ケイパビリティ・アプローチ(Lorella Terzi 2009、Linda Barclay 2012等)

■ 大枠

 

① 「インペアメント」は、個人の特性(feature)であり、年齢やジェンダーと同じ。

② 「ディスアビリティ」は、当人ができることの範囲(諸機能/ケイパビリティ)の制約。※ Terziは「諸機能」と「ケイパビリティ」をほぼ同義で用いている。

③ インペアメントがディスアビリティになるかどうかは社会的環境によって変わる。

④ 何が重要な諸機能/ケイパビリティか、は参加民主主義的な討議にゆだねられる。

 

■ 従来の社会モデル批判


① 社会モデルは、ディスアビリティは差別的で不正な社会的経済的構造を原因として引き起こされる、というが、ディスアビリティの源泉と原因の両面で社会的次元を過大評価している。

② 社会モデルは、インペアメントの複雑な次元と、ある活動や能力を制約する影響を看過しており、インペアメントとディスアビリティの関係性を見逃している。(Terzi 91)

 

また、「差異の称揚」は批判的な意義はあるが問題もある。平均的なあるいは典型的な人間の機能(ファンクション)の記述的意味を全く否定してしまうと、機能が欠如している人への支援要求の根拠が失われる。

 

→ 代替案は、ディスアビリティを人間の多様性の一つの特定の変種と考え、その個人の位置に対する影響を制度的・社会的編成の中で評価するようなアプローチだ。(Ibid. 93)

それがケイパビリティ・アプローチだ。このアプローチは、ディスアビリティ概念を、人間の多様性の一つの側面、たとえば年齢やジェンダーと比較可能な概念にする。それは多様性を異常性のような概念に単線的に結びつけることも、また正常性についての理念化された考え方に訴えることもない。(Ibid. 98)

 

ケイパビリティ・アプローチは、ディスアビリティが生物学的原因をもつのか社会的原因をもつのかという問題から、人々がそこから選択できるようなケイパビリティの完全なセット――つまり諸機能に対する諸機会――へと視点を変えて、この諸自由のセットのなかでインペアメントが果たす役割へと視点を移す。(Ibid. 98-99)

 

→ インペアメントとディスアビリティをケイパビリティ・アプローチで考えるとそれらは機能(ファンクション)とケイパビリティという用語で再定式化できる。(Ibid. 100)

 

インペアメントは、ある機能に影響するかもしれないような個人的特性であり、したがってディスアビリティになるかもしれない個人的特徴である。ディスアビリティとは、諸機能に対する制約である。その制約は、個人的特徴と社会的特性の絡まり合いの結果として生ずる。諸機能は個人のあり方を構成するものなので、そして、ケイパビリティはその人が達成できる諸機能の多様な組み合わせ、つまり、その人が多様な人生を選択し、送ることができる自由を表現している。したがって、諸機能の制約は、個人にとって入手可能な諸機能のセットを制約することになる。かくして、ディスアビリティは、ケイパビリティの範囲を狭めることになり、正義の問題として取り組むべきある種の差異になるのである。

 

■ コメント

 

・ インペアメントは年齢やジェンダーと比較可能な「個人的特性」であるとすれば、年齢やジェンダーのみならず人種やその他、個人的特性とされるものはすべて「インペアメント」として記述されうるということになるだろう。

 そのうえで、それが社会環境等と絡み合う(interlock)ことで「重要な諸機能」や「ケイパビリティ」――その保障されるべき範囲自体が民主的決定にゆだねられるのだが――を制約している場合、それが「ディスアビリティ」と呼ばれ、社会環境の是正(等)が正義の問題になりうる、という議論になる。

 

 「ディスアビリティ」は単に不利益と呼べばよく、「インペアメント」も個人的特性とすれば済む。いずれの用語も、少なくともこの規範的議論の文脈では、不要になるだろう。問題はその不利益の質量的な程度の評価になる。そしてそれは、ひとまず当然の、また望ましい方向性だと思われる。

 

・ただ、ケイパビリティ・アプローチはケイパビリティの制約の原因に関する「相互作用モデル」なので、医学的治療や個人的増強よりも社会変革をつねに採用するという方向性は保証されない。(Barclay 2012: 510) これはこの発想の欠陥なのかどうか。Barclay(2012)は欠陥ではないと述べる。