山田富秋、1996「アイデンティティ管理のエスノメソドロジー」、栗原彬編『講座 差別の社会学 第1巻 差別の社会理論』弘文堂

■ まとめ

 

「差別とは、社会のあるカテゴリーにあてはまる成員を、本人たちの生きている現実とは無関係にひとくくりにして、価値の低い特殊な者とみなすことによって、彼らを蔑視したり、虐待したりすることである」(77

 

 だが、山田によれば、それほど単純ではない。重要な点は、差別する側と差別される側の間の「非対称性」である。それは第一に、両者のパースペクティブが同一ではない、という意味である。差別する側は被差別者の視点を最初から排除している(78)。第二に、差別する側はつねに被差別者よりも「社会的に上位にあると自己を位置づけている」という非対等性という意味も含んでいる(78)。

 山田はこの「非対称性」について、佐藤の議論を受けて、①これを「平等」規範によって説明するだけでは不十分であり、②クレイム行動に着目する構築主義にも問題があると指摘する。そして、佐藤が提起する「差別する側に立つ差別論」を一定評価した上で、しかし、佐藤のような「差別する側」と「差別される側」の二分法は「本当に必要なのだろうか」と問う。佐藤の「差別する側に立つ差別論」は、「差別される側に立つ差別論」に問題があるという認識を前提にしている。「差別される側に立つ差別論」の問題とは、構築主義の問題点にも共通するが、「被差別者からの告発」がなければ差別という語の意味を失う、という点にある。佐藤の議論は、「差別する側からの告発」が可能になる点で意義がある。だが、佐藤の議論では逆に「被差別の現実」が消されてしまう(80)。

 山田によれば、むしろ二者択一的に考えるのではなく、「差別する側と差別される側が最初からある関係性の下にあることを概念化」することで、佐藤が指摘するような従来の議論の「問題群を克服した上で、両者の関係性自体をも問うていく差別論が可能になる」と言う。(80

 そのために山田が挙げるのは、「被差別の現実からの告発がなくても、差別者と被差別者の関係性は成立しており、さらにまた、その間に非対称的な不均衡な力」が働いているケースである(85)。山田はこのような関係を成立させているものを、「知識の共有」に求める。山田によれば「知識の共有」という概念を用いることで、構築主義的な議論のアポリア、すなわち「「被差別の現実からの告発」からしか差別現象が生じないというアポリア」(86)から脱却しつつ、佐藤が問題にしたような「共犯化」――差別する側を巻き込んでいくメカニズム――をも問題化でき、さらに、「差別-被差別という非対称的な関係性それ自体を問題にすることができる」(86)。

 山田によれば、差別において重要な点は、「差別される側も差別する側もお互いの非対称的関係について知識を共有している」という点である(86)。ただ山田は、「知識の共有」という概念もさらに分析する必要があると言う。山田が依拠するエスノメソドロジーの観点からは、「実体としての共有された知識」が存在するのではなく、それはむしろ人々の実践のなかで事後的にそのように観察されるものだからである。

 山田によれば、差別現象における差別者と被差別者の関係についての「知識」とは、「ある「社会的カテゴリー」についての「知識」である」(86)。だが、それがどのようにして「差別」になるのか。

 山田の議論は、「一般化された社会的カテゴリー」に基づいて、当事者たちを主体的に非対称的な関係性に置くような「一定の行為の選択肢」に導くことが問題だ、という形に要約できる。それを山田は、「カテゴリー化によるアイデンティティ管理」と呼ぶ。この「アイデンティティ管理」は、「差別する側か差別される側のどちらか一方に働いているのではなく、両者を同時に一つの関係に編成していく権力作用」であり、「それは社会の成員を上位と下位に、そして差別者と被差別者として関係づけていく」(90)ものだとされる。我々は「社会の常識」つまり「支配的文化」を自明視する以上、この関係から抜け出すことはできず、むしろ自発的に選び取ってしまうことになるのである(90)。

 このように述べて山田は、「支配的文化」のもたらす「常識」が、「入り組んだ権力作用の働きによって作り出され」ているという見方から、その「常識」の形成の過程で「隠蔽されている無秩序や対立や意味のほころびに注目」すべきだという(91)。

 その後の山田の議論は、より広く「常識を批判」するための方法と、その意味に向けられる。山田によれば、「常識」は知識として人々の行動と別のところに存在するのではなく、社会のメンバーの様々な相互行為のなかに読み取ることができる。これを読み取ることは、社会のメンバーの実践がそれ自体、何らかの「道徳的秩序」を含んでいる以上、その内部から理解する必要がある。それはつねに何らかの道徳的コミットメントを伴うことになるだろう(93)。

 だから、「差別問題」等について分析する者は、同時にその行為に対して異議を申し立てる主体になる。それを山田は、「自らの立場も巻き込んだ社会批判」が必要になる、と表現している(94)。さらにこの「社会批判」は、山田によれば、「自らの営みも含めて、公の場で自明視された「知識」の正当化のメカニズムを暴露し批判する活動」と言い換えられる(94)。

 では、単に「常識」を相対化し、自明性を批判すればそれでよいのか。この点について、山田は「自明視された常識の編成がほどければ、どんな方法をもってきてもかまわない」と述べて議論を終えている(95)。

■ コメント

 

1 「支配的文化」によって内面化された社会的カテゴリーに基づく非対称的な関係や上下関係のすべてが「差別」だと言えるのか。

 

 山田の議論では、「支配的文化」を内面化した人々が、ある「社会的カテゴリー」に基づいて行為選択をし、そのことが当の人々の間に上下関係を作り出すような場合、そのすべてが「差別」だ、ということになる。あるいは、少なくとも、その可能性は排除されない。

 この議論からすれば、たとえば、「子ども」というカテゴリーに基づいて、飲酒や喫煙等の行為可能性が制約される場合、それもまた「差別だ」ということになる。「差別」という語のそのような拡張を制約するような分析は、山田の論には欠けている。 

 これは、山田が「差別」と「権力関係」を明確に区別していないところに起因する。言うまでもなく、すべての「権力関係」が「差別」だなどとは言えない。「権力」概念の分析にもとづいて「差別」を分析する、という方向性はよいかもしれない。「差別」はある種の権力関係である、と言えるかもしれないからである。しかし、だからと言って、権力関係がすべて差別だ、とは言えない。

 繰り返すが、子どもに喫煙等を禁止する法やその前提になっている「常識」は、山田の用語では「権力」である。だが、それは「差別」だと考える人がいるだろうか。もしそういう人がいるとして、それは「差別」という語のインフレだろう。

 

2 「常識」「自明性」批判は、つねに「差別」批判になるのか。

 

 ならないだろう。

 差別は悪いと言えるが、常識がつねに悪いとは言えない。

 ここで、仮に、「常識」=「社会的カテゴリーによるアイデンティティ管理」は、人々を「何らかの画一的な行為へと導く社会統制」(87)であり、したがって「画一的な拘束力」(91)をもっており、それを自明視し常識とする考え方は「支配的文化」によってもたらされていると言えるとしよう。

 山田の議論では、それは、上下関係を正当化するような「権力作用」をもっており、それを典型的に示しているのが「差別」であり、だから、いかなる「常識」も疑わなければならないし、疑った方が「よい」のだ、ということになるだろう。

 だが、第一に、人の行動を「何らかの画一的な行為へと導く社会統制」のすべてが悪いなどとは言えないし、「拘束力」をもつ「文化」がつねに悪いとも言えない(信号機や交通ルール等を想起せよ)。

 また、第二に、「上下関係」がそれ自体として悪いとも言えないだろう(師と弟子の上下関係を想起せよ)。

 佐藤について、どんなカテゴリー化(排除・見下し)が「差別」なのか、という問いが残るのと同様――対象は異なるが――、常識・支配的文化・上下関係・権力関係等々のなかのどれが「差別」と呼ばれるのか、という問いが残る。