江原由美子(1985)「差別の論理とその批判――「差異」は「差別」の根拠ではない」『女性解放という思想』勁草書房

■ 引用 第2節から(※ 太字の部分は本文では傍点)

 

① 「「差別」とは何か、ということはあまりにも明白なことだと思われている。「差別」が悪いことは誰でも知っており、「差別」しないことがいいことだということはあたりまえのことであるとされる。だが実際、「差別」とはそんなに簡単なことではない。」(63

 

② 「「差別」が簡単なことと思われてきた背景には、「差別」が現実的な利益や不利益の不平等分配と等しく考えられてきたことがあろう。不平等は悪いことである。なぜなら現代社会は平等な社会だからであるというわけだ。だがこれは、一見正論のようでいてまったく現代社会を「見て」いない理論だということは明白である。現代社会には現実に利益や不利益の不平等分配は数限りなくあ//る。能力主義にもとづく昇進や賃金格差は津々浦々にいきわたっている。その場合、人々がそれに対して「差別」だといって批判しないのは、それが「正当な」ものとして社会的に承認されているからである」(63-4

 

③ 「相手に不利益を与える不当な行為がすべて「差別」であるわけではない。あからさまな攻撃や虐殺は「暴力」であったり「犯罪」であったりするかもしれないが、「差別」ではない。」(64

 

④ 「「差別」は先の言明と全く逆に、その不利益を与える行為が、あたかも「正当な」ものであるかのごとく差別者と被差別者に了解されることを意味する。すなわち、被差別者が「差別」されているのは、不利益をこうむっているからではなくそのことが当該社会では「正当化」されぬからであり、同時にその「正当化」されぬ根拠が、別の論理によってあたかも正当なものであるかの如くに通用してしまうからである」(64

 

⑤ 「現代社会は「平等」を価値観念とする。それゆえ「差別」は不当である。しかし、現代社会において「現実の」不平等、すなわち「差別」的処遇は多々ある。それらはさまざまな装置によって正当化されている。たとえば、子どもはさまざまな権利を否定されているが、それに対して「不当」であるという批判はあまり聞かれない。それはそもそも「子ども」というカテゴリーが「平等」の//処置をすべき対象を含む集合から、「排除」されているゆえである。「差別」問題も全く同じ構造を持っている。多くの「差別」問題は、こうした「現実的」不平等を正当化する装置によってそもそもそれが不当なものであるという認識をコンセンサスとして得られにくい構造を持っている。」(64-5

 

⑥ 「それゆえ、被差別者の怒りは被差別者が「差別」問題にはめられていること自体からも生じている」

「「告発」の論理を立てることが非常に困難なように「差別」は巧妙にしくまれているのである。こうした「差別」の論理と「告発」の論理のからみあいこそ解明しなければなるまい」(65

 

⑦ 「それゆえ、被差別者の怒りは直接にはこうした「差別」問題の枠組自体、その根源的な不当性と//その非対称性自体に向けられている」(65-66

 

⑧ 「被差別者は、「差別」の現実的な不平等の側面に対してのみ怒りを感じているわけではない。被差別者は差別者と同等の待遇をのみ求めているのではない。女性に対し男性と同様の処遇をすれば「性差別」は解消するというものではない」(66

 

⑨ 「「差別」の問題の本質は、財の希少性一般に基づく財の不平等分配自体ではない。だが、このことは意外に充分に論じられてはいない。財の不平等分配をもって「差別」の存在が明白とされ、それ以上追求されないことが多い」(66

 

⑩ 「それは「差別」を「平等」という価値理念にそむくものと簡単に定義してしまい、「差別」がきわめて複雑な意識的・言語的装置であることが認識されていないからである。単なる財の平等分配の強制的確保では「差別」はなくなりはしないことはあたりまえのことなのである」(66

 

⑪ 「それゆえ、「平等」という価値が大前提とされ、現実的な不平等性が指摘されるだけでは「差別」//は論じられない。実際こうした貧弱な理論では、「差別」現象を論じる視角は、差別する側の悪意がすべての「差別」の原因であるかのように論じられてしまい、単にお説教となるか、非難を差別者に加えるだけになる」(66-7

 

⑫ 「被差別者が自らの属性を積極的なものとして受容し、安定したパーソナリティ形成をしえたとしても、なおかつ「差別」に対する怒りは消えはしないであろう。なぜなら、「差別」はそれ自体、「不当な」問題状況であり、そのことが明確化されていないことはさらに「不当」であるから。

 したがって、「差別」論はまさにこうした被差別者の持つ焦燥感の淵源をこそ明らかにしなくてはなるまい」(68-9

■ コメント

 

 まず、①では、「差別とは何か」は従来の議論が言うほど簡単ではない、とされており、「差別とは何か」という問いに取り組む議論が展開されることを示唆している。上の引用の中で、「差別とは何か」を説明していると思われるのは、④と⑤である。


④ 「「差別」は先の言明と全く逆に、その不利益を与える行為が、あたかも「正当な」ものであるかのごとく差別者と被差別者に了解されることを意味する。すなわち、被差別者が「差別」されているのは、不利益をこうむっているからではなくそのことが当該社会では「正当化」されぬからであり、同時にその「正当化」されぬ根拠が、別の論理によってあたかも正当なものであるかの如くに通用してしまうからである」(64)

 

 太字(本文は傍点)の箇所では、二つの評価が対置されている。一方に、ある種の不利益について、それは「当該社会では正当化されない」と評価する視点がある。しかし他方で、それを「正当なものであるかの如くに通用」させるような「別の論理」――評価――が存在すると指摘されている。
 では、江原は単に、ある不利益の正当性に関するコンフリクトがある、と中立的な立場から記述しているのか、あるいは、その不利益は不当だという「当該社会」の評価の妥当性を認めた上で、しかしそれが正当化されてしまっていることを問題化しようとしているのか。
 後者だろう。もし前者、つまり単にある不利益の「正当化」をめぐる論争があると中立的に述べているだけなのだとすれば、《ある不利益について不当だという主張と正当だという主張が対立しているが、何が対立しているのか/どちらが正しいのか》といった問いになる。しかし、江原のその後の議論はそのようには進まない。江原の議論では、「被差別者」したがって「差別」が存在するということは前提であり、「被差別者だけが怒りを強いられる」ような構造に問題があるという点が強調されている。
 江原の問いは、上記引用では「当該社会」の評価の妥当性を前提にしたうえで、《なぜ、本来正当化されないはずの不利益が、それにもかかわらず正当なものとして通用しているのか》という形になる。
 この議論の前提は、「当該社会」の評価の妥当性である。では、ある種の不利益が「不当だ=正当化されない」という評価の妥当性の根拠は何か。「当該社会」の評価の妥当性の根拠は示されていない。《なぜ、正当化されないはずの不利益が正当なものとして通用しているのか》という問いは、《正当化されないはずの不利益がある》という認識を前提にしているのだが、そもそも、なぜその不利益が「正当化されない」のか、という問いは江原の議論の中にはない。

 

 

⑤ 「現代社会は「平等」を価値観念とする。それゆえ「差別」は不当である。しかし、現代社会において「現実の」不平等、すなわち「差別」的処遇は多々ある。それらはさまざまな装置によって正当化されている。たとえば、子どもはさまざまな権利を否定されているが、それに対して「不当」であるという批判はあまり聞かれない。それはそもそも「子ども」というカテゴリーが「平等」の//処置をすべき対象を含む集合から、「排除」されているゆえである。「差別」問題も全く同じ構造を持っている。多くの「差別」問題は、こうした「現実的」不平等を正当化する装置によってそもそもそれが不当なものであるという認識をコンセンサスとして得られにくい構造を持っている。」(64-5)

 

 まず、「子どもの差別処遇」は、「不当なものだという認識をコンセンサスとして得られにくい構造」を説明するための典型的な事例として使われている。

 次に、「子どもの差別処遇」と「「差別」問題」が対置されている。「「差別」問題も全く同じ構造を持っている」という文章の「も」という語には、子どもに対する差別処遇と「「差別」問題」は異なるという含意がある(助詞「も」の標準的用法)。ここで示唆されているのは、両者は「事象」としては異なるが、「構造」の面では「同じ」だ、ということである。

 では、「子どもの差別処遇」と「「差別」問題」の違いはどこにあるのか。江原自身の文章は必ずしも明示的ではないが、次のように言えるだろう。まず、「不平等」という点では共通している。また「構造」が同じだということがこの文全体の主張である。残るのは「不当」かどうかである。上の文章では、子どもの差別的処遇について「「不当」であるという批判はあまり聞かれない」という状況が前提になっている。そして――引用④の「当該社会」の評価と同じく――「聞かれない」こと自体はとくに問題化されていない。その上で、本来「不当」であると批判されるべき「差別問題」にも、実はそれと同じ「構造」がある、という形で両者が対比されている。
 以上から、「子どもの差別処遇」は、カテゴリー化して「排除」される、という「構造」の同一性を取り出すために、正当性において「差別」とは異なる事例として持ち出されている、ということになるだろう。とすれば、つまり「子どもの差別処遇」と不当な「「差別」問題」は区別されてよいという評価が前提になっているならば、不平等とそれを正当化する構造を共有する二つの事例を区別するのは何か、が問題になるだろう。

 

(もちろん、上の文章では「子ども差別」と「差別問題」との関係性は曖昧ではある。子どもに対する差別処遇も他の差別問題と同じく「不当」ではないか、という問い自体が必ずしも排除されているわけではない。ただ、もし両者が、「不平等」とそれを正当化する「構造」だけでなく、その「不当性」においても同じだと考えられているとすれば、「「差別」問題も」という一文は不要である。また、「「不当」であるという批判はあまり聞かれない」という一文も、他の差別問題との共通点として批判対象として位置づけられるだろう。さらに、「子ども」にたとえば選挙権が与えられていないことや、喫煙や飲酒の制限、その他について、それらが「不当」だと言える根拠を提示する必要があるだろう。

 そうではないとすれば、やはり「子どもの差別処遇」と「「差別」問題」とを区別するのは何かが問題になるだろう。 )

 

 ある不利益や不平等が存在しており、それを「正当化」する論理(構造)もあるとして、一方は「不当」であるとは評価されないが他方は「不当」であると評価されるとすれば、両者を分ける基準はどこにあるのか? これが最も重要な問いになるはずだが、それに対する答えは――そもそも「問い」自体が――江原の議論の中にはない。

 

 

江原のその後の議論は、あるカテゴリーに基づく不利益処遇について、《なぜそれが「不当な」区別=「差別」と呼べるのか》、という問いではなく、《本来「不当」であるはずの不利益処遇=「差別」について、しかしその告発が困難になっているのはなぜか》という問いに重点が置かれている。

 

⑥ 「「告発」の論理を立てることが非常に困難なように「差別」は巧妙にしくまれているのである。こうした「差別」の論理と「告発」の論理のからみあいこそ解明しなければなるまい」(65

 

⑦ 「それゆえ、被差別者の怒りは直接にはこうした「差別」問題の枠組自体、その根源的な不当性と//その非対称性自体に向けられている」(65-66

 

⑫ 「したがって、「差別」論はまさにこうした被差別者の持つ焦燥感の淵源をこそ明らかにしなくてはなるまい」(69

 

江原にとって、差別論の課題は、どの不利益処遇が不当な区別としての差別なのかを明らかにすることではなく、不当な不利益処遇(差別)の存在を前提とした上で、それを告発しにくくする構造を明らかにすることにあるとされている。

 だが、「差別はなぜ告発しにくいのか」という問いに対してどんな答えを与えたとしても、それは、「差別とは何か」という問いに対する答えにはならない。それどころか、「差別とは何か」という問いに対して既に答えが出ているのでなければ、「差別はなぜ告発しにくいのか」という問いを立てることはできない。

 ところで、「差別とは何か」という問いに答えるためには、あるカテゴリーに基づく不利益処遇のなかの何が・なぜ不当なのか、という規範的な問いに答える必要があるだろう。たとえば、「差別」問題と呼ばれるものと「子どもの差別的処遇」が「不当性」において区別されるとして、それはなぜか、という問いに取り組む必要がある。あるいは、たとえば、「名前の頭文字がAの人」に教室の後ろに座るように命ずることと、「女性」に同じように命ずることの違い(Hellman 2008)、「緑色の眼の人」を雇わないことと「黒人」を雇わないことの違い(Lippert-Rasmussen 2006)等を説明する理論が必要になるだろう。

 そして、「差別とは何か」という問いがこのような形式をもつとすれば、江原の議論における「非対称性」という用語が対応する問いは「差別はなぜ告発しにくいのか」あるいは「差別の不当性はなぜ見えなくされるのか」等であり、「差別とは何か」という問いではないということになる。

 もし、江原の議論に「差別とは何か」という問いに対する答えを探すとすれば、あるカテゴリーに基づく不当な不利益処遇があり、かつそれを正当化するような非対称的な言説構造が存在しているケースだ、ということになると思われる。だが、あるカテゴリーに基づいて不利益が与えられるケースのすべてが「不当」であるかどうか、さらに「不当」であるとして、そのすべてが「差別」と呼べるか否かについてはさらに吟味する必要があるだろう。

 だが、この江原の議論における「非対称性」の理論的な位置は、おそらく江原自身にとっても、また後にこの議論の影響を受けて展開される差別論でも、明確に認識されていない。それは、規範的評価を前提にしているにもかかわらず、その根拠についての吟味が欠けているからだと思われる。

 

 ※ この点、江原自身の「性別カテゴリーと平等要求」(『フェミニズムと権力作用』1988年、勁草書房所収)では、「女性」という性別カテゴリーは、複数の異なる目的と評価基準をもつ相互行為領域(江原の用語では「関連性領域」)を横断する形で、当該カテゴリーに属する人を、目的や評価基準にとってそのカテゴリーがイレレバントであるにも拘わらず、排除しあるいは不利益をもたらす根拠として用いられるカテゴリーの一つとして一般化された上で分析されているように(も)解釈できる。おそらく、「平等」規範への依拠も含めて、その方向性の方が妥当だろう(これは、socially salient groupsや「不利益の束」といった分析枠組みにも重なりうる)。

 この観点からすれば、たとえば「子ども」というカテゴリーは、たしかにそれもまた、異なる目的をもつ複数の相互行為領域を横断する形で、当該カテゴリーの人を排除したり不利益をもたらすカテゴリーだと言えるが、①「子ども/大人」というカテゴリーが目的や評価基準にとってレレバンスをもつような相互行為領域が多く、また、必ずしもそうでない場合でも、②社会成員の全員が「平等」にこのカテゴリーに一時的にであれ必ず含まれるという点で、他の「被差別」カテゴリーとは大きく異なると言える。