佐藤裕 2005 『差別論――偏見理論批判』明石書店

■まとめ

・「差異モデル」「平等」に基づく議論の批判から「排除」論へ

 

 まず、完全に個人的な理由で権利侵害があったとしても、それは「差別」とは呼ばれないため、「何らかの共通性を持った人々」を前提にする必要がある。従来の議論では、「社会的カテゴリー」という語が使われてきた(21-2)。

 ところで、「社会的カテゴリーと差別」の関係については二つの考え方がある。一つは、「社会的カテゴリーによって異なる扱いをしていることが差別である」(22)という捉え方であり、「差異」によって差別が定義されている。これを分かりやすく表現すれば、「女性と男性を差別している」という形になる(「差異モデル」)。もう一つは、「差別をマジョリティ集団/マイノリティ集団と言った二つの集団の間の対立や権力関係としてイメージする」(23-4)ような捉え方である。これは、「男性が女性を差別している」という表現になる(「関係モデル」)。

 佐藤によれば、従来の「差別の定義の大部分」は、一つ目の「差異モデル」に基づいている(23)。だが、それにはいくつかの問題がある。たしかに、差異モデルには、差別の根拠――扱いの違いの不当性――を、比較によって客観的に提示できるという利点はある。しかし「不当性の証明」はそれほど簡単ではないし、告発が構造的に困難な場合もある。そして、告発が困難である要因そのものがむしろ「差別」問題の一部だと言える(25-6)。たとえば、就職差別を受けた女性は、それを告発できず「「泣き寝入り」をせざるをえないこと」が多い(26)。それを指摘するためには、たとえば「男性中心社会」という視点が必要になる。だが、「差異モデルではこのような視点は完全に抜け落ちて」しまう(26)。

 佐藤によれば、それは「差異モデル」が「差別する側と差別される側の「非対称性」という要素を無視している」からである(27)。「非対称性」とは、「多数と少数、大きな権力を持つ者とそうでない者」などのような「力関係に差がある状態」を指す(27)。この点、関係モデルは、たとえば「男性が女性を差別している」という形で差別を表現するため、この「非対称性」を表現できる(27)。

 ところで、「差別は何より告発の言葉」である。だから「差別の定義」において必要なことは、「それがいかなる意味で不当であるのかを明らかにする」ことである(30)。

 従来の「差異モデル」では、「異なる扱い」の不当性は「「平等」という規範に反するから」だとされてきた。実際、「一般的に差別が不当であることの根拠は不平等であるということに求めるしかないのだという見解は、かなり一般的なものである」(30)。この見解によれば、「不平等な扱い」が不当である理由は、「平等に扱われることが「権利」として構成されているから」である。つまり、「「権利(の侵害)」という論理が差別の不当性を最終的に基礎づけている」(30)。

 だが、この見解は妥当ではない。この見解からすれば「差別の問題」は「人権の問題」と「完全に置き換え」可能になるが、しかし「人権侵害」と「差別」をわれわれは「かなりニュアンスが違う」ものと理解しているからである(31)。この点は、「セクシュアル・ハラスメント」の事例で説明できる。佐藤によれば、「セクハラ」が「権利侵害」だという告発は、「十分理解され」ないだけでなく、それを行う側にとって「不当な告発だと感じ」られてしまうことさえある(32)。それは、セクハラの場合、それが「「悪い」ということが相手(の受け止め方)に依存してしまっている」からである(32)。もちろん、たしかにセクハラについても、差別を人権侵害として対応するという方向性はある。しかし、「実際」には、「差別の不当性」を「権利論だけで説明しつくせる」とは「認識されていない」(32-3)。

 もう一点、佐藤によれば、「偏見」についても同様のことが言える。「偏見」はそれ自体で権利侵害にはならない。偏見に基づく行為が人権侵害になる場合はあるが、「偏見をもつことそれ自体」は「不当」とはされない。しかし、偏見はそれ自体で、権利侵害行為とは独立に「悪いことだ」と認識されている。それと同じく、「人権侵害という論理とは別に差別には独自の不当性がある」という認識をわれわれがもっていると言えるとすれば、それが「「人権」とは別に「差別」の定義が必要とされている理由」になる(33)。

 

■ 「不当性」の根拠

 

 差別の不当性の根拠を「平等」(佐藤の議論では「=権利」)に求める議論が妥当ではないとすれば、何が「不当性」の根拠になるのか。

 佐藤によれば、平等に基づく従来の議論は「差異の不当性」を問題にしてきた。それに対して、「関係の不当性」を考える必要がある。関係の不当性は、「権利概念」によっては基礎づけられない(34)。佐藤によれば、そのことが「差別の定義を困難」にしてきた本当の原因である(34)。むしろ「「関係の不当性」を表現する言葉」は「不平等」ではなく「「非対称性」が適当」である。そして、この「非対称性」を生み出す行為は、「排除」と呼ぶべきである(35)。

 では、「非対称性」とは何か。それは「多数と少数、大きな権力を持つ者とそうでない者」というように「力関係に差がある状態」(27)とも、「「われわれ」と「他者」という関係が生じること」(47)ともされているが、佐藤はあらためて「まったく女ってのは何を考えているのかさっぱりわからないね」という発言を事例として説明している。

 ここには、「女性を「われわれ」とは異なるものとして描く、差異を作り出すという要素」(58-9)がある。「この差異は男性と女性という並列的な差異」ではなく、「われわれ」と「われわれではない者」の差異であり、まさにそれが「非対称な差異」である(59)。つまり、「非対称性」とは、「われわれ」と「われわれでない者=他者」との関係性のことである。また、「非対称性」とは「主体/客体」という関係であり、この主客の関係性は「排除という行為そのものに存在している」とも言われる(114)。

 では、「排除」とは何か。佐藤によればそれは、「ある者を「他者化」すると同時に、別の者を「同化」し、他者と「われわれ」という関係を作り出す行為」(59)である。

 ところで、しかし「われわれ」と「他者」という非対称性を作り出す排除があれば、それだけでつねに差別の不当性の根拠になると言えるのかどうかが問題になる。「他者化」や「同化」といった形式的なメカニズムだけを見れば、「上への排除」も考えられる(61)。だが、「上への排除」は「「差別」という言葉に込められた不当性の感覚とは相容れない」(61)。また、ここでは佐藤自身は言及していないが、「力関係に差がある状態」(27)という意味での「非対称性」も含まない。したがって、排除が「不当」だと言えるためには、「負の価値づけ」「見下し」が必要である(61)。そして、先の例では「わからない」という表現が「負の価値づけ」あるいは「見下し」にあたる。

 このように論じた上で、佐藤は最終的に「差別」を次のように定義している。

 

「差別行為とは、ある基準をもちこむことによって、ある人(々)を同化するとともに、別のある人(々)を他者化し、見下す行為である」(65

■ コメント(概略的)

 

1 佐藤の「平等論」批判の前提

 

佐藤の平等論批判の議論の前提は次の等式である。

 

 ★「差異モデル」=「平等論」=「権利侵害論」

 

佐藤はこの図式の上で、「権利侵害」と「差別」をわれわれは区別して用いている場面があり、したがって、「差異モデル」も「平等論」も「不適切である」(33)としている。

 まず、この議論はそもそも「平等論」に対する直接的な批判にはなっていない。仮にそうなると言えるとすれば、すべての「平等論」は「権利論」である、という強い主張をしなければならない。そうでない限り、権利論を批判しても平等論を批判したことにはならない。

 そして、すべての平等論は権利論である、とは言えないだろう。 つまり権利論には回収されないような「平等論」はありうるだろうし、また、差別の不当性の少なくとも一部は、権利問題ではないような不平等として問題化できるだろう(実際、英語圏の議論にはその方向性で展開されているものがある)。

 

2 排除+見下しを伴う「カテゴリー化」はつねに「差別者のカテゴリー化」になるのか、それとも……

 

 たとえば、「まったく男ってのはこれだからダメだな」「昭和生まれにはセンスないわ」とか「ヘテロには残念ながら難問は解けない」等といった発言。これらもまた、「われわれ/他者」という関係を作り出している。そして、「ダメ」「センスない」「解けない」という否定的表現は、劣位化・負の価値を表現していると言える。では、これは不当な「男性差別」あるいは「ヘテロ差別」等々になるのか。

 佐藤の、

 

「ある基準をもちこむことによって、ある人(々)を同化するとともに、別のある人(々)を他者化し、見下す行為」(65

 

という定義では、そうなるだろう。だが、果たしてその議論は「差別」についてのもっともらしい議論だと言えるか。そうではないだろう。

 そこには、「まったく女っていうのは……」という発言に表現されている要素、つまり佐藤自身が前半で言及しているような、たとえば「男性中心社会」(27)といった要素が欠けているからである。

 では佐藤の議論は、そうした「社会的」な関係が表現されている場合には「排除」+「負の価値づけ」は「不当」になるのだ、という形で解(改)釈できるのか。もしそうできるのだとすれば、「まったく男はこれだからダメなのだ」といった発言は、「男性中心社会」においては「カウンターナラティブ」ではあるとしても「不当」な「差別」ではない、と言えることになる。佐藤の議論は、カテゴリー化に基づく「排除」+「負の価値づけ」行為のなかでも、その背景となっている力関係等が表現(あるいは「上書き」)されている場合には、それが差別になる、という議論なのか。

 だが、残念ながら、佐藤の議論では、そのように言うことはできない。佐藤の「差別の定義」には、個別具体的な行為から独立したところにある「社会構造」やそれについての「共有知識」といったものには言及されておらず、また山田富秋(1996)への反論(165-168)に示されているように、むしろそうした観点は明示的に否定されているからである。そこで佐藤は、「カテゴリー化そのものの「非対称性」」(167)が重要であり、山田のように「「非対称性」を「外部」(一般的に共有される意識や文化)に求める」ことを批判している。

 だが、いかなる「カテゴリー化そのもの」にも、つねに「非対称性」が内在している、と言うとすれば、「まったく男ってのはこれだからダメだな」という発言も不当な差別だということになる。そして、どんなカテゴリー化が不当な差別になるのか、という問いそのものが無効化されてしまうことになる。だがそれは、佐藤自身の前半での「力関係」としての「非対称性」の説明に整合しないだけでなく、議論としてもっともらしくないだろう。

 どんなカテゴリー化が「不当」な差別になるのか、という問いは残される。

 そして実際、佐藤自身、どのカテゴリー化が「関係の不当性」を生み出すのかという点について、最終的に根拠づけることはできず「直感的に感じ取られている」(176)としか言えない、としている。これは理論的には誠実である。不当性に関するこの結論は、佐藤の議論にとって必然的な帰結だからである。だが、これは「分かる人には分かる」ということでしかない。これでは残念ながら議論として底が抜けていると評価せざるを得ないだろう。

 

 他方で、社会成員に共有された「知識」を重視する議論を展開しているのが、山田富秋(1996)の議論である。

 では、山田の議論は、差別を十分に説明していると言えるだろうか。結論から言えば、そこにはまた別種の問題・限界がある。