Disadvantage

Wolff, J. & De-Shalit, A. 20070621 Disadvantage, Oxford University Press. 224p. ISBN-10: 0199278261  ISBN-13: 978-0199278268

目次
Introduction                    1 (20)

 PART 1: THE SECURE FUNCTIONINGS APPROACH
  The Pluralism of Disadvantage         21 (15)
  Functionings                  36 (27)
  Risk                      63 (11)
  Opportunity and Responsibility         74 (15)

 PART 2: APPLYING THEORY TO PRACTICE
  The Indexing Problem               89 (19)
  Measuring Functionings              108(11)
  Clustering of Disadvantage and Empirical Research 119(14)
  Research

 PART 3: PUBLIC POLICY
  De-Clustering Disadvantage           133(22)
  Priority to the Least Advantaged        155(12)
  Addressing Disadvantage While Respecting People 167(14)

 Conclusion                    181(6)

 Appendix 1: Interviews Conducted for this Research  187(5)
 Notes                       192(29)
 Index                       221

まとめと引用

※「」内のみ引用。それ以外はまとめ。

第1部

第1章 不利益の多元主義
 1.1 不利益の理解に向けて


 不利益について二つの制約がある。一つは、誰が有利で誰が不利益を受けているかについて、現実的かつ実践的な説明を与えることだ。直観的判断を反映しているべきである。これを「現実主義の制約(realism constraint)」と呼ぼう。第二に、最不遇者(least advantaged)を同定し、相対的な利益と不利益に関する尺度を設定し、絶対的な不利益を受けている人々を同定することである。これを「指標的制約(indexing constraint)」と呼ぶ。
 現実主義は複雑性を、指標は単純さを目指す点で対立すると思える。
 以下では、単一の尺度に利益不利益を位置づけることができるならば良いかもしれないが、それは不可能であり、指標問題は深刻かつ不可避であることを確認する。
 単一の尺度に位置づけようとする理論にはいくつかの候補がある。まず、主観的選好充足論がある。個人の効用に限定する理論であり(以上21)、それは「効用の個人間比較」問題を解決するとされる(22)。これは「厚生主義」的アプローチだと言える。
 他方、資源主義的アプローチもある。それは市場、仮想的市場等を使って貨幣価値を比較する。その理論では相対的な利益と不利益の指標は重要な問題とはされない。この「資源主義」的アプローチも、主観的選好理論と同様、利益と不利益は単一の財ないし資源に還元される。これらを「一元論的(monist)」理論と呼ぼう。これらの理論的利点は尺度問題に解決を与える点にある。
 とはいえ、一元論とは別の理論もある。一元論はいかなる二つの財も優位と劣位にランクづけられるとする。だが、良い仕事の価値と、友情や家族の価値を単一の用語で説明することは難しい。選択肢が両立不可能な場合、一方が他方よりも良いということと、両者が平等に結びついているということのいずれもが真になると考えることもでき、この考え方は、「多元主義的」アプローチを採用しているということになる。
 フェラーリとロールスロイスは車という同一種の中で比較可能だが、それらがもたらす速度と安全性という別の要素の点では比較できないとも言える。比較できない点を重視するのが多元主義である。(以上22)
 現実には一元論よりも多元論を採用する方がよいが、問題もある。二つの財があるときに、それを共通の尺度で比較できないとすれば、ある人が別の人よりも暮らす向きがよいとか悪いと言えなくなってしまう。これを解決する一つの方法は辞書的優先性を付けることである。ある財は常に別の財よりも優先される、と。ロールズの議論は自由がたとえば所得といった他の財よりも辞書的に優先するという議論である。これは比較を認める多元論であると言える。とはいえ、ロールズの議論は経済的ないし分配的正義領域では明確ではない。ある面では、この議論は一つの財つまり貨幣だけが分配されるという一元論的見解を採っている。別の読み方をすれば、貨幣とは比較できない「自尊の社会的基礎」を付け加えているとも読める。後者の見方は、ロールズの議論が辞書的優先性の中でされ多元論的要素を持っていることを示唆している。この点は〔1.2.2で〕後述する。
 この簡単な考察は現実主義と指標化の緊張関係を示しているだろう。現実主義は一元論を排除するように見える。現実には比較できない不利益が問題になることが多い。一元論からすれば、それは指標化問題を通して考えようとしていないからだ、ということになるかもしれない。
 だが、一元論の解釈はおそらく現実主義的制約にうまく答えられないだろう。「一元論のもっともらしい唯一の形態は、我々が「補償パラダイム」と呼ぶものを採用せざるを得ない」(以上23)だが、補償パラダイムは受け入れがたい。とすれば一元論は受け入れがたい。

1.2 補償パラダイム
1.2.1 一元論の拒否

改善(remedy)が補償(compensation)という形態を採るのはなぜか。そもそも補償とは何を意味するのか。しばしば「何かが為されなければならない」と言われる。だが、補償の内実が金の用語(cash terms)で語られるさい、あるいは少なくとも物質的財という言葉で語られるさい、失われたものや欠如しているものを「埋め合わせる(making up for)」としてみなされている。こうした考え方には二つの区別される関係性、厚生主義と資源主義というものがある。厚生主義によれば、不利であるとは選好充足レベルが他者よりも低いということであり、不利な人は選好充足の適切なレベルにもたらすために必要な補償が必要だということになる。充足の欠如に対しては、他の資源の充足、融通の利く金が適しているとされる。
 とはいえ、命と金は置き換え不可能だ、という反論がある。これに対して、この議論は命と置き換え可能な金の量が低いからだという。それによれば、置き換え不可能性は、比較不可能性を含意しない。(以上24)
 これは「比較一元論」と「置き換え一元論」を区別する必要性を示す。比較一元論は、全ての財は比較の単一の尺度における。置き換え一元論は、いかなる財も、仮にそれを飽和し尽くさないならば、他の財と置き換えられうるとする。ロシアンルーレット事例は、両者の違いを示している。金が飽和ポイントを持たないならば、置き換え一元論は、金は他のいかなる喪失も補償可能だとする。比較一元論が哲学的関心を持つのに対して、置き換え一元論は社会政策を考察している。
 逆に、どれほど高く積まれた金でも死の危険性を補償することができないなら、置き換え一元論は否定される。
 では、資源主義とはどういう関係にあるのか? 

 興味深いことに、両者の立場の違いにもかかわらず、いずれも不利益を貨幣で補償する政策に同意できる。この収れんは、補償が正しいアプローチであるかどうかという問いが、これまでの議論でほとんど提起されてこなかった理由を示している。
 だが、たとえば障害者のサポートを考えた時、貨幣という形で形態で国家からサポートを要求しているというのは真実だが、それは事の一面であり、多面では(以上25)障害の悲惨さに対する補償を求めることはほとんどない。たとえ、内的資源の欠如を克服することが必要だという観念がもっともらしいとしても。障害者の経済的要求は、通常一つ、あるいは二つの特別な理由に基づいている。第一に貧困である。第二に、医学的あるいは他の設備ないし個人的助けを得るということだ。金の移転を別にしてもそこには他の戦略、つまり社会が障害者に対応するということもある。それには医学的介入、他の設備や有償の介護者、社会的技術的文化的変化が含まれる。
 別の事例、たとえば深刻な環境破壊はどうか。人々は単に経済的な意味でのみ喪失を経験したのではなく、自分のアイデンティティに影響を与えるところの、自らが住む場所についての意味を喪失したと言うだろう。これは貨幣の移転によって除去されたり、うまく「補償」されることはあり得ない。必要とされるのは、環境そのものの改善だろう。こうした点から、一元論的平等主義は、それが典型的に、あるいは少なくとも暗黙のうちに推奨する戦略が、実際には不利を受けている人々を取り扱う方法についての適切な説明でも完全な説明でもないということが示唆される。
 これに対して厚生主義も資源主義も、必ずしも貨幣による補償のみを採用するわけではないという反論もあるかもしれない。だが問題は、これらの議論では、あらゆる不利を貨幣補償を使って是正することに対するいかなる原理的な反論も存在しないという点にある。それに対して我々は、原理的理由が存在しており、したがってこの議論は否定されるべきであり、「置き換え多元論」にとって代えられるべきである。
 より形式的に言えば、

 1 ある種の不利益の場合、貨幣で改善するのがふさわしい。
 2 置き換え一元論が真であるならば、そして貨幣がある種の不利を改善するのに適しているならば、原理的に貨幣が全ての不利益を改善できる。(以上26)

だが、
 3 貨幣が不利の改善に適切ではない事例が存在する。

したがって、
 4 置き換え一元論は虚偽である。

 前提2が真の一元論的見解を反映している。貨幣は同じ方法で正確に尺度化可能であるため。貨幣が適切な改善方法であるべきだということを否定する理由はないかと思われる。これを否定することは一元論を捨てることである。
 前提3は、貨幣が不利益に対する改善の適切な形式ではないような事例が存在するということである。ではそれをどのように示すか。
 障害と環境的不正義の事例がそれを示す。モノの配置と移動の困難によって、その他の人びとに開かれている機会を欠いているため、労働現場から排除されていることに反対する障害者を考えてみよう。ここで、二つの社会政策が採用可能である。一つは、物質的環境を変えること。もう一つは、働けない人に貨幣による補償を支払うことである。ここでは、障害者は貨幣による補償に満足し、かつその補償が安く済むとしてみよう。選好ベースの理論でも資源ベースの理論でも、貨幣による補償は正しいという結論になるだろう。だが、我々が、もし、そのような政策に少なくとも何らかの留保を抱くならば、それは、この二つの理論の非一貫性を示していると思われる。たとえば、職場に参加できないという不利益の本質は、選好充足レベルが低いとか資源を欠いているという不利益を超えた何かだ、と論ずることができる。詳細は後述するとして、ここでは、この不利益には、障害者が価値ある社会関係やスキルを発展させたり、自らを他者の生活に貢献しているものとみなすような機会を欠いていることが含まれる、と言っておけば十分だろう。(以上27)そしてそれは自尊の源泉を剥奪されていることにもなる。これは、貨幣による補償を適切な改善だとすることを拒否する理由になりうるだろう。以上の議論が受け入れられるとすれば、それは補償パラダイムと一元論的理論を拒否するに十分である。
 それでも貨幣補償が正しい政策だと主張する反論がある。だがそれは決定的な議論ではない。たとえば、人びとがしばしば貨幣による補償を拒否する際に用いるレトリックを考えてみよう。つまり彼らは、「金で片付け(bought off)」られることを望まない、なぜならそれは「安く済ます〔軽んじる〕こと(cheapening)」であり「品位を傷つける(degrading)」からだ。この批判は厚生主義でも資源主義でも理解困難である。この立場では、金で片付けること――つまり貨幣を資源それ自体として与えること、あるいは選好充足の手段として与えること――は、単純に不利益に対処する方法になる。
 貨幣移転はじっさいポイントを逸している。暗い夜道で転んで怪我をした人が、行政に対して道路を明るくすることを要求する抗議の手紙を書いたとする。彼女が手紙を書いたのは、他の人々に危険を知らせるためである。抗議を受けた行政は、彼女に対して、休職期間と痛みの残る期間について、貨幣で補償することを決定したとする。だが、少なくとも三つの点で、この行政のやり方は問題を逸している。第一に、彼女の抗議は未来志向であるが、貨幣補償は過去志向であるという点。第二に、彼女は利他的動機で抗議したのだが、行政は彼女は自己利益から抗議したかのように扱っている点。第三に、彼女は一人の良き市民(a good citizen)として行動しているが、行政はそれを法的問題として処理している点。行政は、公的関心をもってなされた抗議を個人化しようとしたことになる。これは、「金で片付け」られるとはどういうことかを示す好例である。(以上28)
 ただ、これは次のようにも解釈されるかもしれない。金で片付けることは、一般的な抗議を〔個人化して〕帳消しにして、金で黙らせる手段だからよくないのだ、と。しかし、仮に抗議が個人一人だけによって、またその本人のためだけでなされたとしても、「金で片付けられる」ことへの反論は意味をもちうる。職場でハラスメントを受けた人を考えよう。十分に多額の給料があれば、そのハラスメントを我慢するに足るだろうという人もいるかもしれない。だが、それに納得することは難しいだろう。人びとの生活を良くしたり悪くする要因は多く存在する。
 とはいえ、我々は貨幣補償がつねに悪いなどとは言っていない。貨幣補償は一般的な実践であり、人びとは不利益を貨幣で補償されることを期待している場合もある。不法行為法が最も一般的である。問題は、貨幣補償が決して適切ではないということではなく、それは不利益をつねに取り除くものではないということにある。別の言い方をすれば、もし誰かが特定の種類の主張をするとして、そこには少なくともどんなに金を与えられてもその主張を「取り下げる/解消する(discharge)」に足りない事例が存在するということである。(以上29)
 金で済む場合はたしかにある。だが、たとえばスミスが、ジョーンズの私生活についての嘘の噂を流して公的に彼を侮辱したとする。ジョーンズへ支払うことで補償するとして、それは彼の被った不利を解消することにはならないだろう。公的な謝罪と発言取り下げが必要になるだろう。それはたとえジョーンズが金しか望んでいないとしても言えることである。ジョーンズが貨幣補償を十分だとみなすかもしれないが、しかし、ある意味で彼はそうすべきではないだろう。
 「事前と事後」で考えよう。病気になった人が十分な保険があり、数か月の辛い治療費がすべて補償されることを、治療後に分かったとする。それは本人にとってうれしいことだろう。だが、だからと言って全額補てんする貨幣が、病気になったことからくる不安や治療の苦痛等々を完全に補正(rectify)すると言えるだろうか。病気になる前に貨幣補償が十分にあるとして、病気になることを望む人はいるだろうか。いないだろう。(以上30)
 エリザベス・アンダーソンは改善は問題の宛先に合致すべきだと論じている。この議論は我々の関心に近いが、少し改変が必要である。改善は個人が不利を乗り越えることを可能にすべきであるが、「利益と不利益の通貨」はつねに「適切な政府の行動の通貨」ではない。
 あらゆる不利は原理的に経済的支払いという形態を採った補償によって改善されうる、と考える補償パラダイムは間違っている。したがって置き換え一元論は間違っている。

1.2.2 辞書的優先性を反駁する

上記の議論に同意してくれる読者でも、置き換え一元論の否定は指標問題の解決可能性を締め出すことになる、と指摘するかもしれない。財を辞書的な優先性に順序づける見解について考察する必要がある。この見方では財は一つのヒエラルキーを形成する。たとえば財Aは辞書的に財Bに優先するとすれば、個人は財Aに関する得点に従ってランク付けされ、財Bがどんなに増加してもそれはAの欠如を埋め合わせることはないとされる。実際、たとえばロールズの基本的自由が、富や所得に対する機会に優先するという議論が一例である。教育を欠いている人は貨幣補償ではなく教育への機会が与えられる等々。(以上31)この見解は大きな利点をもつ。多元主義的であるが、そのなかで利益と不利益の指標を可能にする序列を含んでいる。(31-32)
 この現実主義の二つの目標に対応し、かつ指標問題を解決することがロールズの正義原理の定式化の動機であり、それはエレガントな解決方法であると言える。だが、同時にそこには限界があることも確認しなければならない。第一に、自由と機会はロールズの見解にとって絶対的優先性をもつということは真ではない。それは我々が物質的富に関して特定の水準に到達している時にのみ真になる。
 ロールズにとってある種の財がつねに他の者に対して辞書的に優先されるということは真ではない。文脈もまた考慮にいれられる必要があるということになるが、それは、一つの財を他の財に置き換えるのが重要可能なのか否か、あるいはそれが可能なのはどんな場合かについての判断を難しくするだろう。
 第二に、そしてより重要なのは、ロールズが社会的世界を、誰も障害や特別な健康に関わるニーズの問題をもたない人びとの世界として想定することで、非補償(non-compensation)問題が生ずる領域を回避している点にある。
 障害をめぐる問題がロールズ的枠組みでどのように扱われうるかを考えよう。四つの可能性がある。障害者は基本的ニーズの水準で改善を要求していると考えるか、基本的諸自由か、機会か、あるいは所得や富なのか。このそれぞれに、障害の問題を平等者たちの社会が扱うべき仕方についての説明として、固有の道がある。とはいえ、そのことは、財を辞書的優先性の中に位置づけようとするこれらどの見解にも限界があることを示している。障害者の活動家が述べるように、障害による不利益は、少なくとも差別に類比的であると考えてみよう。つまり異なる身体をもつ人々は他の人々に開かれる機会を得て暮らすために障壁に直面するのであり、その障壁は排除的な物質環境から障害者に敵対的な社会的態度にまで及ぶ。(以上32)これは性的ないし人種的差別に近いと考えることができよう。(32-3) その不利益は基本的自由の喪失ないし侵害である。前に述べたがこうした喪失は追加的貨幣を補償という形式で与えることで修繕されえない。それは多元主義者にもまたロールズ的辞書的優先性を信ずる人々にも受容されうる。しかし、ここでさらに別のことを考えよう。物理的環境や社会的態度を変える代わりに、政府が障害者に対して改良された基本的諸自由のパッケージを与えるとする。障害者は警察の保護を受け、法的サービスで売春を行うことができ、望むならば莫大な公的ファンドを与えられるかもしれない。問題は、こうした追加的自由が他の自由の喪失を埋め合わせるのかどうかだ。
 もしそうでないとすれば、辞書的優先性の一つのレベルのなかで、多元主義が受容されているということになる。このことは、この同じレベル内では再び指標問題が出現するということであり、辞書的優先性は指標問題を解決しないということである。他方、別のタイプの諸自由の追加は、他の諸自由の喪失に対する補償になるということもできる。だがそれは非常に説得力が薄い。それぞれの基本的自由は、それ固有のものとして望ましいと考えられるからであり、他の自由を追加するという仕方で置き換え不可能だと思われるからだ。置き換えは現実主義的制約を侵害すると思われる。そして同じことが基本的ニーズや機会、所得と富といったレベルでも言える。現実主義的制約が採用されると、辞書的優先性の主張も不利益についての置き換え一元論も維持できないということになる。とはいえ、多くの多元主義的見解が存在する。多元主義的見解を定式化する方法を決定することは、更なる複雑な問題になるだろう。
 xの欠如はyの追加によっては埋め合わせられ得ない、なぜならxとyの不利益は異なる次元にあるからである。これは一見力をもつが、不利益は根本的に多元的だという望ましくない帰結を導く。(以上33) どうすればよいのか。ある種の置き換えは、他のモノで置き換えるよりも受け容れ易いということを考えることができる。
 ゴルゴンゾーラがないとして、他のチーズや食べ物で置き換える方が、一式のグローブで置き換えるよりも良いだろう。
 だから、完全な補償的な置き換えと呼ばれるものはありえない、とまで言う必要はない。金はしばしば他の財を置き換えるのに役立つ。
 ここで問題になっているのは、部分的な通訳不可能性であり、それは部分的通訳可能性と両立する。

1.3 結論

不利益は多元的であり、特定の普遍的通貨、例えば貨幣や選好充足によって解消されたり克服されることがつねにあるとは言えない。(以上34) これは何も新しい結論ではないが重要である。現実主義は不利益は多元的だということを示唆する。他方、最不遇者を同定し、その状態を改善するために働くという政府の仕事は重要である。もし不利益が多元的であるならば誰が最不遇者化が分からなくなる。この問題が本書の背後にある、これを扱う前に、不利益の理解をさらに深めておこう。指標問題には第二部で戻る。(35)

第2章 機能
2.1 センの理論――ケイパビリティ・アプローチ

不利益とは何か。哲学的理論が必要だ。センとヌスバウムのケイパビリティ・アプローチは役に立つ。我々はこのアプローチに部分的に同意するが、同意できないところもある。

「重要な点は、利益と不利益の分析が、資源や選好充足ではなく「価値ある諸活動と存在の状態」という用語でなされている点にある」(37)

ケイパビリティは有用だが完全ではない。第一に、用法がつねに一貫しているわけではない。ケイパビリティが機能に対する自由として使われることもあれば、未だ達成されていない機能の潜在的な組み合わせを指していることもある。

2.2 不利益のカテゴリー

 不利益が多元的だとして、利益と不利益のカテゴリーについてのリストを与えることができるかどうかを考える必要がある。(37)

問題は、「諸機能のどのカテゴリーが、利益と不利益についての完全な哲学的理論を構築するのに必要なものを汲み尽くしているのか」である(38)。
 不利益と機能は対立すると想定する。何らかの仕方で不利益を受けているとは、まずは、諸機能を達成できる状態にないということである。では、どの機能が最善の人間の生を構成していると誰が決めるのか、そしてそのような決定はどのようにして下されるのかが問題になる。
 この点について既存の文献に新たに加えるより、サビーナ・アルカイアーの議論を参照しよう。まずはヌスバウムのリストを参照しよう。アルカイアーはヌスバウムのリストが彼女自身の目的に適合していないと指摘しているし、センとヌスバウムの違いはあるが、ヌスバウムのリストは直観的に強力だと思われるからである。また、それは政策志向の実証研究に役立つし、また通文化的な実証研究、理論研究の基礎になりうるからである。ヌスバウムのリストを我々は後に拡張するが、まずは確認する。

 1~10のリストは省略

2.3

 ヌスバウムのリストには多くの疑問があるだろうし、実際提起されている。そもそも洞察と思考がそれほど重要なのかどうか。あるいはある種のカテゴリーを含めていること自体への疑念。また他のありうべき要素が除外されていることについて。
 そして最後に最も重要な点として、そもそもいかなる権利で哲学者が人間の福祉のカテゴリーをリスト化するのか、という点である。もしかすると哲学者はとくにこの仕事に的していないかもしれない、そして知能主義的バイアスがあるかもしれない。(40)
 色々な人に聞いてみればよいだろう。それは反照的均衡になる。とはいえ、誰の意見や直観を、どの程度重み付けすればよいのかが問題になる。
 大きく二つの反照的均衡のモデルがこれまでにある。一つはロールズ的なものであり、哲学者の直観に結びついた整合性があり一貫した理論が得られることを均衡とする立場である。だが哲学者の思考と読者を含む他の人々の思考が一致するとはかぎらない。(41)
 第二にウォルツァーの理論がある。彼自身はそう呼んでいないが、「文脈的な反照的均衡」と呼べるだろう。それは発明的であるというよりも解釈的であり、理論家は共同体に鏡を掲げるという考え方である。哲学者が道徳を発明するのとは違う。とはいえ、その共同体の中でウォルツァーの鏡に映し出されるのは知識人だとされている点に難がある。(42)
 これに対して第三に「公衆(public)」の反照的均衡が望ましいのではないか。現実の生活と現実の事例を反映することに反対する理論はないだろう。とはいえもちろん、一般の人々の直観が吟味されていないこともあれば、一貫していないことも多い。とはいえ、だからと言って無視してよいということにはならない。哲学者の主張を一旦、一般の人々の反論に晒してみることは有用だ。以下ではヌスバウムのリストについてそれを行おう。(43)

 2.3.1~2.3.6 インタビューを用いたリスト内容の吟味。

第3章 リスク

「利益と不利益の一つの決定的なアスペクトは、どの機能が達成されるかということだけではなく、「人々がそうしようと思う機能の水準を達成し維持することについての見込み」である。この見込みを規定する要因としては少なくとも二つのものがある。成功の蓋然性と、その成功の蓋然性達成するのに犠牲にしなければならないものである」(72)

「いかにして機能の安全性という考え方を明示(represent)できるのか。」(73)
→ 「期待効用」のモデルにならって「期待機能(expected functioning)」を用いるという方法がありうる。問題は、多くの場合、蓋然性の正確な図式化ができない点にある。
また、もしそうした図を作ったとして、それは満足な解答を与えない。

「二つの次元、つまり機能レベルとその蓋然性を結び付けて一つの図にすると、重要な情報が失われる。二人の個人がいるとしよう。一人は不安定な高所得があり、他方の人は安定した低所得を得ているとする。両者は同じ「期待所得」をもっているのだ、と述べることは、二つの事例を区別するのに重要な特徴を消去してしまう。」(73)

→ 我々は、この両者がより良い状態にあるかは、開かれた問いにしておきたい。

第4章 機会と責任

 機会があるのにそれを使わない場合、本人の責任になると言われる。
 高価な嗜好問題がよく言及される。ドゥウォーキンは選択説ではなくアイデンティティ説を採っている。つまり、選択した責任があるという議論とは別に、本人が自らの嗜好や選択にアイデンティファイしている場合には、それに責任を求めてよいと。
 とはいえ、選択説について最終的な選択の原因が何にあったのかはさかのぼれば本人だけに求められない場合がほとんどであり、また、同じことはアイデンティティ説についても言える。
 シングルマザーの人が子を育てるために家から近いパートタイムの仕事を選択し、貧困に陥っている場合、本人が選択した結果であり、子を育てることにアイデンティティを感じている。国家はこの人をサポートすべきではない、ということになるのか(78)。それではあまりに酷いだろう。
 選択説に平等理論を加えればよい、という反論もありうる。
この反論は、選択の結果に責任があるのはその人が社会の平均的生活を営む機会がある場合、その場合に限る、という条件を付ける。(以上78)これを「免責説(exoneration view)」と呼ぼう。(79)だが、この見解は優し過ぎる場合がありうる。この見解は責任を評価する際に、その人の相対的な物質的地位を考慮する。だがたとえば、貧乏で電気代を節約するために蝋燭で灯りを採っている人が、新聞紙が積まれた部屋を外出する際に蝋燭を消し忘れたとする。それが燃え移って隣家共に焼き尽くす大火事に発展するとする。その場合、その人は責任はないということになるのだろうか。ならないだろう。
 人々はその選択につねに責任がある、ということが間違いであるのと同様、不平等な条件下で貧乏な人はその選択に全く責任はない、というのも間違いである。免責説を改変し、選択を正しい方向に向けられないように貧困や暮らし向きの悪さが因果的に連関していた場合には、その選択の結果には責任はない、とすればどうか。とはいえ、どの程度まで因果連関に貧困等が影響していたのかをめぐる形而上学的問題が生ずるだろう。

「我々の結論は、もし政策を念頭に置くならば、選択説とアイデンティティ説に代替案があるならばそれらを避ける方が望ましいということになる。おそらく最良の道は、人々は何に道徳的に責任があるのかという問題を、人々はどんな負担を負う責任があるのかという問題から切り離すことだろう。もちろん道徳的責任をめぐる問題がイレレバントだと言っているわけではなく、むしろそれらは、政策が問題になる際に重要な問題、つまり負担をめぐる問題を規定しないということである。」(以上79)

選択がなされたかどうか、個人が選択にアイデンティファイしているかどうかではなく、「ある人が別様にではなくある仕方で行為することを期待するのが理に適っているかどうか」を問題にする。理に適っているかどうかは、行為者の機能とその安定性(安全)に対する行為の影響に依存する。ある機会の行使が、他の機能に対して過度のコストを含む、あるいは大きなリスクに晒す場合、それは真の機会ではない。(80)

第2部
第5章 指標問題

指標問題を回避できるか。多元論が答えを与えている、と考えることもできるかもしれない。つまり、不利益は多元的であり、それぞれの領域ごとで最も不利益を受けている人がわかるならばそれで良い、と言えるかもしれない。これは、ローカルな正義あるいは領域別の正義(sectoral justice)と呼ばれることがある。確かにこの考えには一定の説得力がある。(90)
 だが、政治的決定はしばしば多次元的な効果をもつため、領域別正義の見方では扱うことができない。不利益に関する全体的指標を見出す必要があるだろう。(91) 更なる問題は、領域別正義は全般的パースペクティブを欠いているので、特定の機能に対して財全体のうちのどれくらいを配分すればよいかに答えが出ない点にある。(92) これに対して多元的な閾(multiple threshold)の提案があるかもしれない。つまり、我々は全ての人を全ての機能においてディーセントな充分なレベルに到達させるために配分すればよい、と。とはいえ、有限な資源配分の方法を決定する際には、全ての個人にすべての敷居を達成できなくなるので、問題が生ずる。この場合、閾論は、社会全体で、様々な敷居が到達できる合計値を最大化する、という方針になるだろう。
 しかしこれには簡単に問題が指摘できる。ある個人のある一つの閾以上にするのに一定量の資源が必要な場合を考えよう。これを「ある閾を超えること(crossing a threshold)」と呼ぼう。「強い閾」論では、それは、同じ資源でできる他のすべてのことよりも重要だとされる。たとえば、すでに閾を超えている人をより高めるよりも重要であるし、閾以下の人をその閾を超えない程度に少し改善することよりも重要だとされるし、これらの組み合わせが可能だとしても、閾を超えさせることの方が重要だとされる。だが、この見解はもっともらしくないだろう。(92)仮にそうした事例があるとして、それは例外的だろう。(92-3) この「強い閾」論は特定の機能レベルをフェティッシュ扱いしていることになる。
 では、「弱い閾」論を採用すれば良いのか。ある閾に向けて人々を高めることは、たとえその閾を超えることがないとしても価値がある、と。だがこの見解では、すでに閾を超えた人々をさらに改善するために資源を使う、という選択肢はなくなる。残念ながらこの見解では、閾論の理論的利点は失われることになる。というのも、不可避的な資源の制約が存在する中では、様々な要素の重み付けとバランス付けが必要だが、これを避けることが、多元的敷居論の動機だからである。弱い閾論では、指標問題に立ち戻ることになる。というかそれよりも悪い立場になる。我々は諸原理間の相対的な重み付けを必要とするのみならず、更に敷居を定義する必要も出てくるからだ。
 重み付けの回避は全てのカテゴリーが等しい重要性をもつという発想に導かれる。要するに閾論は指標問題を回避するに十分なモノではない。(93)不利益の全体的指標は、政府がその財源を体系的に配分しようとする際には回避不可能なものだと思える。(94)

 ではどのようにランクづけるか。きわめて困難にみえる。だが、抽象化のレベルで我々の課題に要求されるのは、人々の利益と不利益に関する完全な説明ではないし、政府は個々人の機能レベルについて完全な説明を必要としない(95-6)。
 だが、機能マップ全体での比較は、多元主義が異なる不利益は共約不可能だ、という立場だとすれば、不可能ではないか? 共約不可能という語をより細かく考えよう。まずそれは、一つの機能を向上させることが、他の不利益や機能の欠如を埋め合わせるモノではない、という意味をもつ。その上で、ケイパビリティを、他の機能セットの達成の代替的可能性を提供するものとして考えることもできる。代替的機能セットは比較可能である。もちろん、この立場にも批判があるかもしれない。だが、政府はいずれにしても資金を実践的課題として優先順序を付けて配分しなければならず、その際の哲学的基準が必要である。比較も共約も不可能だとしてこの役割を政治哲学から除外してしまうことはより悪い結果になるのではないか。共約不可能性をバイパスして最も不利益を受けている人を同定する方法を示すという課題は依然として残っている。(96-7)
 では、異なるカテゴリーの比較のための重み付けをどうするか?
 十種競技でのスコア化がアナロジーとして役立つ。十種競技で100メートル10秒で走る人の得点は、100メートル走の過去の記録との統計的な比較で相対的に決まっている。十種競技では、100メートル走の得点と他の種目、たとえば走り幅跳びの得点が合計される。だが、このことは、「100メートル走」と「走り幅跳び」といった競技そのものについて、二つの価値や重要性を比較しているわけではない。これまでの両競技での記録との兼ね合いで、相対的な達成度(あるいは卓越度)を反映した点数として、比較可能だというだけである。この意味での共約可能性は、諸機能についての一連の評価を、単一の全体的順位に翻訳することの可能性を示している。(99-100)
 それぞれの機能カテゴリーの彼らの百分率得点で諸個人をランク付けすることができるだろう。一つの機能カテゴリーが他の諸カテゴリーを凌駕する支配(dominance)はあまり生じないだろう。たとえば十種競技で砲丸投げだけがきわめてすぐれた人と、砲丸投げはあまり得意ではないが、他の九種目に優れた人がいるとする。通常、砲丸投げだけに重みを掛けて総合得点が出されることはないだろう。たとえば、諸機能のほとんどのカテゴリーで得点が悪い失業者と、余暇以外は高い得点を得ている投機家がいるとして、余暇カテゴリーを例外的に重視しない限り、失業者よりも投機家のほうが全体として暮らし向きが悪い、ということはできない。たしかにこれは粗い順序付けではある。
 「重み付け可感的(weighting sensitibity)」という考え方を導入しよう。ある社会的順序づけが重み付け可感的であるのは、それが、異なるカテゴリーに異なる重み付けを与えることで変化する程度に応じている。余暇に大きな重み付けを与えると全体の評価が変わる場合には、重み付け可感的であると言える。(101)
 ところで、政策的に重要なのは社会的順序の底辺に向けて社会集団を同定することであり、完全な順序付けをする必要はない。
 もちろん、社会集団は自然種ではないので、その同定は部分的には理論的に、また社会的、政治的になされることになるだろう。この分け方は、つねに可塑的で暫定的な性格をもつことにも注意しておこう。民主主義的プロセスにより集団の分け方自体が変わりうる。その上で、仮にここでは、50の社会集団に分けられるとする。それぞれが人口全体と比較して各々の機能をどの程度実現(perform)しているかが評価されることになるだろう。
 それぞれの機能に対するパフォーマンスの評価方法は、さらに細かく困難な問いを生じさせる。まず50個の集団があり、それぞれに応じた機能マップが得られていることになる。様々な重み付けの仕方に沿って、政府は機能カテゴリーを重み付けするための20個の異なる図式を得るとする。50の社会集団が、この20個の社会的ランキングのなかでそれぞれ順序づけられ、そのランクが比較される。その上でたとえば、同じ10個の集団がほとんどつねに下位25%の位置に来るとする(102)。
 これにより、政府は、ある種の不利益が他の不利益よりも悪いのかどうかという問いに答えずに、「最も不利益を受けている人々」と合理的に呼ばれうるような諸集団を同定することになるだろう。(103)
 このランキングが堅い(robust)なもの、つまり重み付け不感的なものになるとすれば、重み付けに関する提案の多くが非常に似ている(つまり、どの機能が最も重要かについて規範的かつ政治的同意がある)か、あるいは、ある一つの側面(あるいは機能)において不利益を受けている人が他のところでも不利益を受けているという意味で、不利益が束をなしているかのいずれかである。もし不利益の束が存在するとすれば、その世界は非常に不平等な世界だということになるだろう。
 他方、不利益が束を為しておらず、社会的ランキングがきわめて重み付け可感的になる場合もあるかもしれない。言い換えれば、異なる人々が異なる機能カテゴリーで不利益を受けていると感じるので、その都度我々は、順序を変えるように重み付けを調整する。ある重み付けでは頂点の人が、他の重み付けでは下位になるという場合である。こうした場合には世界はそれほど悪い場所ではない、ということになるだろう。これは、そのような場合には何もしなくてよい、という意味ではなく、そこには少なくとも順序という観点から見て明白に最も不利益を受けている集団は存在しない、ということである。

 いくつかのカテゴリーが他のモノよりもより重要だということについて一般的な合意があるが、それらの相互を同ランクづけるかについては合意がないとする。最も不利益を受けている集団を見出すことはできない。それぞれの「重要な(high weight)」カテゴリーについて誰が悪いかは同定できるが、その中の一つのカテゴリーについて悪い誰かが、他の者について悪い人と比べてランク付けることはできない。(104) もしこれに加えて、重要なカテゴリーについての低いパフォーマンスの束を特定できれば、誰が最も不利益を受けているかについての合意に到達できる。(104-5)
 高い重み付けのある機能のグループを同定し、政府は最も利益の少ない集団を同定するために、不利益のクラスター化を探求する必要がある。(107)

第6章 諸機能の尺度

 

 更なる問題として、単一の機能カテゴリー内でさえ不利益を測定する道具がないということがある。たとえば、「身体的健康」というカテゴリー内で、心臓病と消化器疾患をどのように比較すれば良いのか。十種競技の例では、個々の競技の記録を順序づけるためのストップウォッチや巻尺があるが、それに類するものはない。どうすれば良いのか。

 累積アプローチは三つの次元で貧しいとされる人は、一つの次元で貧しい人よりもより貧困であり、また二つの次元で貧しい人の方が、一つの次元で貧しい人よりも貧困だというものである(109)。
 ジョナサン・ブラッドショウとナオミ・フィンチの「貧困」尺度をめぐる議論が役に立つ。それは、一つの主観的尺度と二つの客観的尺度を用いて、三つの尺度による評価の累積度によって評価する方法が良い、と結論づけている(110-1)。

 その上で、社会で最も不利益を受けている集団を同定するための方法として、不利益の束を発見することにある、と。


第7章 不利益の束と経験的研究

 

 政策的課題は第一に、不利益の束にスナップショット的にみた共時的な不利益の束を発見し、その上で、ある不利益が他の不利益の原因となる因果関係による不利益(腐食作用による不利益)を見出すことにある。そして、これらを解消するために照準すべきポイントとして、他の諸機能カテゴリーに影響を与えやすい機能、「肥沃な機能(fertile)」を発見し、これを改善することにあるとされる(120-2)。

第3部
第8章 不利益の束を解く
 省略

第9章 最も不利益を受けている者の優先

→ 「以上から、who問題――政府が助けるべきなのは誰か――に一定の答えを与えたとして、次に、how問題、つまり政府は行かに活動すべきかという問いに移ることにしよう。言い換えれば、政府は多産な機能を保全し、浸食的な不利益を解消することによって不利益の束を解くべきだとして、依然として潜在的な問題がある。たとえば、政府はある機能を保全することで別の機能を侵害することはないか、といった問いである」(166)

第10章 人びとを尊重しつつ不利益に対処すること

10.1 導入

 本書の「導入」で述べたように、「一方に、平等者たちの社会を創出するための鍵になるモノは、人びとに平等に分配されるべき財を発見することだと信じる論者たちがいる。こうした理論家は、平等主義的正義の「通貨」を決定することで、「何の平等か」という問いに答えようとする。他方に、平等は、人びとの間にある種の関係性を創出することに関わっていると考える論者がいる。これら関係論的平等主義者は、平等の目標を、抑圧や搾取、支配、隷属、尊大さなどのヒエラルキー的な悪を避けることだと考えている」(167)

「関係論的平等主義の批判点は、分配的平等を諦めるといった考え方ではなくて、それを拡張することにある」(168)

両者のジレンマは次のような事例が示す。スラム地域を浄化して、新しい住居を立てて人々を移住させる政策が、人々の間にあった社会的ネットワークを喪失させるといった事例だ。移住は健康状態等に明らかに良い影響を与えるが、しかしアフィリエーションや帰属の感覚を喪失させてしまい、社会的孤立をもたらす可能性がある。(168)

10.2 不利益に対処すること――地獄への道は善意で敷き詰められている

ある政策が人々に利益をもたらすと同時に、別のマイナスの作用をもたらす場合はよくある。税率を高めると労働インセンティブが下がり生産性が下がるといった話が一番分かりやすい。
だがここで問題にしているのはそういうことではない。
ある政策がある種の側面を改善するが、別の面で不利益をもたらす場合である。
分配的平等と社会的平等との間の潜在的コンフリクトという言い方で表現できる。(169)
第一章の貨幣補償の問題点とアンダーソンのスティグマ論。

「平等は人々の物質的財に対するアクセス内容の比較を超えた何かを意味している。それは、人々が相互に尊重する仕方、人々が相互に関係する仕方にも関わっている」(171)

この問題は、ローカルなあるいはセクターに分けた正義にも関係している。一つの領域で財を提供することは、別のところで悪影響をもたらす場合がある。我々の目標は、単に諸個人の不利益への対処にあるのみならず、平等者の社会にもある。この観点から、問題は、

「第一に、たとえば栄養状態の改善に対処することで、少なくとも別の一つの機能が、あるいは複数の機能が掘り崩されるということ。第二に、そうした政策が、社会連帯を掘り崩す分割を生みだすという点にある。この分割は公的に認識されるかもしれない視されないかもしれないが、そこに助けられる人と助ける人の間で分割があるという単純な事実は、それ自体望ましくない結果をもたらし得る。この結果は、すべての再分配図式にとってつねに伴う結果であると考えられるが、これに対する正しい答えは、自律は神話であって誰もが人生のすべての場面で他者に依存しているのだと考え、それを恥じることはないと考えるように促進することである」(171-2)

10.3 不利益改善の諸形態

こうした問題を解消するための一つの方法として「無条件のベーシックインカム」がある。これはたしかにスティグマを回避し、社会政策にセンシティブな考え方の手掛かりになる。だが、この方法ではスティグマ回避のためのコストが高くつく。また、この提案の問題の一つは「税の徴収と移転」というメンタリティー、つまり「補償パラダイム」に限定されたままだという点にもある。我々は、貨幣による補償以外の方法としてどんなものがあるのか、という問いを第一章で提起しておいた。他に方法があるならば、それを考える必要があるだろう。
 人々が何をもっており、それで何ができるかを考えよう。第一に、才能や能力などの内的資源があり、第二に、富や所得、そして家族や共同体の支援といったより目に見え難い外的資源がある。とはいえ資源だけでは諸個人の機会を読み取ることはできない。彼らがその資源をどのように用いるのか、したがって、その社会で作動している構造に関する諸事実を知る必要もある。(172) つまり、法や慣習、伝統の影響、非公式・公式の権力関係、宗教、言語、文化その他社会規範を、物質的かつ自然的な環境のあり方と同じく知る必要がある。(172-3) それらを総称して「社会的かつ物質的構造」と呼ぼう。
 あなたの資源は、あなたがそれをもってプレイするものであり、構造はゲームのルールを提供するということになる。
 誰かが機会を欠いていると考えられるとすれば、そこには少なくとも、対処すべき三つの次元がある。内的資源、外的資源そして社会構造である。内的資源における不利益に取り組むのはたとえば、教育やトレーニングがあり、また心理学的、医学的、外科的介入がある。これを「個人的増強」と呼ぼう。
 外的資源には二つがある。一つは貨幣による補償である。もう一つ、より具体的な資源を提供する場合もある。学習障害をもつ子どもにコンピューターを購入するだけの貨幣を与えることもあれば、コンピューターそのものを与えることもある。これは単に私的所有の問題ではない。むしろ、特定の目的に対して使用するためのモノである。ケアラーの提供もありうるし、食券もあるだろう。ある目的に限定された資源を人々に与える方法を「目的特定的資源増強」と呼ぼう。
 最後に、人々の内的ないし外的資源を変えずに、機会を改善する方法がある。ゲームのルールを変えることができるからである。(以上173) 法や社会的態度、物質的環境の編成を変えることである。具体的事例に即して言えば、ジェンダー平等を促進し社会規範を変えることなどである。これを「地位向上」と呼ぶ。
 三つの次元に対して、少なくとも四つの戦略がある。個人的増強、貨幣補償、目的特定的資源増強、地位向上である。
 どのような不利益にどの次元でのどの戦略とその組み合わせが適切なのか。

10.4 地位向上、孤独、そして公的/私的区分

 アンダーソンの「醜く、気の利かない人(ugry and socially awkward)」の事例がこの議論にとって役立つ。我々はアンダーソンに、貨幣補償がその人への対処として適切でないことで同意している。(以上174)
 この人に対して、政府から、〈あなたは不幸なことに醜く気も利かないので不利益を受けていてかわいそうだから金をあげましょう〉という手紙が来るとして、そのような補償的な対応が不適切だ、ということは分かる。とはいえ、その手紙を〈人々はその人と友達になる社会的義務がある〉、と書き換えるとして、それは私たちの関係性への自由に対する干渉になるだろう。ここで我々は、ある種の政策的な真空地帯(policy vacuum)の中に置かれる。
 では、何もしなくてよいということになるのか。リベラルな伝統においては、公的なものと私的なものとの間に線を引くのが一般的であり、政府が干渉できないような諸個人の私的領域が存在すると論じるのが通例である。この問題に引きつければ、私的領域で様々な仕方で不利を受けている人々がいるとしても、政府は干渉しないという議論になるだろう。
 公的と私的という教義が、リベラルたちが同意する政策を作り出す方法を定式化することは困難である。家族のプライバシーは、そのなかでの暴力を犯罪化しないわけではない等々。
 我々の見方では、公的と私的との間の正当な区別が存在するか否かという問題にとって鍵となるのは、政府が排除されるべき生の「領域」が存在するかどうかではなく、政府が行うべき介入の「諸方法」があるのかどうかという問題である。線があるとして、それは領域間にあるのではなく諸行為の間にある。(以上175)
 孤独な人がいるとして、政府の関わる問題ではないという議論として次のような推論があるだろう。

 ・ もし孤独が政府の関心事になるならば、孤独は税と移転の図式によって補償されるべきであり、孤独でない人に課税されることになる。
 ・ このような補償図式は馬鹿げている。
したがって、
 ・ 孤独は政府の関心事ではありえない。

 第二の前提には同意できる。だが第一前提が偽である。この推論が見逃している事実は、孤独を貨幣で補償する以外に、それに対処する他の方法が存在するという事実である。第一章で見たように、貨幣補償図式には限界がある。では何をすべきか? 目的特定的資源増強の一例として、孤独だと証明するテストを受けた人々のための無料のあるいは助成金による会員制社交クラブや、無料の夜学などがありうるだろう。そこで孤独な人々は新しい友人を得る機会や、社会関係を再構築する機会をもつ。とはいえ、この解決方法は良くないだろう。
 より穏当な地位向上がある。政府は、社会的つながりを確立できるようにするために、社交クラブや夜学に補助金を提供すべきだということになる。この提案はすべての人々に利益がある。この普遍的アプローチは上述の対象者限定のものよりも高くつくが、大きな利益が見込める。(176)
 そこではスティグマを受けることもない。政府は人々の価値のある自発的なつながりを国家や市場から介入されずに保持するために、税の免除等々を行うことができる。
 これは個人を特定しないので地位向上戦略の一例である。(177)

10.5 更なる応用――スラム掃除、Leahの事例

11.5 結論〔10.6の間違いか〕

結論(省略)