Shiffrin,Seana Valentine 2010 "Incentives, Motives, and Talents" Philosophy & Public Affairs vol. 38, No. 2 2010 111-142


 この20年にわたり、ロールズ『正義論』で展開された実質的原理に関する主な議論は、格差原理と人々の経済市場における行動の関係性に焦点化されている。つまり、格差原理は人びと(citizens)に直接的に適用されるのか、それとも基本構造という社会制度だけに適用されるのか、という点が争点になっている。コーエンは制度と同じく、個の人びとにも格差原理は及ぶと論じている。とすれば、人びとは雇用に際して、最不遇者の利益になるように行動するだろう。(111)
 だが、格差原理が適用されるのは直接的には基本構造だけだということを認めたとしても、給与インセンティブに関する正義をめぐる問題は、格差原理に対する正当化を人びとが受容するとはどういうことか、という点に関しても生ずる。(112)

Ⅰ 共通の序論的基盤――実質的な徳理論

 ここで「実質的な徳理論(substantive virtue theory)」と呼ぶものが問題にするのは、人びとが、正義原理と同時にその主要な正当化論を受け入れているという状況である。実質的な徳理論が吟味するのは、正義原理とその受容から帰結するような信念や慣習、性向、動機、態度や行動である。(113)これはいわゆる「徳倫理」とは異なる。実質的な徳理論は、しばしば徳倫理に結び付けられるような堅いメタ倫理的コミットメントに同意する必要はない。(114)
 実質的な徳理論は次のような問いを含む。

 (1) 原理Pをもっているならば、どんな行動や性格的特徴、例えば信念や慣習や性向や態度、そして動機が、Pが指示する状態の実現にとって必要になるのか? 人びとはどんな行動や性格を示し、発展させ、涵養し、実践すべきか? 

 たとえば、暴力行使に反対する道徳原理があるとすると、その確かな実現の条件には、行為者が単に暴力を抑制する義務をもつだけでなく、怒りを自制する性向等々を涵養すべきだということが含まれるだろう。(114)

 (2) 原理Pをもっており、かつ公示性条件を加えるならば(つまり原理とその正当化が、人びとに知られており、受容されており、また知られ受容されるべきだということが知られているという条件があるならば)、原理Pとその正当化の「受容acceptance」は、行為者(と制度)が重要すべきそれ以外の原理に対して含意をもつのだろうか? さらに、基礎となる原理とその結果を実行するために行為者が発展させるべき信念や習慣や成功や態度や動機や行為などは存在するのか? それらの原理と一貫しないような、したがって主張や権利や義務の基礎になりえないような信念等々が存在するのだろうか?

 言論の自由を例とすると、言論の自由原理とその正当化の受容は、国家の権威を用いて批判を封じ込めたりするべきだといった観念をもつことと一貫しない。ただそれは、人びとは他者が自分を批判しないことを「望む」べきではない、ということまでは含意しない。(115) しかし、言論の自由の原理とその正当化の受容は、人びとは批判されたくないといった希望やその他の私的な欲望を、「公的」に重視されるべきだというための理由にしない、ということを含む。また、言論の自由原理の正当化論は、人が他人に批判されないことを望むとしても、徳のある市民ならば、その望みを、真摯な批判に対する社会的な――法的ではなくても――抑圧を支持する理由にはしないだろう、ということを含む。(116)
 この例は、実質的な徳の方法論がどのように作動するかを示すのに役立つし、また、社会制度に適用される一つの原理が、直截的に諸個人に適用されていないとしても、いかに諸個人の行為に対して含意をもつかを示している。この点を、労働インセンティブの文脈のなかで考えていこう。(117)

Ⅱ 労働インセンティブ問題のもう一つの定式化

 コーエンの議論が引き起こしている問題とは、格差原理は基本構造(社会制度の一部としてのみ考えられた)にだけ排他的に適用されるのか、あるいはより広く直接的に基本構造の外部の諸個人にも適用されるのか、である。(119)

⇒「この論争は、格差原理が基本構造だけ適用される点には同意するが、基本構造は制度だけを含んでいるのかどうか、あるいはそれは個人の経済的選択やその結果にまで及ぶのかについて同意していない人々のなかでは、別の形式をとることもある。」(119)

「私の議論は、格差原理の主な支えになっている議論が公的に受容されているということに関わる。その議論とは、能力は道徳的な観点から見て恣意的であるという主張である。」(121)

「ロールズ流の秩序だった社会において、人びとは二つの原理「と」それらに対する正当化を受け入れている。あまり論じられてこなかったことだが、原理に対する「正当化」の受容は、公示性条件の重要な構成要素である。」(121)

・能力は道徳的観点から見て恣意的であるという考え方…… 単に、また主に、能力の所有が運や偶然の問題だと言っているのではない。能力が道徳的にみて恣意的なのは、それが収入や富に関わる点についてである。(122)

 私が有している能力は、職業の分配に関しては恣意的ではない。とはいえ、私の能力は私が遂行すべき職業と(そして私が行うことに対して公正な機会をもつべき職業と)密接な関係にあるのだが、それらは、私が貢献する協同の社会産物に対する私の主張という観点からすれば恣意的である。(123)

・ 恣意性という指摘には、二つの意味がある。どの才能が価値をもつかは社会組織化のあり方に依存する。潜在能力を社会的利益になる力へと発展させるには教育等の力に依存する。

 ① どの能力、技能そして質が社会的協働の企図に役に立ちうるかは、大部分が我々の社会組織の状況と組織化の方法の産物である。(124)
 ② 生来のポテンシャルを社会的利益を獲得する能力へと発展させるのは、通常、社会的投資と教育等々に依存している。(124)

 以上から能力の占有は恣意的であるがゆえに、それは不平等な分配の理由に役だちえないとされる。とはいえ、これを受け入れることは、この想定から逸脱するような別の理由はありえない、ということを意味しない。(125)
 平等の想定に関するこの基礎付けが、そもそも関係的なものではないことに注意しよう。つまり、それは平等な分配は市民たちをより良い関係性に向かわせるから、あるいは狡猾な関係性が蔓延るのを妨げるから、といった理由で分配的平等を擁護しているのではない。またそれは、平等な分配がそれ自体として本質的に価値があるという議論でもない。そうではなく、恣意性論は非関係的である。私は、我々の社会的産物に対して、あなたとまったく両立する主張をすることができる。私の主張はあなたの主張よりも強くも弱くもないという理由で、我々の主張は同じものになるのであり、収入の分配がいかにわれわれ相互の関係性の本質に影響を与えるかということについての考慮が基礎になっているのではない。
 ロールズは緩やかな平等主義的分配のために関係的な議論をしているが、これらの議論は「甚大な」不平等や階級分化が、よく機能する共同体と政治に干渉するような社会的分業を生み出すかもしれず、また不可避的に羨望の元になってしまうのだといった方向に向かう。(125)
 非関係的な基礎付けは、厳格な関係性的議論に比べて、平等な分配からの逸脱を認める議論に開かれている。非関係的な基礎づけ論は、平等な分配そのものに内在的な価値をおいていないからである。(125)

・たとえばそれは、パレート改善を生み出すような不平等が、我々の一部に、善をより効果的に追求することを、そのために他者の能力を削減することなく、可能にするだろうという議論と両立する。(125-6)
・とはいえ恣意性論が、分配的平等に勝るパレート改善のための議論と両立するとしても、恣意性論はパレート改善論によって形づくられる議論とメカニズムに重要な制約を課す。(126)
・もし私が、自分の才能が我々の社会的協働の産物であるという観点から道徳的に恣意的であることを受け入れるなら、この事実だけで、雇用の文脈における昇給交渉のやり方に影響を与えるだろう。(126)
 人種に関する類似の事例で考えよう。

・もし私が基本構造を支配する原理と、個々の市民を支配する原理との区別を信じているとすれば、私は基本構造は人種差別を根絶するように、また機会の平等を公正に提供するように設計されるべきだと考えるだろう。またこうした制度を支持し、かつそれに従う義務があるということを承認するだろう。だが、私は他方で、もし可能ならばすべての場面で実際に人種差別を根絶するように努力し、公正で平等な機会を促進することを私の個人的目的のなかに含める必要はない、という信念を整合的にもつことができるだろう。また、人種差別の根絶の必要性は、私の他の諸目的に対して辞書的な意味で優先性をもたないだろう。
 ⇔ それに対して、もし私がこれらの二つの原理の背後にある正当化論を受け入れているならば、私は経済的諸関係で有利な立場に立つために人種を利用することはできない。(127)

・たとえば私がある職場で仕事を得ようとしており、伝統的にその職場では私と同じエスニシティないし人種的背景をもつ人々が雇われてきたとする。私は、自分自身を、基本構造を支配する人種差別反対の要求と公正な機会原理に「直接的に」支配されているとみなしていないとしても、私は他の人種の労働者よりも、人種を理由として高い給料を要求することは整合的ではないだろう。このような要求は、人種は収入や富などの観点からみて道徳的に恣意的な要素である、という原理の受容と整合しないのである。(127)

・もし私たちが能力の占有を、その人の協働の社会の産物への要求という観点からみて恣意的な要素だとみなすなら、私たちが人種をそのようにみなしたのと同じように、私は私が望まれている能力をもっているという理由で高額の給料を要求すべきではないし、そこから利益を得るべきでもない。同じ労苦(labor burden)である場合、私は、単に私の特殊な能力や生産性によって有利な立場にあると知っているというだけの理由で、平等な分配原理を超える要求をすべきではない。また雇用者もそのような高額の給与を提示すべきではない。(128)

・インセンティブ批判についての分析は、格差原理の直接的な内面化を要求するコーエンの戦略から、二つの相互に関連した道に分岐する。第一に、理由づけの配置の形式において(128)、第二に、その拡張において。(129) 能力が道徳的に恣意的だということを受容すると、人々が行為する際の理由が制約される。この理由は、最不遇者の利益の最大化という特定の目標を積極的に実現するという要求とは異なる。この制約は、秩序だった社会で市民は、最不遇者の利益になるように働くが、最不遇の人々の地位に対する結びつきは直接的なものではない。この考え方を受容することは、それだけで独立して、最不遇者の地位向上のための個人的義務を提供するものではない。(129)

・もし私が一つのポジションを、別のものを好むという理由で断るとして、私が前者を実行していれば最不遇者の立場を最大化したとして、それでも私の職業選択は、私が内面化している恣意性論と衝突する必要はない。(129)

 ★整理 ある職業AのほうがBよりも最不遇者の利益になるとして、私が両方選択できる能力をもつとする。私はAよりもBのほうが好きだとする。私はBを選択したとしても、それは恣意性論が示す原理に背反しない。

・コーエンとの違い …… コーエンの説明では、最不遇者の利益になる仕事を拒否することは、ともあれまずは問題であるとされる。なぜならそれは格差原理の内面化と整合しないからである。(129-130) 私の見方では、そのような問題は存在しない。拒否それ自体は、人の能力をあたかもそれが収入を生みだす個人割り当てであるかのように扱ったことを含まない。(130)コーエンの見解は個人的〔行為主体〕特権の発動によって緩和される。私の見解はそうではない。コーエンの見解では、この特権は、ある職を拒否することを正当化するし、その職に就くために高い給料を受け取ることも正当化する。私の見解では、仕事を辞めることは正義へのコミットを侵害しないが、より高い給料を受け取ることはそれを侵害する。(130)

・私の見方では、能力インセンティブによって生み出される不平等は、秩序だった社会では起こるべきではない。だが、私たちと最不遇者に利益を与えうるような仕事が実際に担われないかもしれない。たとえば庭師の方が医師よりも明らかに多くなってしまうかもしれない、そして給料によるインセンティブは、この問題を扱う実行可能な選択肢ではないだろう。コーエンはこの問題に対して、エートスを通して職業選択に影響を受ける諸個人に対して、格差原理を適用することで処理している。私はこのやり方でわれわれの手が相互に結ばれるだろうという見解を受け入れるが、そのような結果は別の考慮によって緩和される。正義という動機は唯一の理由ではない。別の道徳的原理や動機、慈善が人々を重要な社会的ニーズに役に立つ仕事を遂行する動機になりうる。(130)

・これはコーエンが指摘するように、臓器提供に対する現在のアプローチと似ている。生体間臓器提供が自発的であるべきだというのと同じである(注36)。また、もし臓器売買によってより多くの臓器供給が望めるとしても、私たちはそれに反対するだろう。(131) さらに、私たちは臓器移植を申し出たり金を得たりすることを不適切であるというのは私たち自身のエートスの一部だと考えている。(131)

・臓器売買に反対する理由の一部は、支払を認めると、取り締まりが困難な強制や圧力を導くだろうというものだが、それだけではない。臓器は商品化が不適切であると思われるような、私たちの身体の尊厳(bodily dignity)に深く結びついているからだ。(132)
・また売買が認められると、贈与と保有(retention)の社会的意味が変わってしまう。労働インセンティブのケースでは、能力の配置にインセンティブを与えることは、平等の基礎に対する公的コミットメントを象徴的に弱めてしまうし、とりわけ、市場で価値をもつような諸個人の属性(所有物properties)と性質における差異が政治的社会的な平等者としての個人の地位にとって重要な意味をもつことを否定する公的コミットメントを弱めてしまう。(132)

・このような労働インセンティブへの反対論は収入の不平等を帰結する全てのパレート改善を非難するわけではない。

Ⅲ 上記の説明が直面する別の反論

 インセンティブ論について考える際に生ずる「〔過剰な〕要求(demandingness)」についての問題がある。コーエンのインセンティブ論に対する立場の背後には、二つのディマンディングネス問題があると考えられる。一つは帰結主義に共有されている問題であり、もう一つはしばしば不正な要因についての隠された操作によって生ずる。(136)

・第一に、コーエンの立場は帰結主義と同じ反論と困難に直面する。つまりそれはあまりに命令的過ぎる。諸個人は職業選択の時点で自分の目的よりもつねに最不遇者の利益を考えて職業を選択すべきだということになる。服従している市民が彼ら自身の独立した目的を追求するような環境を作り出すことへの利害関心は、一方で基本構造に基づく反論を導き、他方で、個々人の特権についてコーエンのような別の理解の戦略を導く。(136)

・それに対して、私の説明は基本構造に基づく反論を引き起こさない。それは格差原理それ自体が直接個々人に適用されるという主張に依拠していないからであり、同時に、コーエンの根本的な洞察に、とくに格差原理の是認が個々の市民の行動に対する含意を有しているという点には一致する。(137)【だが、それは、格差原理が個々人に直接適用されるからではなく、格差原理に対する正当化論の受容が、個々人の行為を駆動する動機を制約するからである】。(137)恣意性に基づく正当化論はそれ自体では完全な命令の形態をとることはない。格差原理の正当化論は、道徳的に最不遇者は可能な限り改善されるべきだということではなく、能力は道徳的観点から見て恣意的だということである。したがって、平等からの逸脱は、価値ある能力の所有およびその使用に対する直接的ないし間接的なアピールによっては正当化され得ない。このタイプの「過剰な要求」問題は分散する。個人的特権を呼び出す必要はない。人々は、恣意性論と両立可能な様々な動機で行為することができる。完全に命令的な原理から自由になることは、「過剰な要求」問題に対して道徳的要請から自由な休日を認めることなく、また部分的に「監獄から自由になる」カードと道徳的に等価なものを認めることなく、解答を与える。

・第二の問題は、私とコーエンの両者に当てはまる。それは、個々人の収入と富に対する道徳的に恣意的な要素の影響を規制することに対する、個人の責任の範囲に関わる。私はすでに、人は収入という理由で能力を占有することを積極的に受け入れたり主張したりしないだろうと論じた。だがそうすると人は実質的に選択肢をもたない、ということになってしまうのではないか。(137)

・この状況は、コーエンが最初に焦点化した個人的交渉よりもより一般的にみられる。インセンティブ賃金は、しばしば対面的な交渉状況での直接的要求の産物ではない。それは往々にして、構造的メカニズムのなかで生ずる。このことは、恣意性論の内面化は全てのオファーと利益の因果的経路を統制すること、そして疑わしいオファーと利益を拒否することを要求するのかどうかという問題を生じさせる。(138)

・人種差別を思い起こしてみよう。人種差別者の動機に従って行動しないように要求すること等々は、特に負担でもないし理にかなわないような負担でもない。それはさらなる負担を個人に要求する。同じ負担が、人々は給与水準が能力に対する不合理な補償を反映していないかどうかを評価するように要求する場合には存在する。(138)
 この問題への一つの応答は、基本構造がこの問題を扱うべきだという見解を採用することである。基本構造は、市場に対する能力の非意図的で因果的な効果をコントロールすべきであり、諸個人はこれらの問題と、大きなそして不公平な負担を担うような場合を腑分けするべきである。しかしこの応答は、こうした状況が多くなるならば、満足できないだろう。恣意性論を受容する個々の市民は、彼らが恣意的な特徴によって利益を得るようなところに意図的にであれ非意図的にであれ参加しないようにすべきだ、という過度な要求に直面するだろう。とすれば、私の応答も過剰な要求反論に再び直面する。(139)

・とはいえ実はこれは、新たな問題でもなければ特殊な問題でもない。我々はこうした状況に常に直面しているからである。(139)

・これは見たような二項対立的な選択であるとは思えない。つまり、①我々は個人として我々に提示されるもの、あるいは我々が消費するものすべての起源を探究すべしという過剰な要求の下で働かなければならず、満足するものがないときには独力で新たな職や生産物を発明しなければならないのか、あるいは、②そうした要求からの我々の自由は、さもなければ正当な道徳的要求であるはずのものを無視する特権のなかにあるというのか。この二つしか選択肢がないわけではない。(140)

・たとえば、私はほんの少しの人種差別主義にも、あるいは人種差別者と意識的に協働しているようなことにも、参加できない。同様に、私は直接的に私の能力を自分が占有していることから利益を得ることはできない。なぜなら、それは本来は理由にならないことを理由として提示していることになるからである。しかし、理由にならないモノを理由として扱わない、という拘束を侵害するような不当な諸要素の影響が含まれた因果的経路から利益を得ているのか否かが不明な場合がある。そのような場合、私は本来そうすべきでない要素から利益を得ることを「選択している」とまでは言えない。(140)

。問題の構造は、より集合的で協働的な応答を必要としていると思われる。たとえば、組織的ボイコットはある隠された諸要素を白日の下に晒すだろうし、より統一的な応答とより統一的な負担を人々に与える圧力を行使するだろう。(140)

・労働市場では労働組合が、給与に対する能力の不正な影響を制約するような実践を確立する役割を果たすだろう。(141)

■ 結論〔本文には節分けはなし〕

・ロールズ的な秩序だった社会では、高(あるいはより低)収入に理由を与えているかのように能力を扱うことを避ける完全義務が存在する。それが曖昧である場合、そして回避が非常に困難である場合、追加的義務についてどのように考えるべきかという観点からは、問題はより複雑になる。もし、恣意的な要素を反映した諸実践から利益を得ないという義務を、能力を利益の理由になるように扱うべきでないという義務と同じく、完全義務であると考えるならば、過剰な要求問題の最大のバージョンに直面することになるだろう。そして、それと同時に、個人の特権が本当にこの完全義務の要求を和らげることができるのかどうか、そしてどのようにそれを行うのか、といった困難な問題に突き当たるだろう。(141)

・しかし、以上の考察は、それは完全義務ではなく不完全義務であると考える理由を提供している。

・我々は、つねにこの不完全義務が奉ずる価値を促進する理由を有しているが、それをあらゆる状況でつねに促進する必要はないし、またそれはできない。(141-2) しかし、我々は個人として、それを完全に無視することもできない。慈善と同じく、我々の不完全義務は、問題の価値が特に明確で顕著であるような個別の状況について起動されるだろう。そして慈善と同じく、この価値を個人個人が適切に促進できるようにするための社会的集団的な構造を促進することを試みる理由を与えるだろう。そして、その社会的集団的構造は、政府的なものと非政府的なものとを含む多様な形態をとるだろう。(142)