Equality and Tradition : Questions of Value in Moral and Political Theory

Scheffler, Samuel 201007 Equality and Tradition : Questions of Value in Moral and Political Theory,Oxford University Press

目次

 

Introduction           3 (12)
 Part I Individuals
  1 Valuing          15 (26)
  2 Morality and Reasonable Partiality  41 (35)
  3 Doing and Allowing          76 (31)
 Part II Institutions
  4 The Division of Moral Labor: Egalitarian Liberalism as Moral Pluralism  107(22)
  5 Is the Basic Structure Basic?    129(31)
  6 Cosmopolitanism, Justice, and Institutions  160(15)
 Part III Society
  7 What Is Egalitarianism?      175(33)
8 Choice, Circumstance, and the Value of Equality  208(28)
  9 Is Terrorism Morally Distinctive?   236(20)
  10 Immigration and the Significance of Culture  256(31)
  11 The Normativity of Tradition      287(25)
  12 The Good of Toleration         312(25)
 Index                    337


第7章 "What is Egalitarianism?"のまとめ
(初出は、Philosophy & Public Affairs Volume 31, Number 1, Winter 2003, pp. 5-39) ページ数はPDFダウンロード版による。

※ 要旨:運の平等主義は、①選択と状況の区別の哲学的な困難性、②不利益が分配に値するものだ(状況が強いるものだ)という証明を不利益を被る人に強いること(スティグマ化)において問題がある、と批判される。この批判の前提は、平等論は、より広く「等しい配慮」あるいは「平等者としての尊重」という政治社会的な「平等」の理念に基礎づけられるべきだ、という認識である。シェフラーは(アンダーソンやウルフと共に)「運と責任」ないし「状況と選択」の区別に基づく分配的平等論は、この理念を実現する方法として適切ではないとする。最後に、「等しい配慮」に基づくとされるドゥオーキンの議論について、その「国家中心的」(コーエン)な議論枠組みは、中央集権的な行政管理主体(公務員)が人々(被治者)を客体として位置づけて配慮する「慈善に満ちた統治者(benevolent tyranny)」モデルであり、その点で「平等者たちの社会」という理念とは合致しないと批判される。

『正義論』以降の分配的正義理論の重要なものの一つが「運の平等論」と呼ばれる理論である。

「その核になる考え方は、人々が享受する利益に関する不平等は、もしそれが人々が自発的に行った選択に由来するものであれば受容可能だが、人々の状況のもつ選択されない特徴に由来する不平等は不正だ、というものである」(5)

これまでの政治道徳の考え方では、人種や宗教、性別や民族など、本人が選択できないモノを理由にした差別は不正だ、というものだった(以上:5)。だが、これまでの考え方は、等しい才能(talent)を持つ人々は、〔他の差別を排して〕等しく評価(qualify)されるべきだという議論だった。それに対して、「運の平等主義」はこうした考え方を越えて、才能や能力(ability)の違いによる分配的不平等も否定する。
 では、選択に由来する不平等の許容可能性はどうか。運の平等主義はこれは許容可能だと言う。しかし、従来の政治道徳は、人々の選択に由来する追加的所得は再分配のための徴税の対象にならないとは言わない。
 運の平等主義は、従来の政治道徳に対して、才能や能力に由来する不平等を認めない点で強い主張だが、他方、選択に由来する所得については認める点で弱い。(以上:6)
 運の平等主義はしばしば、ロールズの議論を拡張し一般化した理論として提示されている。だが、運の平等主義はロールズからの支持をほとんど得られないだろう。(以上:7) 以下、Ⅰでは運の平等主義の基礎をロールズの議論に置くような政治哲学の近年の歴史を要約し、Ⅱでは運の平等主義のもっともらしさに疑問を投げかける。そこでいかなる分配的平等主義も、それが説得的たらんとするならば、道徳的価値あるいは規範的理念としてのより一般的な平等概念に根差してているべきだということを論ずる。Ⅲでは、ロールズにたちかえり、それが運の平等論を支持していないことを明らかにし、Ⅳで運の平等主義の原理が、より広い平等概念に支えられうることを示す。



ロールズは運の平等主義の基礎とされている。キムリッカが述べるように、たしかにロールズは、意欲を反映しやすく(ambition sensitive)資質を反映しにくい(endowment insensitive)理論を生みだすという動機をもっていた。(以上:8)  だが、キムリッカも述べるように、ロールズはその議論を十全な仕方で展開してはいない。選択と状況の区別にロールズは訴えるが、彼の格差原理はこの区別を侵犯する。それに対して、ドゥオーキンはこの区別を受けいれ、格差原理とは別の分配図式の方が、この区別をよりよく実現すると考えた。
 ロールズの著作には、運の平等主義の根拠として引用される二つの側面がある。一つは、形式的な機会平等を背景にして自由市場経済を支持するレッセフェールは人々の自然の属性と社会的ポジションに影響を受けているが、それらは「道徳的観点からみて恣意的だ」という議論である。そして我々はその影響をなくす努力をすべきだと論じられている。とはいえ、それは、ロールズの正義のconceptionを論証する要素としては考慮されていない。むしろロールズ自身の「公式」の議論は原初状態における選択というものだ。それに対して、運の平等主義は、この「非公式」の議論を主要な定式として引用する。
ロールズを運の平等主義が引用する第二の側面は、ロールズが、個人間比較の適切な基礎として社会的基本財を擁護する際に、責任概念に訴える傾向をもつという点である。(以上:9)
基本財に対する批判者は、同じ基本財から異なる選好や嗜好を持つ人々は異なる効用ないし厚生を得るという理由で、基本財は比較の基礎にならないと指摘する。それに対してロールズは、目的や選好に個々人は責任がある、と言う。安価な嗜好を持つ人が少なくしかもたないのは公正ではない。この議論が選択責任として、運の平等主義の論拠として引用されている。
 とはいえ、キムリッカは、二つの重要な点から、ロールズと運の平等主義は整合しないという。第一に、格差原理は特別な医療ニーズを持つ人々に特別な供給はしない。一人が健康でもう一人が病気だとしても格差原理は二人を同じように扱う。(以上:10) 第二に、格差原理は例え自己決定の結果だとしても、最悪の人の地位を最善のものにしようとする原理である。
これらの点について、ロールズは自らの運の平等主義を不十分にしか展開していないだけなのだ、という解釈もある。だがそれは正しくない。ロールズの議論は選択と状況の区別を特に重視していない。(以上:11) それに対して、たとえばアーヌソンは、自らの運の平等主義をロールズとドゥオーキンに由来するものとしている。この点はⅣまで先送りしておくが、いずれにしても、いくつかの点で、ロールズは運の平等主義よりも魅力的である。とはいえ、この点をみる前に、次節では、運の平等主義の立場に対して私が留保を与える理由を説明しておこう。(以上:12)



運の平等主義論者アーヌソンは、二つの緊密に関係した問いを検討している。第一に、何を平等化するのかという問いである。これが平等の指標(metric)についての問いとされ、厚生、資源等々があげられている。第二に、どのような不利益が平等の名の下で補償に値するのか、という問いである。それには身体障害、医療ニーズ等々がある。
これらの問いに対する最善の答えをめぐっては激しい議論があるが、運の平等主義のさまざまなバージョンが実践的にどう違うのかはよく分からない。運の平等主義と不平等主義とのあいだに大きな違いがあることは疑いないが、とはいえ、その道徳的な核心はそれほど明らかではない(以上:13)
20世紀の最後の二十年間における運の平等主義の登場は、アメリカや他のリベラルな社会における所得と富の不平等の著しい拡大と機を一にしている。それはプライバタイゼーションと市場への依存度の上昇によって特徴づけられる。とはいえ、運の平等主義と、それらの議論が起こった現実の社会における分配実践との間には鋭いズレがある。(以上:14)
もちろん、規範的概念としての正義と、それが実際に実践される場とのズレはいつもある。とはいえ、運の平等主義理論と現在の政治的実践のあいだの鋭い対照は、運の平等主義の理念の核心に対する道徳的擁護可能性に根本的な問いを投げかけている。  別の仕方でアプローチしてみよう。ここでポイントは、運の平等主義者たちの論争と、功利主義内部の論争との並行性である。ロールズを運の平等主義者の先駆として解釈する論者は、彼の議論は、厚生の平等の擁護者に反対して資源平等論を擁護する議論だとみなしている。しかし、ロールズの基本財の擁護論は、功利主義に反対する議論であり、厚生の平等に対する反対論ではない。つまり、厚生の最大化に対する反論であって、その平等化に対する反論ではない。現在、功利主義にとって効用ないし厚生概念は二つの役割を果たしている。第一に、それは、真に価値のあるモノあるいは善という意味をもつ。第二に、個人の福祉の評価に用いられる適切な尺度として扱われている。これらは、効用を諸個人の福祉の尺度とする功利主義的な善の理論では連関している。そしてこれらと、第三の主張、全体の効用の最大化が正しいという主張とは別である。
 ロールズは、功利主義のもつこれら三つの特徴の区別と同時に、これら三つの特徴の関係性に敏感である。ロールズは、善の理論としての功利主義を一元論的だとして否定し、より多元的な福祉の尺度として基本財を導入する。また、最大化概念を拒否して、正義が要求するのは協働の公正な枠組みの確立だと論ずる。(以上:15)
 厚生の集計を最大化する立場から、厚生のレベルの平等化へと立場が移行すると、最大化論に対する反論も変換される。功利主義はしばしば「功利性のモンスター」の可能性に悩まされてきたが、功利主義が運の平等主義の厚生主義的バージョンに置き換わると、功利性のモンスター問題は高価な嗜好問題によって置き換えられることになる。この二つの反論の関係の観点から、批判者が導く結論を比較することは有益だろう。またそれは、功利主義と運の平等主義の結び付きをみる上でも有用だろう。だが、運の平等主義の論者の多くは功利主義の擁護者がそうするほどに、自らの立場を擁護するための議論を十分に展開していない。(以上:16)
 たとえば、厚生主義か資源主義かをめぐる運の平等主義の論争は、厚生主義が善の適切な理論であるか否かという問いと、平等主義が平等化を目指すべき厚生が、個人の善そのものであるのかあるいは個人の善を達成する手段であるのかという問いを、明確に区別していない。そして、正義が【何ものか】の平等分配を要求するという理念は、しばしば単純に議論の出発点だとみなされている。
 私の見方では、この運の平等主義の立場には多くの根拠から疑問の余地がある。もっとも明白な問題は、選択と環境の区別にこの立場が置いている重みづけについてである。(以上:17)
 選択と選択できないものとのコントラストは受け容れがたい。人は社会のなかで生きているし、自発的選択なるものも社会的文脈によって影響されている。また、自由意思と決定論をめぐる形而上学的な難問がある。
 また、一方で我々には、不利益になるかもしれないような非選択的な属性を持っているが、他者に対してその補償を求めないものがある。他方、緊急の医療ニーズについては例え彼自身のハイリスク行動の結果だったとしても、ニーズに配慮すべきでないとは思われない。(以上:18)
ここから逆にみると、運の平等主義が形而上学的なリバタリアニズムの一形態に依拠していることが分かる。
 この問題に対して、運の平等主義は別のところに線を引くことで対処しようとする。たとえばドゥオーキンは「普通の人々の倫理的経験」に依拠して線を引こうとしている。(以上:19)ドゥオーキンは高価な嗜好について通常補償を要求できないと述べる。ラコウスキーも似た立場をとっており、たとえその人の選好を選択しなかったとしても、それを強めたり弱めたりするような選択は可能だとしている。
 しかし、さらなる問題がある。このような線引きをすると、才能も選択サイドに位置づけられることになるからである。人は才能その者を選択していないが、それを伸ばし発展させるかどうかを選択している。多くの人々は、その才能に対して「間接的な責任(consequentia responsibility)」がある、と期待されることになってしまう(以上:20)
 さらに、運の平等論は、「過酷な不運」の分配に対する効果を除去しようとするが、個人の不利益のどこが本人の意思によってもたらされ、どの部分が選択していない才能や環境によるものかを知ることはできない。そのためアンダーソンやウルフが指摘するように、運の平等主義者は、他の人々に正当に補償を要求できるか否かを内省するよう人々を煽ることになる。
 こうした理論は私たちになじみ深い平等の価値についての理解からかけ離れていると思える。その理解によれば、「平等は、より一般的に理解されているように、まず何よりも分配に関する理念ではないし、その目的も不運の補償ではない。そうではなく、人々が互いに対等な地位にあるような関係性を統べる道徳的理念である。」(以上:21)
 「平等が要求するのは、人間関係はすべての人の生が等しく重要だという想定に基づいて導かれるべきだということであり、全ての社会成員が等しい地位を持っていることである。アンダーソンが主張するように、この理念の一つのバージョンを擁護することで、平等は、運に対立するのではなく、抑圧や社会的地位のヒエラルキーの継承、カースト制、階級の特権、リジッドな階層化、非民主主義的な権力の分配等々に対立する」。これを、平等の「社会的かつ政治的理念」と呼ぼう。これには分配に対する含意もある。(以上:22)
 平等主義的な分配規範に関する問いが、より大きな平等理解によって主導されるべきだという事実を銘記するならば、運の平等主義の説得力は限定的なものだと思える。平等の社会的かつ政治的理念は過酷な運の影響を人間関係から一掃しようというような野心を支持しない。アンダーソンが言うように、分配に関する問いが重要なのは、ある種の分配体制(distributive arrangements)が上記の社会的かつ政治的価値と相容れないからである。

 「たとえ基本的ニーズが充足されたとしても、人々が最も望む目的を追求するために入手できるような諸資源が完全に市場の力に委ねられているならば、それを平等者の社会と考えることはできない。平等の社会的かつ政治的理念を受容する人々は、人々の収入と富の分有に関する極端な幅を避ける切実な理由をもつだろうし、人々の自然的かつ社会的状況における差異を経済的不平等へと翻訳するような制度に反対する理由をもつ。」(以上:23)
 社会的かつ政治的理念は、運の平等主義よりも収入と富の不平等を多かれ少なかれ許容するシステムを支持することになるかもしれない。しかしいずれにしても、その動機は運の平等主義とは異なる。(以上:24)

 ⇒ ロールズの議論と運の平等主義の議論の対比。ロールズは運の平等主義の根拠にならない、という方向性で論が展開される。ロールズは「社会的な責任の分担」については述べたが、それは運の平等主義の議論とは異なる。(24-31)

Ⅳ 

運の平等主義は、平等に分配されるべき何らかの通貨(currency)があるという前提から始めて、それが何でありうるかを探求する方向性に進む。すでに論じてきたようにそれは間違った方向性である。どんな形態の分配的平等主義であれ、何らかの、道徳的価値ないし規範的理念としてより一般的な平等の概念に結び付けられているべきである。この点運の平等主義は限定的な主張しかしていないと思える。
とはいえ、これは運の平等主義にとって不当な評価かもしれない。(以上:31)運の平等主義もまた、より広い平等概念に由来しているのだ、という反論がありうる。
だが、運の平等主義は自発的選択の結果として他人より状況が悪くなる人々がいたとしてもそれは不公正ではないと信じている。運の平等主義の論ずるような直観をほとんどの人々が有しているかどうかは決して明らかではない。運の平等主義の主張のような感覚はたしかにあるが、この立場はより広範な主張を展開している以上、さらに自己弁護を必要としている。(以上:32)
人々の選択は社会的文脈や制度的背景に大きく依存している。(33)
選択を反映しやすく(choice-sensitibity)資質を反映しにくい(endowment-insensitivity)という区別も、それ自体としては道徳的に説得的だとは思えない。ドゥオーキンは運の平等主義原理を、より広い平等理念によって基礎づけようとしている。だが彼の理念は、私が論じてきたような社会的かつ政治的な平等の理念とは異なる。ドゥオーキンは平等者として人々を遇することは、彼らに等しい配慮をもって遇することだと言っている。だが、この平等な配慮という理念は、本当に運の平等主義原理を支持するかどうかは分からない。コーエンはドゥオーキンの議論について、「国家が厳密な分配的な平等規範を追求するのを断固拒否するようであるとき、この事実から、この国家が被治者を平等な敬意と配慮をもって遇していないと言えるかどうかは、あまり明らかではない」と指摘している(訳書『あなたが平等主義者なら……』pp. 294-5)。アンダーソンはさらに、運の平等主義は「平等主義理論が答えるべきもっとも根本的なテスト、すなわちその原理がすべての市民に対する等しい尊重と配慮を表現しているかどうかというテスト」に答え損ねていると論じている。(以上:34-35)
ドゥオーキンは自分の富を、各々違ったニーズ、野望、嗜好をもつ子供たちの間でどのように遺贈するかを決める男の事例を挙げている。そしてそのアナロジーとして、「通常の政治的文脈」で生ずる問題、つまり「公務員」が市民に資源を分配する方法をめぐる問題に議論を移行させる。ここで、ドゥオーキンの遺言者と遺産相続者モデルは非対称的なモデルであることに注意すべきである。一方は利益を分配し、一方はそれを受け取るだけである。これを経済的分配問題に適用すると、人々は一種の中央集権化された主体によって処遇される客体として表象される。この主体のアイデンティティについて重要な問いが生ずるだろう。それは公務員集団なのか、社会、共同体全体なのか、と。いずれにしろ、遺言者と遺産相続族者モデルは、平等者たちの関係性を描写していない。独裁的政府はドゥオーキンのいう意味で、諸個人を平等者として扱う経済システムを強制するかもしれない(以上:35) しかしそれは、社会を平等主義的な政治共同体にはしない。ドゥオーキンの議論は、比較的強力な人々が比較的弱い人々に、資源を分配する方法を選択するような社会的ヒエラルキーに対応する。それを政治権力の分配問題に適用できるだろうか。できないだろう。(以上:36)ドゥオーキンの議論の要点は、結局のところ、彼自身が言うように「慈悲深い統治者(benevolent tyranny)」モデルだということになる。
 ドゥオーキンの議論が表象しているのは、平等の「行政管理的概念」とでも呼びうるようなものだ。「だが、等しい配慮という抽象的原理を最もうまく管理し操作するための方法をめぐる問いから開始するような平等主義は、平等者のあいだの関係性とはどのようなものかという問いから出発し、どのような社会的かつ政治的制度が平等者たちの社会にとって適切なものなのか、という方向に進む平等主義とは、鋭い対照をなす」(37)


第8章(結論部の引用)

「責任に基づく平等概念は、次のような問いに取り組む。人々は、自らの選択のコストをどの程度まで負うことを要求されるべきであり、その報酬を受け取ることをどの程度まで認められるべきか。人々は非選択的な個人的な性格に対して、どの程度補償されるべきであり、そこから利益を得ることをどの程度抑制されるべきか。人々の価値や選好や才能そして性格的特徴は、分配目的のために、彼らの選択の一側面として扱われるべきなのか、あるいは非選択的状況の一つに数え入れられるべきなのか。だが、これらの問いはすべて、我々が共に生活したいと思うような関係性に関わっている。これらの問いは、私たちが他者と共有できることを望む負担の性質と、他者が私たちと共有しようとする負担の性質に関する問いである。それはつまり、私たちが自分自身のために保持できることを望む利益の程度と、他者が彼ら自身のために保持しようとする利益の程度に関する問いである。」(231)

⇒ それに対する解答は、平等者たちの社会とはどのようなものであるべきか、という問いへの答え次第で決まる。

「社会的かつ政治的価値としての平等が表現するのは、人間の関係性はいかにして導かれるべきかに関する一つの理念である。この理念は、分配的含意をもっており、分配的正義に関する平等主義的概念に課されているのは、これらの含意を概ね示すことである。しかし一般に、責任に基づく平等主義的正義概念を追求する哲学者は、彼らの役割がこの点にあるとは考えていない。彼らは正義に関する主張の基礎を、平等の理念のなかに探求しようとはしない。そうである限り、彼らは、なぜ平等が私たちにとって問題になるのかに関する理由に関わりをもたない。」(232)