がある、といった補償ルールは、ケイパビリティ指標に関与するものが採用可能な多くの可能なルールの一つにすぎない。(94) 私のケイパビリティに基づく民主主義的平等原理は、この補償ルールをはっきりと拒否する。(94-5)ヌスバウムの充足主義的基準もそうだろう。補償原理による、内的賦与に関する最も価値があるものから価値なきものにランクづけられた垂直的ヒエラルキーに関する想定とは関係ない。むしろ、改善可能なケイパビリティの欠損は、回避可能な社会編成が正常な能力に向けて不当にバイアスされていることによる、隠在的な差別とみなされる。
※ ④は省略
4 更なる批判
ポッゲは、ケイパビリティアプローチは、
① 追加資源の受容者をスティグマ化する。
② コストを考慮していない。
と批判している。
①の批判は、ケイパビリティ理論家が、内的賦与の自然の配分における不運に対する保証原理にコミットしている、という前提に基づく。この原理に対する批判としてはスティグマ化批判は正しい。だが、すでにみたがケイパビリティ指標を選択することは、この原理を採用することではない。(95)
私はかつて、社会で平等者として活動できないほど望ましくない容姿のためにあまりにひどくスティグマ化された人は、美容整形手術の権利をもつだろう、と論じた。ポッゲはこれに対して、それはスティグマ化だと非難する。
「アンダーソンの理想社会の国家平等市民省は、ハンディキャップをもつ醜い人に次のような手紙を書くだろう。「自然に劣った人へ。我々は、あなたの劣った自然の賦与について、あなたは、我々が平等な市民として認めることができるような機能を得るために、特別な補償的利益を受け取るべきだ、という決定をしました」と。」
ポッゲは民主主義的平等もスティグマ化するとみなしている。たしかに、ケイパビリティ理論は諸個人のケイパビリティを、彼女の内的賦与、外的資源そして社会的・物理的環境の結びついた産物として扱う。自然の不運に対する補償原理を拒否して、民主主義的平等などの別の原理を採用する論者は、差別の被害者に対して、資源と社会環境を提供する権限を与える。個人の内的賦与における欠損とはみなさない。したがって、国家平等市民省は、次のような手紙を書くだろう。
「市民へ。あなたをスティグマ化する社会と、あなたの差異に適合しない社会に対するあなたの批判は、我々が是正すべきであるような社会的不正義を明らかにしています。しかし残念ながら、われわれは、あなたの容姿に対して多くの人々が有するスティグマ化するような不正な慣習を変えることが困難だということに気づきました。だから、我々はあなたに対して、こうした不正なスティグマをあなたが避けることができるような美容整形手術を提案します」
「スティグマ化に対する正しい反応は、我々が、こうしたスティグマ化が偶然だということに気づくことを要請するだろう。それは、ポッゲが指摘するように、スティグマの背後にある価値判断を是認することを要請しない。もちろん、誰かが不正に扱われているということを認識するだけで、それがその被害者を傷つけることにはなりうる。だが、これはすべての正義の理論に伴う困難である。一般に、人々は、彼らが無視されるよりは、不正義を被らないことを好むだろう。私は、深刻な容姿の異常を被る人は、その人が社会に受け入れられることを可能にするような美容整形手術を、手術に不足するような、それによりその人をパーリアに留めてしまうような資源パッケージよりも好むだろうということを信じている。」(96)
※ 要するに、ここでアンダーソンは結局、醜い人は無視されるよりは整形手術を好むだろう、と述べている。
補償原理を拒否するケイパビリティ理論家は、容姿や知能等のある種の賦与の欠如というナマの事実を、社会がそうした賦与を欠く人々のどのように扱っているかに関する評価を離れて、それ自体として補償に値するとは考えない。(97)
コストを考えていないという批判
→ 第一に、無駄に資源を費やすことはない。第二に、ケイパビリティ間のバランスを考慮している。(97)
7 What metric of justice for disabled people?: Capability and disability
Lorella Terzi
「障害をめぐる問題は、正義の二つの主要な指標をめぐる議論の擁護論の間で続いている論争にとって範例である。その二つの指標とは、基本財ないし資源主義的アプローチとケイパビリティアプローチである。これらのアプローチの核にある違いは、トマス・ポッゲが本書で明確に論じているように、まさに、利益に関する個人間比較の基準は人々の異質性に対して、つまり人々の間にある障害や特別なニーズに対して感応的であるべきかどうか、という点にこそある。」(150)
「ケイパビリティ指標は、一方でインペアメントに関係する不平等に対して感応的であると同時に、他方、社会環境要因――文化的要素や人々の態度等の要素(attitudinal
factors)を含む――に由来する不平等にも感応的である。これらの要素は、障害者の平等な地位に深く影響を与えているが、資源の保有に基づく比較の中では、考慮されないか、あるいは完全に明らかにされることはない」(151-152)
社会的基本財指標――「ロールズは諸個人がその能力の所有に関して大きく異なっていることを認識しているが、にもかかわらず彼は、社会的基本財指標から、こうした人間の多様性に関わる考察を除外している。」(153)
この立場は自然の基本財に関する人間の多様性についての一つの理解であり、それは、平等をめぐる論争に大きな影響を与えてきたし、障害を考察する上でも重要である。
ロールズの見方では自然の賦与の所有における差異は自然の不平等を帰結する。
「そしてロールズは才能と能力の分配――彼が呼ぶところの自然の籤――が機会の分配と運の差異化を帰結するという重要な直観を練り上げているが、自然の差異は社会的基本財に基づく個人間比較にとって考慮されていない。」(153)
「平均的能力とニーズからの逸脱(departure)としての障害」という考察により、ロールズは障害の問題を彼の正義の理論のなかで保留することになる。(154)
だがヌスバウムが指摘するように、多くのインペアメントは社会的文脈によっては障害にならない。これを曖昧にすることは、インペアメントとディスアビリティの区別を看過することである。
基本財指標で障害を扱えるかどうか。①基本財指標は障害をいかに評価するか。②インペアメントとディスアビリティの区別をこの指標で考慮できるか。(155)
ロールズの契約論は障害者に対応できる、という見方もあるが、それは結局過剰か過少になる。(158-9)
たしかにロールズ的指標でも、社会的・制度的編成のデザインの帰結として、障害に関する要求を評価することは可能である。この点で、基本財の理論家は、平等な資源の欠如によって生ずる制約を指摘できるし、それは障害の社会モデルにも一致しうる。(160)
だが、基本財指標にもとづく対応は部分的なものに留まる。(161)
それには二つの理由がある。①どこかでケイパビリティ概念、より厳密に言えば機能の制約といった概念を用いなければならなくなること、②社会的・制度的デザインを超えた不利益があるからだ。
第一点について、盲目の人の状況を説明するためには、その視機能の欠如という観点が必要になり、単に環境的構造だけでは処理できない。(161)
第二に、「基本財アプローチは、障害者の被る不利益の決定要因として社会状況だけに焦点化して、諸個人の特徴を考慮することはなく、インペアメントに関わる重要な効果および文化的・社会的要素に関係する効果に対して感応的でないように思われる」(161-2)
盲目の教師、サリーが、学生とのミクロな相互行為文脈でのやり取りの欠如を通して孤立する事例。
「要するに、この事例が浮かび上がらせるのは、特定のインペアメントと障害は社会的・環境的デザインの調整という発想だけでは適切に対応され得ないということであり、したがって、社会的基本財を参照するだけではダメだということだ。」(162)
⇒ それに対して、ケイパビリティ・アプローチは基本財指標アプローチの射程が及ばない範囲にも届く。(162)
「基本財指標は、特定の社会的・環境的編成のデザインによって強いられる不利益については理解するが、平等な自由の背景を考える際に、平等な地位に対する文化的・社会的規範とそれらの果たす役割を考慮に入れない。」(163)
「明白な差別の事例に訴えるまでもなく、障害者の書いた文章の中の多くの説明が、他者による反応に対処する際に被る困難を表現している。たとえば、他者が障害者を見る見方や行動の仕方等々」(163)
「たとえば、痙攣や容姿に大きな傷を持つ人々は、他の人々がそうした障害に対して衝動に駆られて行動するため、あるいは対処法を知らないために、社会的相互行為において他の人々に避けられたり、そっぽを向かれることがある」(163)
しかしこれらを扱えない。
「さらに、基本財アプローチは社会デザインの変化によって対応可能な不平等には感応的だが、インペアメントとディスアビリティの複雑な相互作用を認識することについては限界があり、また社会デザインの改変によって適切に対応できないような不平等を放置する傾向にある。さらに、基本財アプローチは、障害を持つ人々の社会的に不平等な地位の形成に大きく関わる文化的・個々人の態度の要素を過少評価する傾向にある」(163)
2 ケイパビリティと障害
2.1 ケイパビリティ、人間の多様性、障害
センは障害に即した具体的な議論をしていない。
とはいえ、ケイパビリティ指標にとって中心的な人間の異質性という考え方からは、概念的かつ規範的に重要な考察が導かれる。
第一に、機能とケイパビリティの概念は、インペアメントとディスアビリティの区別を説明すると言える。(165)
インペアメントは機能における制約可能性に関係しており、ディスアビリティはケイパビリティにおける結果的な制約にに関係している。
たとえば資格に関わるインペアメントは見ることに結び付けられる諸機能における制約という意味で適切に表現される。この機能における制約は、それに代わるあるいは異型の機能が得られないならば、機能不全(functional inability)という意味で、ディスアビリティを帰結しうる。
第二に、障害は個人と社会的、制度的、環境的構造との相互作用から発生する、人間の多様性の一側面とみなし得る。(165)
サリー事例による基本財アプローチとケイパビリティアプローチの比較 (166)
「ケイパビリティ指標は、文化的かつ個々人の態度に関わる要素を、社会規範と同じく、障害者に不利益をもたらし、障害者の社会における平等な地位を損なうような特定の要素として扱うと考えられる。」(167)
→ 「障害について一般に共有された見方を変化させ、規範と認知の仕方を改変するキャンペーンは、ケイパビリティアプローチから見て、障害者のケイパビリティを平等化する方法の一部として考えられうる」(167)
「ケイパビリティ論において、障害は、人道的義務や連帯あるいは慈善などを課すのではない。むしろ、ケイパビリティアプローチは、より強く全ての障害者に対する義務は、正義の義務(duties of justice)であるということを示唆する」(167)
とはいえ、セン自身はケイパビリティアプローチを正義の完全な理論として展開しているわけではなく、正義とケイパビリティについては更なる議論が必要になる。ここではそれに解答を与える準備はないので、いくつかの問題を簡単に概観しておくだけにする。(167)
2.2 正義をめぐるいくつかの問い
重要なケイパビリティの選択とその指標化をめぐる問題がある。とくに、多元主義を認めつつ、つまり諸個人の実際の選択を疎かにせずに、重要なケイパビリティを選択することは、単に民主的決定に委ねると言うだけでは済まない問題があるだろう。
また、個々人の重要なケイパビリティにとって達成されるべき平等のレベルについての問いも残る。(168)
アンダーソンの民主主義的平等論はそれに対する答えを示唆していると言えるが、より分節化された正義原理が必要だろう。(168-9)