"The Injustice of Discrimination," Carl Knight, South African journal of philosophy 2013, 32 (1): 47-57

※ 訳ではなく省略を含む要約


1 導入(47-8)

悪であることwrongfulnessは不正なunjust差別の必要条件である。

別言すれば、差別の悪性の説明はその大部分が差別の不正性の説明である。


2 差別は必然的に不正か?(48-9

 

必然的に不正ではない。これに対して差別は必然的に不正だという論者もいる。だが、アファーマティブ・アクションはどうか。これも差別だが、不正ではないだろう。とすれば、差別は必然的に不正だとは言えない。

 

3 不利益説明(49-51

 

悪い差別が悪いのは、それが被差別者に不利益を与えるからだという説明。

不利益については、二つの捉え方がある。

 

① 不利益は比較的だという立場。「個人を嫌うことの悪は、差別がないときに比べてその人を悪くする」

② 不利益は絶対的だという立場。「個人を嫌うことの悪は、差別がないときよりも非-比較的な意味で悪くさせるからだ」

 これらはいずれももっともらしく見えるが、ある種の事例についてはあまり説得力がない。アファーマティブ・アクション(以下AA)の場合だ。AAは現実には論争含みだが、仮想的ケースとしてそれがダイレクトに正当化されると思われるケースを考えてみよう。「有利集団」という一つの集団の全ての成員が、資源10単位と厚生10単位をもっており、「不利集団」の全ての成員が、資源1単位と厚生1単位しかもっていないとする。あなたは利益集団の成員がより資格がある場合でも、「不利益集団」に職を分配するかたちで贔屓し、「利益集団」を差別するとする。それは、資源と厚生のギャップをなくしはしないとしても狭めるし、全体の資源と厚生レベルを最大化するだろう。こうした状況では、AA政策を否定する根拠をみつけることは難しいだろう。だが、不利益説明は、こうした政策を不正として記述するだろう。それは、比較的・絶対的の両方の意味での不利益を「利益集団」に与える差別だからだ。つまり、この差別は、利益集団の成員を、不利益集団の成員よりも比較の上で悪くさせるし、端的にsimpliciter悪くさせるからである。

 こうした点を処理するために、不利益説明はリバイズされる必要があるだろう。カスパー・リパート-ラスムッセンは次のように述べている。

 差別が悪いのは、それがなかった場合よりもその人の状態を悪化させるからだという見解があり得る。

 また別の可能性として、差別が悪いのは、正当な、道徳的にベストな帰結が得られた場合よりも被差別者を悪くするからだという見方がありうる。

 
AAの「悪くなさnon-wrongfulness」は、より単純な前者の見解にはそれほど説得力はないnot very plausible、ということを示している。他方、後者には望みがある。

 不利益説明は、被差別者の不利益は、不正な差別にとって必要条件だと主張する。後述するように、これは明白なことでも問題がないわけでもない。これは、さらなる条件を付け加えるだけである。(50)その条件とは――それには反論があるかもしれないが(たとえばAAに反対する論者によって)――不利益とは、正義が要求する水準に比べて被差別者を悪化させるものであるべきだ、という条件である。(51) そしてそれにより、我々が「正義」をどのように解釈するかに応じて、さらに高次のレベルの問題が加わることになる。たとえばわれわれは、正義は厚生に対する機会の平等を要求すると言うかもしれない。この立場からは、厚生に対する機会の不平等を増大させるような仕方で誰かの状態を悪化させる差別は、不正だということになるだろう。他方、正義は、最不遇者に優先的に与えることを要求するという見解もある。この立場からは、最不遇者の状態をさらに悪化させるような仕方で誰かの状態を悪くする差別は、不正だということになる。いずれの解釈もAAと整合性がある。AAは利益集団と不利益集団の機会の不平等を増大させることはないし、不利益集団の地位を悪化させることもないからだ。
 私はしたがって、以下では不利益説明を次の条件を組み込んだものとして扱うことにする。つまり、差別に基づく不利益が不正であるためには、不利益そのものが〔何らかの正義論の観点からみて〕不正でなければならない、という条件である。

 

4 非-不利益説明(51-2


 不利益を根拠にしない差別の悪の説明として、ディスリスペクト・ベース説明と偏見prejudice説明がある。

 もちろん、どの説明も、経験的には、不利益とディスリスペクトが結び付いていることを認めている。だが、ディスリスペクトが個人に不利益を与えるというのは、必然的ではない。「問題はしたがって、我々は、ディスリスペクトな行為そのものに関心を払うべきなのか、あるいはその犠牲者に影響を与えるディスリスペクト行為に関心を払うべきなのか、だ」(52

 スキャンロンは、ディスリスペクトを含む表現が広範な影響を与えることが差別を悪くしているとしている。

 デボラ・ヘルマンは異なる。「デミーンが悪いのは、それにさらされた個人がデミーンやスティグマ、害の感覚を持つかどうかにかかわらず」だと述べている。

 この見解は、AAと両立させるために改定される必要はない。(52

 

5 不利益説明の検討(53-5


 不利益説明は不正な差別について全体としてもっともらしいかどうか。これを疑う理由がある。不利益説明は、不正な差別のある種の事例を同定するidentifyことに失敗しているからである。

 比較的な不利益論をまず考える。それは、上記のように、機会の不平等を増大させるような比較的な不利益を与える差別は不正だという立場として解釈される【平等は比較の問題だという理解が前提】。そのためには、差別だが、一見機会の不平等の内容な事例を提示すればよい。ソフィア・モレー(2010:172)が提示する例を考えよう。それは、「レストランが客を宗教に基づいて差別することを認めているような国家について考えてみよう。そこではどの場所にも等しい数のレストランがあり、それぞれの宗教をもつ人々に利用できるようになっている。たとえば、30件のレストランはキリスト教に、30件はユダヤ教に、30件はイスラム教に、等々」という事例だ。このシナリオは明らかに、(1)差別であり、(2)不正でありかつ悪く、かつ(3)にもかかわらず機会の平等を保持している。

 シュロミ・セガル(2012:82)は「機会の平等を掘り崩すがゆえに、そしてそれだけが理由で、差別はそれ自体として悪い」という見解を擁護する文脈で、この事例に反論している。彼は、これは差別的な状況ではないと主張する。この考えを証明するために、彼はモレーの事例が尊厳に対する害を含んでいるが、そうではない事例では差別は存在しないと論ずる。【正確な事例は省略】ABを奇妙だと思われており、Bの自尊心は低下するが、他方、Bは他の人々から高い価値があるとされており、自尊の低下を補いさらに自尊を増大させるに足る。ACから奇妙だと思われており、それはAの自尊心を低下させるが、DからはAは尊敬されており……以下同様、といった事例。機会の平等は不正な差別を認めないということに問題はないかもしれない。(53

 だが、この議論は十分に説得力がない。二つ理由がある。まず第一に、モレーの事例とセガルの事例が重要な点で同じかどうか議論の余地がある。深刻な自尊心の喪失が存在することは、厚生にネガティブな影響を与え、前理論的に見ても悪い差別が存在していると思われる。仮にセガルの事例では悪い差別が存在しないということを認めたとしても、モレーの事例にはそれがあると考えることは十分に可能である。第二に、セガルの事例でさえ、悪い差別は存在しないと言えるかどうかについて議論の余地がある。その事例では、「ABを差別しており、それがBの自尊をわずかに低減させる」とされているが、それは私の考えるところ差別的であり、悪い差別にする強い候補になる。Bの自尊心の喪失が他の人々にとっての獲得によってのみならず、他の人々の差別行為からB自身が得る獲得分によって相殺されるのは正しいかもしれない。だが、悪性が善性によって相殺されるということは、この事例をそこに「何も悪いところはない事例」にするとは言えないだろう。
 セガルの機会平等論に基づく悪い差別についての見解は成功しないと考える。とはいえ、モレーの例に反対する別の擁護論があるかもしれない。【個人の選好の差による議論――省略】

 差別事例では誰もが望むものが問題になるだろう。期限付きの市長として、スミスがジョーンズを人種差別しており、ジョーンズがブラウンを人種差別しており、ブラウンがスミスを人種差別している場合を考えよう。それぞれがこの基準で、差別している人種集団の成員に対する現金賞与を拒否するとする。彼らは順番に同じ期間だけ首長になるので、すべての人種集団にとって、機会の不平等は存在しないと思われる。三人の個人(と集団)はすべて比較的に不利益を被っており、機会の平等指標では不正はないし、したがって比較的不利益説明では不正な差別は存在しない。だが、それにもかかわらず、個々には不正な差別が働いていることは明らかだろう。とくに、誰も差別していないようなシナリオと比較すると、(合理的に想定して)そこにはそれぞれに自尊の喪失があり、したがって利益の喪失があると思われる。(54)かくして、比較的不利益論は、機会平等の用語で解釈されるとすれば少なくとも不正な差別のいくつかを把握することに失敗する。

 絶対的不利益論はどうか。この説明は以上の事例を適切に扱うことはできるだろう。問題は、不利益は存在するのだが、この絶対的不利益論が依拠する正義の理論では見過ごされてしまうようなケースだ。絶対的不利益論は、最不遇者に優先的に与えるという正義論に訴える。そうすると、最不遇者が不利益を被らないような事例を考えるべきである。たとえば、大学の管理者が受験者を人種で差別するとする。そしてこの受験者と同じ暮らし向きにある人を優遇するとする。この決定が暮らし向きの悪い人にいかなる直接的な悪影響も与えないとすれば――また、この二人の受験者はいずれも等しくそこそこ暮らし向きがよかったとして――、絶対的不利益論は、ここに副作用としての不利益がなければ不正義を認識しないだろう。

 もし被差別者がとりわけ強い性格の持ち主であり、いかなる心理学的な害をも被らなかった場合、絶対的不利益論は、この差別に何の不正義も認めることはないだろう。

6 非-不利益論の検討(55-6

 

では非-不利益論がよりよいのか?

 ディスリスペクト説明を考えよう。二つの形態がある。一つは、悪い影響をもつディスリスペクトが不正な差別の必要かつ十分条件だという説明であり、もう一つは単にディスリスペクトが不正な差別にとって必要かつ十分だという説明だ。この説明の主な困難は、いずれの形態も、ディスリスペクトを不正な差別にとっての必要条件とする中心的な特徴にある。ある人種集団の人を雇用することを拒否する雇用者を考えよう。彼らの判断は、ある人種集団の人々は、非熟練職として雇うのにはもったいない(too good)という考え方に基づいているとする。【中略】たとえば、雇用者の見解は、この人種集団がかつて熟練職人として働いていた時代に育った雇用者自身の見方を反映しているとする――いまは職人はいなくなってしまったが。この集団は、雇用者の行動の結果いまは貧窮している。だが、雇用者たちは、その集団の尊厳についての自らの見解のため、行動を変えない。ここにはディスリスペクトはない。だからといって、そのことは、この事例を不正な差別にすることを妨げるに十分ではないと思われる。

 ヘルマンは、この例に似た事例、demeaningではない仕方で疾患に対する遺伝的傾向をもつ人々に医療保険を拒否する事例に対して応答している。ヘルマンによれば、医療保険のケースが悪い理由は、「平等規範にではなくむしろ正義の要求の侵害にあるのであり、これは悪い差別ではない」。この応答はセガルの応答にいくらか似ている。このラインで言えば、上の雇用者の事例も、悪い差別ではないが悪を含んでいると主張できるかもしれない。だが、私にはヘルマンがこの事例によって自身の立場を擁護しようと意図しているのかどうかよくわからない。むしろ今述べたように、//この事例はリスペクト論を成功裏に擁護するための基盤になり得ないだろう。それには二つ理由がある。(55-6

 第一の理由は、ヘルマンが保険の拒否を悪い差別ではないと主張する根拠は、この拒否はデミーニングではないので、「万人の平等な道徳的価値」という「道徳的原理の岩盤」を侵害しないというものである。だが、これは、固有の悪い差別の説明の正当化として提示されているならば循環しているだろう。というのも、悪い差別の必要条件がデミーニング行為の存在だということ〔ヘルマンの議論〕を受け入れない立場からすれば、デミーニング行為の不在は、悪い差別が存在しないということを示さないからだ。

 第二に、このヘルマンの擁護論がもし循環していないとしても、ヘルマンの議論は、医療保険の拒否の悪が悪い差別の事例ではない、という点に依存しているように見える。ヘルマンの立場は保険者の行為が非差別的だということに依拠している。たしかにそうかもしれないが、それは特殊な遺伝的傾向が、重要な意味で一つの集団を形成しないからである。つまりこれはこの事例の特異性である。それに対して、上記の雇用者の例は、明らかに差別の事例に見える。そして、それは悪い差別の事例であると思われる。保険事例に悪い差別が存在しないのは、そこにデミーニング行為が含まれないからだというヘルマンの応答は、単に一応の説得力しか持たない。なぜなら、彼女は、差別が存在しないかもしれないような事例を選択しているからである。

 偏見説明に移ろう。ディスリスペクト説明と似た問題があるだろう。上記事例では、我々の雇用者は偏見や敵意を抱いていないからだ。とすれば上記の雇用者の事例は、偏見説明からも悪い差別ではないという話になってしまう。


 かくしてディスリスペクト説明も偏見説明も、比較的不利益論と絶対的不利益論がそうであるように、ある種の不正な差別を同定するのに失敗していることになる。(56


7 結合された不利益説明(56-8


私は不正な差別に関する四つの一般的な説明が「偽陰性」――つまりそれらが認識できないような不正な差別があるといえる事例――をもつと論じてきた。ここから導かれる結論は、何らかのまったく異なる説明が要請されるか、あるいはこれらの二つないしそれ以上の複合形態がベストな説明になるかのいずれかである。後者を考えよう。あまり望みのない組み合わせが一つある。二つの非-不利益説明の組み合わせがありうるが、それにはあまり望みがない。(56-7)それでは単に問題を混ぜ合わせるだけになるからだ。
 非-不利益説明と不利益説明の組み合わせか、二つの不利益説明の組み合わせがありうる。私の見るところ、最も説得力のあるのは後者である。比較的不利益論で看過される事例は絶対的な説明で補完でき、また逆も同じだろう。市長のケースは比較的不利益論では把握できなかったが、絶対的不利益論では説明できる。また、大学受験者のケースは絶対的不利益論では把握できなかったが、機会平等という比較的不利益論では把握できる。
 このアプローチにも批判がありうる。それは次のように言うだろう。人種差別は不正な差別があるという特別な理由を伴って生じるが、後者はそれを同定しない、と。つまり、人種差別を機会平等の侵害の一種としてしか扱わないことは、その重要性を見るに不十分だ、と。だが、人種が差異処遇differential treatmentにとって不適切な基盤になるのは、比較的かつ絶対的な不利益についての考察が、その差異化処遇を非難するという事実があるからだ、と応答できるだろう。人種に基づく差異化処遇は非選択的なものに基づいており、とくにそれが表現するディスリスペクトによって、絶対的な利益のレベルを低下させる典型である。もしこれが正しいならば、我々は人種差別の悪を純粋に不利益タームで説明できる。
 この主張を否定するために、批判者は、次のいずれかを満たすような事例を提示する必要がある。(1)非選択的な性質は、それに基づく差異処遇が絶対的な利益水準を向上させないとしても差異処遇の正当な基盤になる、あるいは(2)選択された性質は、その処遇が絶対的利益水準を向上するとしても差異処遇の正当な基盤にならない。これをうまく論じた文献を私は知らない。ラリー・アレキサンダーは、「人種やジェンダーなど不変の特徴に基づく差別が差別を悪くする」という考えに、次のような論拠で反対している。「不変な特徴に基づく差別の多くの事例が悪いと見なされておらず(たとえば盲人をトラック運転手として雇うことの拒否)、また可変的特徴に基づく差別の多くの事例が悪いと見なされている(たとえばイスラム教徒をバスケットチームから排除すること)」と。だが、盲人をトラック運転手として雇わないことは、明らかに(最不遇者も含めて)絶対的な利益レベルを向上させる事例であり、そこでは(1)選択できない特質が、たとえその特性が絶対的利益レベルを向上させないとしても、差異処遇の基盤として正当化されるような事例ではない。また、イスラム教徒をバスケチームから排除することは、明らかに(最不遇者も含め)絶対的な利益レベルを低下させる事例であり、そこでは(2)非選択的な特質が//たとえ絶対的利益レベルを向上させるとしても、差異処遇の正当な基盤にならないような事例ではない。(57-8

 もちろん私の説明を擁護するには、より多くのことが論じられる必要がある。たとえば、比較的考慮と絶対的考慮が同時に与えられるべき仕方や、なぜこのアプローチが不利益考量と非-不利益考量の結合よりも優位にあるのかについて、説明すべきだろう。とはいえ、本稿の目的は、ある種の多元主義が必要であり、また非-不利益考量が見かけよりも強いものではないということを示す点にある。(58