Williams,Andrew 1998 "Incentives, Inequality, and Publicity",Philosophy & Public Affairs 27-3, 1998(Summer) 225-247

Ⅰ 導入

ロールズによる不平等を産み出すインセンティブ擁護論に対するコーエンの批判を検討し、「基本構造よる反論」に対するコーエンの反駁に反対する議論を行う。(225-6)

Ⅱ コーエンの批判

コーエンの批判のまとめ。

多くの論者は格差原理はインセンティブを産み出す不平等を明示的に支持していると考えている。だが、コーエンは、〈不平等は最不遇者の利益人なるのにそれが必要な場合には正当だ〉という主張の曖昧さによって、問題はより複雑になっている、と論ずる。
この主張は厳格な形で読めば、〈才能ある労働者は、不平等な報酬がなければ最不遇者に利益になるような形で働くことができないに違いない〉、という議論になるが、より緩い読みでは、〈インセンティブが必要なのは単に、才能ある者はそれがなければ生産的な仕方で働くことを選択しないからだ〉とも読める。
コーエンは、ロールズの議論によって正当化されていると思われているインセンティブの多くは、意図に関係した意味においてのみ必要とされていると指摘する。

コーエンは、才能ある者は、不平等が最不遇者(the least advantaged)の状況を改善するのに必要だということをいかに正当化するか、を問題にする。ロールズ自身の議論ではこれに対する直接の答えはない。ロールズの政治的動機と経済的動機に関する見解では、正義の原理によって政治的活動が規制されることを要求しつつ、市場における無制約な利害最大化行動は許容される。コーエンはこの見方を批判する。

コーエンは、不平等は最不遇者の利益になるためにあるならば道徳的に望ましいとみなす人々は、彼らの日々の行動の中でこの信念を軽視できるかどうかを問う。人々は、この信念をもつならば、税率に応じて労働を差し控えるような決定を、それが自らの利益になるからといって、下すことはできないのではないか、と。むしろ、彼らの市場におけるふるまいは、格差原理によって方向付けられている平等主義的エートスを遵守(respect)すべきであり、個人的利益の無制約的な追求を諦めるべきではないか。(以上:226)

詳論は後にするとして、ここでは二つの論点を確認しておこう。①特別な労苦(special labor burdens)の補償として高給を得ているような場合には、このエートスは侵害されない。②このエートスは個々人に自らの利害関心に対して完全に不偏的な態度を要求するわけではない。コーエンは行為者中心特権(agent relative predogative)を認めることで、エートスの要求の射程を一定程度制約している。

Ⅲ 基本構造による反論

格差原理は平等主義的エートスを要求する、というコーエンの議論には少なくとも二つの反論がある。(以上:227)

第一に、コーエンの議論が効率性と平等を和解させるとして、それは、自由を耐え難い形で犠牲にすることになる、という反論がある。
この「自由による反論」は、ロールズの基本的自由と機会平等原理は、職業選択の自由を保障するが、コーエンの言うエートスはこれを侵害する、と主張する。ロールズが不平等を産み出すインセンティブを受け入れるとして、それは彼が自由・平等・効率性という競合する要求をもっともらしい仕方でバランスすることで、より重い原理に妥協させているだけだ、ということになる。
 この反論は一見説得的だが困難はある。エートスの涵養が法的強制を用いないならば「侵害」とは呼べないからである。コーエンの支持するボランタリーなシステムが市民の平等を脅かすということを説明する必要が出てくる。
 これに対して、私が擁護したいのはもう一つの反論の方である。それは、諸個人の市場のふるまいのなかで尊重されないならば、格差原理は脅かされる、というコーエンの議論を否定することである。格差原理は諸個人のすべての行動を規制するのではなく、制度、ロールズの用語では「基本構造」に限定されている、という反論である。(以上:228)

コーエンはこの点についてのロールズの議論を認識した上で、二つの応答を行っている。コーエンによれば、第一に、格差原理の射程の制限は、ロールズが原理について行っている三つの主張と整合しない。つまり格差原理によって規制された社会で諸個人は、(1)友愛を示し、(2)その経済的地位に尊厳をもって甘んじることができ、(3)道徳的本性を完全に実現する、という主張である。基本構造による反論を維持することは、これらを犠牲にするというコストを伴う。
コーエンは、このように指摘した上で、より根本的な論点として、基本構造による反論に依拠する論者は、個人の市場におけるふるまいを、社会の基本構造の内部で生ずるものとみなす理由を説明する必要がある、と論ずる。それを試みてみるならば、ロールズの基本構造概念の不明確さを除去しなければならなくなるだろう、と。(229)
ロールズは基本構造の中に法的に強制的な制度だけを含む場合もあるが、他方で、全ての「主要な」社会制度にまで拡張していることもある。さらにそうした制度は、社会の「インフォーマルな構造」を構成する様々な「慣習、慣例、予期」を含むこともあるとされる。更にロールズが基本構造を正義の「主要な」主題と見なす理由は、それが人々に対して甚大な影響をもつからだ、とされている。だが、そうした影響を産み出し得るのは明らかに法だけではない。
コーエンによれば、基本構造による反論はジレンマに陥る。基本構造の強制的な解釈からすれば、市場の利害最大化行動(behavior of market-maximizers)と平等主義的エートスが非構造的であることは明らかである。だが、このように解釈すると、ロールズの原理の制約は非常に恣意的になる。また、ロールズの原理は、法的に制度化されていない場面で存在する不正義への批判力を失うことになる。家族内での性別分業を前提とした教育方針における差別等が典型的事例になる。(以上:230)
 これを不正義ではないとするのはもっともらしくない。また、第二の解釈、基本構造は人々に対して甚大な影響を与える全ての主要な社会制度を含むという理解からすれば、市場における最大化行動は、諸個人の人生の予期に大きな影響をもつことを問題にしなければならなくなるだろう。

Ⅳ 反論の再論

コーエンの以上の議論が正しければ、基本構造の支持者は好ましくない選択に直面する。基本構造を広く解釈してコーエンの議論に近づくか、あるいは狭く解釈して恣意性ともっともらしくなさを引き受けるか。だが、以下で見ていくように、このジレンマは回避可能である。コーエンは、基本構造をめぐる更なる説明を看過しているからである。
 基本構造は、それが何を行うかに着目した定義と、それが何を行うのであれいかに行うかに着目した定義が可能である。前者を傾向的属性(dispositional properties)と呼び、後者を本質的な属性(intrinsic properties)と呼ぼう。コーエンのジレンマの第一の角は、構造の法的強制的な性質、つまり本質的な属性に関するものであり、第二の角は、人々の人生に多大な影響を与える傾向、つまり傾向的な属性に関するものである。(以上:231)

コーエンは傾向性を重視しているが、この説明は本質的な属性――法的強制力をもつ属性――とはみなされ得ない。
また、ロールズの制度をめぐる特別な意味付けに留意する必要がある。(以上:232)

ロールズは、規範によって統御されるすべての行動を「制度的なモノ」だとみなしていない。そうではなく、彼はある種の規範、つまり公的な規範を具現化する行動を制度と呼んでいる。かくして、ロールズの制度すなわち基本構造の概念を理解するためには、公的ルールの特徴を認識する必要がある。
 『正義論』における制度的公示性(institutional publicity)はこれを明らかにしている。ロールズによれば、制度を構成するルールが公的なモノと見なされる条件は、諸個人が、ルールの(1)一般的適用可能性、(2)その特定の要請、そして(3)諸個人がその要請に一致する程度について共有知識をもつことができる、という点にある。(以上:233)従って、すべての規範が公的とされるわけではない。適用可能性を無視したモノは除外されるし、情報的に要求が高すぎるようなモノも除外される。
 こうして考えれば、基本構造による反論は次のように再論できる。
 ロールズの原理は、基本的諸自由、機会の公平な平等、所得と富の最大化を保証するための手段の選択に適用される。それは、これらの目的を最も効率的に達成する制度の確立と維持を要求する。逆にある種の決定には適用され得ない。仮にそれが多大な影響をもつものだとしても、ある種の選択は、公的ルールに一致するともそれを侵害するとも見なされない。市場で利益最大化主義者になるという決定もロールズの原理によっては規制されない。コーエンはこの点を看過している。(以上:234)

Ⅴ 平等主義的エートス

私の議論は、コーエンの平等主義的エートスが公的ルールを実現するものと見なされ得ないという想定に依拠しているので、このエートスの内実を検討する必要があるだろう。
まず、このエートスが取りうる二つの形式を区別しよう。狭いエートスと広いエートスである。狭いエートスは、分配的要請を含んでいる。いかなる不平等も、(1)特別な労苦の補償、(2)さもなければ不可能な生産への動機づけ、(3)適理的な行為者中心特権を満たすかの、どれかであるべきである。他方、広いエートスは、追加的要求を含む。それを生産性要請と呼ぼう。
 広いエートスはより多くの情報を要求する。コーエンの平等主義的エートスがロールズの公示性条件を満たしているかどうかを評価するために、このどちらをそれが採用しているかを知ることは重要だ。コーエンはこの点で明確ではない。(以上:235)
 ただ、コーエンはおそらく広いエートスを支持するだろう。これを事例を通して考えよう。ここに、ソフィーという人がいるとする。彼女はコマーシャルデザインの能力をもつがアーティストになりたいと思っている。彼女がコマーシャルデザイン能力を発揮すると、社会全体の生産性に貢献するが、アーティストになろうとしてもあまり貢献はないとする。彼女が広いエートスをもっているとすれば、賃金を特に得られなくても社会に貢献する仕事を選ぶだろう。他方、狭いエートスをもつ場合、仮にアーティストになる夢を放棄する損害を補填するような給料が得られるならば、アーティストを諦めるかもしれないが、彼女は平等な分配要請に従っているため、そんなに高い給料を受け取ることはできない。だからやはり自分自身の望みを優先してアーティストの道を選ぶとする。
 ソフィーが広いエートスをもっている場合、個々人は高い利益を得るが、狭いエートスの場合、人々はあまり利益を得られない。もう一つ別の状態を考えよう。ソフィーが平等主義的分配要請に制約されていない場合である。その場合、自己利益最大化に基づいてデザインを好むに十分な給料を交渉で獲得することになる。この場合、人々の利益は、ソフィーが広いエートスをもっていた場合よりは低いが、狭いエートスをもっていた場合よりは高くなるだろう。(以上:236)
 狭いエートスは、このように見れば、道徳と利益最大化行動の不幸な結婚が生み出す批判に対して脆弱である。(236-7)
 コーエンには広いエートスを採用する理由があるということになるだろう。では、次になぜこうしたエートスが社会の基本構造の一部になりえないのかを説明しよう。

Ⅵ 障害の回避

障害反論によれば、格差原理は基本構造にのみ適用可能であるとしても、多くの不平等を産み出すインセンティブを非難する。なぜなら、それは平等主義的エートスを要求するからである。だが、この反論が成功するのは、平等主義的エートスが、重要な公示性条件を満たし得るということがたしかであるときである。だが、このエートスが含むべき分配的要請と生産性要請が公的であることは疑わしい。
個人の所得が分配義務を満たしているかどうかを知るためには、彼女の追加的所得が、特別な労苦に対する補償であるかどうか、あるいはそれが行為者中心的特権によって正当化されているかどうかをチェックする必要がある。まず労苦を考えよう。個人間比較に関する平等主義者の多元主義的見解によれば、職業は、彼女にその仕事が彼女の厚生に対するアクセスないしケイパビリティと機能に影響を与えるがゆえに、補償を受け取る権利を与える。
 たしかに比較の概念的可能性は認めるとして、厚生に対する影響を確証することは極めて難しいだろう。(以上:238)
 とくに大きな社会では、仕事の満足度レベル等について個人間比較の情報を得ることは難しい。働く条件が厚生に与えるインパクトを他の諸要素と区別することも困難だし、また、労苦についての自己欺瞞もありうる。仕事に対する補償の程度を制度化することはできない。更にコーエン自身、ロールズの余暇をめぐる議論について、労働が負担だということは公的チェック可能性を満たさない、と述べている。
 つまり職業に対する補償は、認識的理由から制度化に抵抗すると言える。行為者中心的特権も制度化できないが、それは単に認識的理由からだけではない。それは「ある程度理に適った自己利益を追求する権利」とされているが、それは、本人の利害関心によって変わるため、拡大解釈をいくらでも許す。(以上:239)
 つまり、高給も権利だ、と言うことを妨げない。では、客観的な・共通の概念はあるだろうか。平等要求を拒否する個人的理由を、たとえば友情等の理由を出すことはいくらでも可能である。たしかに、過度な自己中心的な主張を確認することはできるが、しかし制度化にとって充分な基準はない。
 生産的義務についても似た問題が提起される。(以上:240)そもそも、諸個人の生産力がどれくらいかが良く分からない。生産力を効率的に引き出すに十分な不平等と、諸個人の利害関心による不要な不平等、エートスによって是正すべき不平等を区別することはできない。
 こうした問題を見るにつけ、コーエンのエートスは公的ルールを具現化する制度には表現され得ず、エートスは基本構造の外部にあると結論づけるのが妥当だろう。とはいえ、以上の議論はエートスについてカレンズ(1985)に依拠しており、コーエンの理解とはズレがあるかもしれない。(以上:241)

Ⅶ 尤度の低さ(implausibility)と恣意性

以上のように論じたとして、コーエンはさらに、基本構造の制度に対する制約は尤もらしくないし恣意的だと主張するかもしれない。
確かに、コーエンが例に出すような家族内での性差別的分業を前提にした教育差別については、それが法的ルールを侵害しないとしても不正だと思える。
 ただ、市場のエートスに関する情報については、家族内のジェンダー分業をめぐる問題を認識するよりもはるかに大きな問題がある。(242) コーエンによる家庭内の不正義に対する反対論を共有した上で、なお、正義原理を制度に制限することは可能である。(242-3)
 ただ、コーエンの基本的な批判にはまだ応答できていない。それは、制度に限定する理由について、ロールズが、それが人々の生に大きく影響するという点を挙げていることに関わる。もし人々の生に大きな影響を与えるということが理由ならば、それは、非制度的私的選択を問題にする理由にもなるはずだ、と。
 正義原理を公的ルールとして理解された基本構造に限定する論者は、二つの不平等の源泉――制度的と非制度的――に対する、自らの非対称的な態度を説明する必要がある。
 ここでロールズの重要な問題設定を参照しよう。それは、「いかにして効率性、協調性、安定性を達成するか」という問題である。これらの価値を念頭に置くべきだろう。(243)
 これを念頭に置けばコーエンの批判への一貫した応答が可能になる。

「正義の構想は、単に諸個人を自由かつ平等な者として扱うべきだというだけでなく、社会的統合の理念、すなわちロールズの用語では秩序だった社会的協同を人々が実現可能にするべきである。この理念に従えば、簡潔に述べるが、社会が秩序立っているのは、それが公的かつ安定的な正義の構想によって規制されているときのみである。この条件下では、全ての人は、他者が同じ構想を受容していることを受容しかつ知っており、また万人が、その構想が満たされていることを知っている、ということになる」(244)

こうした公示性と安定性には、道具的な価値だけでなく本質的な価値もある。(244)
ところで、理に適った多元主義の事実あるいは包括的な倫理的ないし哲学的教義に関する深い不一致に対する政治的リベラリズムの応答は、正義の構想の射程を制限することを支持する。たとえば、何をどの程度の負担と考えるか、完全な生産性を発揮するとはどういうことか等々に関する情報的制約の事実を前提にすれば、公的に重要な可能な現象への制限を採択すべきだろう。
 それは、公的ルールとして規制できる不平等の源泉に〔正義の構想の主題を〕制限することである。

「我々の正義の構想は、平等と社会統合の追求を調和させることを目指して設計されているため、我々は、財源分配のインパクトがその公的性格に結びついているという理由で、財政政策を問題にする」(245-6)

市場におけるふるまいに対しては、我々は同じ〔公的性格に結びついているという〕理由をもたない。
コーエンは、ロールズの思想における秩序だった社会に関する理念の根本的な役割を看過していると考えられる。

Ⅷ 結論

コーエンはフェミニストの「個人的なモノは政治的」というスローガンで彼の批判をまとめている。私は、このスローガンではなく、彼の批判は深刻な困難に直面すると論じてきた。別のスローガンが私の主張の基盤を説明する。すなわち「正義は実行されるためのものと考えるべきだ」と。この観点から私は、個人的なモノの中のいくつかの側面は政治的と見なされ得ない、と論じてきた。(246)