分配的正義論の文脈で、「正義」は平等を要請するという平等主義(Egalitarianism)に対して、正義解釈のオルタナティブとして提起されている「Prioritarianism(優先主義)」と「Sufficientarianism(とりあえず「十分性主義」とする)」関連の議論の紹介です。優先主義と平等主義について、日本語文献では井上彰「平等の価値」『思想』2010年10月号が非常に有用であり必読です。
■議論の文脈――分配的正義論
「正義」はどのような「分配ルール」を要請するか(Anderson 2010)、あるいはいかにして分配するか(Hurley 2008)という問い――分配的正義論――が前提。
平等主義は、この問いに「平等な分配を要請する」と応答する。それに対して「より不遇な人々に多く役に立つことを優先して分配すべきだ」という優先主義と、「諸個人がある種の福利(wellbeing)の閾値を充足するように分配すべきだ」という十分性主義が対置されて議論が展開されている。
■優先主義
優先主義は、平等主義的な分配原理がある場面で著しく直観に反する帰結をもたらすことを指摘し、最不偶者に優先的に分配することを要請すべきという主張を対置する。代表的な論者はデレク・パーフィットとリチャード・アーネソン。
優先主義によれば、たとえば、
A 半分が100、半分が150
B 全員が99
という選択肢があるとして、平等主義は「状況AよりもBの方が望ましい」と考えるが、それは馬鹿げている。平等主義は、たとえ全ての人の暮らし向きが悪くなるとしても平等は望ましいと考えるが、それは受け入れ難いとして批判される。優先主義は、そうではなく、平等が達成されないとしても、最不偶者の利益を増進するように分配するべきだと主張する。
優先主義の議論に対しては、平等主義を擁護する立場から反論がある。もっとも有名なものとして、優先主義の主張は「人格影響説」を基盤にしているが、それはもっともらしくないというラリー・テムキンの指摘がある。とはいえ、これに対しては、優先主義は必ずしも人格影響説を前提にしているわけではない、という反論も展開されている。
他方、以下で紹介するO’Neil(2008)は、平等の価値をより高次の諸価値のための手段として位置づけつつ(非本質的平等主義)、優先主義の主張の現実的な射程を限定する、という二つの戦略によって平等主義の擁護を試みている。O’Neilは、個人に経験される福利とは別の、何らかの「非個人的価値」を重視する立場を平等主義として保持しつつ、優先主義の平等主義批判が現実的に妥当する状況は非常に限られていると指摘する。その上で優先主義を、①より不遇な人々に多く役に立つようにすべきだ、という「義務論的」な見解と、②個人によって享受される利益の「善さ」は個人の福利が向上するにつれて逓減する、という「目的論的」な見解に分析し、②を受け入れる平等主義も成立すると論じている。
■十分性主義 (充分主義/十分主義)
十分性主義とは、分配的正義の課題を〈個人の利益が何らかの基準となる閾値(threshold)以下に落ちない程度に「十分」に所有しているかどうか〉という点に置く立場。平等主義は、平等を追い求めるあまり、部分的に十分性を達成できる場合にもそれを犠牲にする点で、また、誰にも改善にならなくても平等に固執する(「普遍的盲目」を支持する等)として批判される。 代表的な論者としては、ハリー・フランクファートとロジャー・クリスプがいる。デイヴィド・ウィギンズのニーズ論も関連の議論として言及されている。
Casal(2007)の整理によれば、「問題は個人が十分に持っているかどうかだ」という十分性主義の主張は、二つの異なるテーゼを表現している。第一に、ある種の閾値以上の暮らしをおくることの重要性を強調する「積極的テーゼ」と、第二に、閾値を越えたレベルでの追加的な分配要求の重要性を拒否する「消極的テーゼ」である。
積極的テーゼは、「道徳的見地からみて重要なのは、万人が〈同じ〉ように所有すべきだということではなく、各人が〈十分〉に持つべきだということだ」(フランクファート)あるいは「閾以下の人々に利益を与えることに絶対的な優先性を置くことが重要だ」(クリスプ)とまとめられる。消極的テーゼは、「もし万人が十分に持っているならば、誰かが他の人よりも多くもっているかどうかは、道徳的な重要性はない」という主張としてまとめられる。
■十分性主義に対する平等主義からの批判
ただ、これらについては、そのimplausiblityが、とくに平等主義の立場から指摘されている。
積極的テーゼによれば、十分性の閾以下のいかなる改善よりも、閾を越えるような改善の方が(改善の幅が小さくても)つねに優先されることになってしまう。だが、過酷な状況にある人の状態を改善することについて、それによって「十分性」の閾値を満たすことができないとしても、またさらに、同じ資源を別の人々に費やすことでその別の人々の状態を閾値以下から閾値以上に向上させることができたとしても、それでもなお、過酷な状況にある人を改善すべきだと言えるような場合があるのではないか、と(これは優先主義からの批判にも重なる)。
また、消極的テーゼによれば、ある閾値以上では、分配に関する平等主義的な理由づけも優先主義のそれも否定されてしまう。だが、この立場では、リッチとスーパーリッチに対する累進課税(およびその税率の違い等)を支持することもできなくなってしまうだろう。また、仮に超富裕者同士であったとしても、所得以外の機会などの平等化が必要な場合があるのではないか、という点も指摘される。 また、閾値の設定基準の曖昧さなども指摘されている。
とはいえ、Casalは、原理主義的な平等主義に対する十分性主義の批判が妥当であることも認めざるを得ないとして、「十分性に制約された平等主義」という多元主義的な分配ルールを採用できると論ずる。
■優先主義と十分性主義の対立可能性
十分性主義も優先主義も、他者との比較に基づく原理(比較原理)としての「平等主義」を批判する点では共通している。ただ、両者が対立する場面もある。
十分性主義は、ある閾値以下の「暮らし向きの悪い人」に分配したとして、しかしその人が閾を越えることができない場合、それよりも、分配によって閾値を越えることができる人に資源を分配する。他方、優先主義はそうした閾を設けないので、その「暮らし向きの悪い人」を優先するだろう。
また、十分性主義は、閾値以上の人々の暮らし向きが大幅に悪化するとしても、それが閾を下回らないならば、ある人が閾を越えるような分配政策を支持するが、優先主義は最不偶者の状態をほんの少しだけ(十分性主義の閾をわずかに超える程度に)改善するために、他の人々の暮らし向きを大幅に悪化させるような政策を(おそらく)支持しないだろう。 また、優先主義は、十分性主義の閾以上の人々の間についても最不偶者の改善を主張できるが、十分性主義にとってはそれは不要だということになる。
■ 優先主義的考量と十分性に制約された平等主義
O'NeilもCasalも、平等主義擁護という方向性を堅持しつつも、「個人によって享受される利益の〈善さ〉は当人の福利が向上するにつれて逓減する(福利が減少すると増大する)」といった――負の功利主義にもつながる、あるいはStein(2006)の議論にも共有されている――認識を重視して、十分性ないし優先主義的な考量によって補強された平等主義という「多元主義的」な立場に落ち着いている。
なお、言うまでもないが、これらの「分配ルール」に関する多元主義的な議論と、いわゆる「多元的正義論・平等論」とは議論の水準が異なる。後者では、「(貨幣の)分配」という方法そのものも検討対象にされうるからである。
ただ、分配ルールの議論文脈においても、O’Neilが言うように、平等主義擁護の論拠を個人の福利に還元されない何かの価値に求めざるを得ないとすれば、この点を媒介にして――たとえば「尊重されること(経験)」と「尊重し合う関係性」や「尊重する態度」が区別でき、かつ後者には前者とは独立した価値がある等と言えるとすれば――両者を連関させることもできるかもしれない。
O'Neill,Martin 2008 "What Should Egalitarianisms Believe?" Philosophy & Public Affairs 36-2 (2008): 119-156
Casal ,Paula 2007 "Why Sufficiency Is Not Enough," Ethics 117(January 2007): 296-326