Fischer, John Martin 1994 The Metaphysics of Free Will (Blackwell, 1994) ch. 7 “Responsibility and Alternative Possibilities”

7章(pp.129-159

 

1 導入

道徳的責任を課すためには、行為者が行為時にある種のコントロール〔力〕をもっていることが必要だ、という直感的で自然な描像に対する反論がある。この描像は、未来に枝別れした開かれた道があるということを含意する。この描像の基本的な問題は、過去や自然法則に対するありえない力をもつことを要求してしまっている点にあるが、それだけではない。

問題は、選択可能性を含意するタイプのコントロール力を実際に我々が持っている、ということの意味がクリアではない点にある。

道徳的責任と人格性がこの種のコントロール力を必要とするとして、しかし我々がお互いに自分たちの行動に対する道徳的責任の帰属を正当化できるということはクリアではない。本当にこの種のコントロール力が必要なのか?

 

2 フランクファート事例

フランクファート事例は正しいと思える。そしてそれは、道徳的責任が、真に開かれた選択可能性の実在を含意するような類のコントロールを必要としない、ということを示している。とはいえそれは、道徳的責任がいかなる類のコントロールも必要としない、ということではない。

⇒ 重要なのは二種類のコントロールを区別することだ。

 

事例1 私は調子のよい車を運転している。右に曲がろうと思い、右に慎重にハンドルを回して、車を右に曲げ、ドライブをする。このとき私は、車を導くguideコントロールをしている。それを「ガイダンスコントロールguidance control」と呼ぶことにしよう。

事例2 フランクファート事例と同じく、私は再び、注意深くかつ適切に右にハンドルを回して車をガイドした。しかしそのとき、実は私の知らないところで車のハンドルは、もう右以外の方向に回そうとしても回らない(戻そうとしても戻らない)ように壊れてしまっていた。とはいえ、実際に私は右に曲がろうとしてハンドルを右に回したのだから、最初の場合と同じことが起こったことになる。この場合も最初の例と同じく、車をある種のやり方で右に導くという意味でコントロールしていた。とはいえ、最初の例と違って、車を別の方向に行かせることはできなかった。私はレギュレイティブコントロールregulative controlを欠いていた。

 

⇒ 一般に、我々は、ガイダンスコントロールとレギュレイティブコントロールが一緒に働いていると思っている。だがフランクファート事例は、それらを少なくとも原理的に切り離す仕方を示している。それが示唆するのは、道徳的責任に必然的に結び付けられる種類のコントロールは、ガイダンスコントロールだ、という点である。(133

ガイダンスコントロールの感覚を詳しく説明するよりも――それは車を右に曲げているときのコントロール感で十分と思われるが――、むしろ選択可能性を含むようなコントロール力つまりレギュレイティブコントロールを、道徳的責任が必要とするのかどうかを吟味した方がよい。(133-134

 

3 ほんのわずかな自由がある戦略 The flicker of freedom strategy

3.1 この戦略とその意義

・フランクファート事例とガイダンスコントロールに説得力があるからといって、この事例の分析を終わらせてしまうのは少々拙速である。フランクファート事例には、一見いかなる選択可能性もないように見えるが、よくみると、そこにはたしかに通常の種類の他行為可能性は含まれてはいないが、それでも、ある種の選択可能性を含んでいる可能性があるからだ。つまり、この事例の反事実的介入者は、ほとんどすべての選択可能性を消滅させるが、すべての可能性を除去してはいない、と言うこともできる。つまり、フランクファート事例においても、「ほんのわずかな自由」があるように思われる。

 

・車の第二の例 ―― たしかに車を別方向に動かすという選択可能性はなかった。だが、このことは、別方向に動かそうと意図することも不可能だったということは意味しない。他意思可能性はあった。

たしかに、オリジナルのフランクファート事例では、他意思可能性もない。意思を別の方向に向ける脳神経の徴候が――本人に意識されない時点で――察知され、自動的に催眠が働く、としても事例は崩れないから(135)。

 

⇒ しかし、まったく選択可能性がないという主張に満足できない人もいるかもしれない。オリジナルをみると【ここでは投票の例】、

 

「もしジョーンズがブッシュに投票しようという傾向を示したならば、コンピュータが作動して、ジョーンズの脳の機構をお通して、彼がクリントンに投票することを決めているように差し向け、そのように投票させる」

 

となっている。ここでは、ジョーンズは「ある傾向を示す(show an inclination)」という力をもっていたとも言えないことはない。つまりそこには「ほんのわずかな自由」があったのだ、と。ここにはある空隙――エルボールーム(肘を動かす余地)――があり、それが道徳的責任を課すことを正当化するのだ、と。

 

・ だが、なぜ、「ほんのわずかな自由」を切り離すのがそんなに重要なのか。

⇒ いかなる種類の選択可能性もないという因果的決定論が正しければ道徳的責任は成立しない、という「両立不可能論」が前提になっているから。

仮にフランクファート事例においても「ほんのわずかな自由」があるとしよう。そうすると、この事例は、伝統的な意味での選択可能性をもたない場合でも道徳的責任があるということを示していることになるとは言えるが、因果的に決定された世界で道徳的責任があるという議論としては採用できない、ということになる。因果的に決定された世界では、「ほんのわずかな自由」もあり得ないのだから。

 

※ 決定論と責任実践が両立しない、という両立不可能論が「ほんのわずかな自由」を持ち出す。

 

3.2 戦略の四つのバージョン(136-)

 

① 一連の出来事を遡って「ほんのわずかな自由」を見出そうとするバージョン。

クリントンに投票したジョーンズは、ブッシュに投票しようとする「徴候を示す力はあった(have the power to show the relevant sign)」と言える。フランクファート事例では、もし仮にジョーンズがその徴候を見せるや否や、その徴候が引き金となって脳にインプットされた神経メカニズムが自動的に作動してブッシュに投票することはできなかったとされている。そして実際には、徴候を示さなかったというストーリーになっている。その徴候を示して脳の自動メカニズムの引き金を引く自由があったと言える。(136

 

② ほんのわずかな自由が見いだされるところまで、行為主体によって引き起こされた出来事の方に先に進むバージョン(ファン=インワゲンのバージョン)

 実際に生じた具体的出来事を引き起こしたことに対して、道徳的責任がある、という。出来事の個別化に関する本質主義的原理を適用する。ジョーンズがブッシュに投票する徴候を示して、ブラックがインストールした脳神経メカニズムが作動して、ブッシュではなくクリントンに投票することになる、という仮説的な事態は、実際にその徴候を示さなかった現実の事態とは別の出来事である。実際に起こった出来事について、ジョーンズがそれとは別の出来事を引き起こす力をもたなかったとは言えない。ジョーンズは別の個別的出来事を引き起こす力をもっている(137)。

重要なのは、個別的事態と一般的事態の区別。フランクファート事例では、ジョーンズは「クリントンに投票する」という一般的事態を避けることはできなかったのだが、ジョーンズが《自らの意思でクリントンに投票する》という個別的事態を避けることはできた(脳神経メカニズムが作動する、という別の事態が起こることになるとしても)。(138

 

③ リバタリアン行為主体バージョン

 「行為」と「単なる出来事」を区別するのは、その行為に先立つ「意思」があるという点にあるという見解。意思が「行為主体による(agency-caused)」という点が重要。行為者因果性は、出来事因果性に還元され得ない特別な因果性である。行為主体の行為主体を原因とした意思は、行為者が何らかの外的要因によって意思をもたされたということと両立しない。

 フランクファート事例では、ジョーンズはクリントンに投票するという意思を引き起こす行為者原因であるが、彼はこの同じ意思を自らが引き起こさないという力をもっている(139)。

 

④ 上の三つは、これまで看過されてきた他行為可能性を、詳細に事例を検討することで取り出す戦略。四つ目はさらに実際の事態の経緯を細かく見るバージョン。

「行為主体が道徳的に責任をもつのは何か」という点に焦点化する。私たちはこの事例で責任があるというものは、「クリントンに投票する」ということでも「クリントンに投票することを選ぶないし意思する」ということでもない。「彼自身でクリントンに投票する」ことあるいは「彼自身でクリントンに投票することを選ぶ」ことに責任がある。この「on his own」こそが重要。

 

これらの戦略は、一見他行為可能性がないと思われたフランクファート事例にも実は、表面を少し削ると他行為可能性があると言える、と主張する戦略。それにより、決定論と道徳的責任の両立不可能論を守ることになる(1389)。

 

3.3 応答

 

 「ほんのわずかな自由」戦略は斥けられる。これらで論じられているような他行為可能性が、この事例を適切に理解する上で、ある種の役割を果たすことを示す必要があるのだが、そのような役割を果たしているとは思えない。「ほんのわずかな自由」戦略は、それらが言う他行為可能性が、私たちに道徳的責任を帰属する根拠になっていることを示す必要がある。しかし、それは説明されていないと思われる(140)。

 フランクファート事例で、実際に自由に行為しなかった事態に沿って、これほどの他の道筋が実在したと想定するのはきわめて不自然。また、これらの他の道筋は、行為主体は重要なコントロール力(レギュレイティブコントロール)を有していた、という主張の根拠足りうるか。伝統的なレギュレイティブコントロールがない事態にも責任があると言える、というのがフランクファート事例だ。

 それを、これらの「ほんのわずかな自由戦略」は覆しているとは言えない。仮にこれらの議論が示すような「ほんのわずかな自由」があるとしても、それが道徳的責任を帰属する根拠として必要な役割を果たすことができるとは思えない(143)。

ほんのわずかな自由論者(flicker theorists)の四バージョンの典型は最初のバージョン。それによれば、ジョーンズはブッシュに投票する選択をするプロセスを開始することができた(このプロセスは即座に脳神経学者ブラックが組み込んだ神経プログラムによってカットされるのだが)。ここで行われているのは、ブラックのプログラムが作動する一連の流れから、少なくとも「なにものか」を切り離すという操作である。「行為を始動する」力を切り離すこのやり方は四バージョンに共通している(144)。このブラック・プログラムの「引き金を引く出来事」は、しかしながら、いかなる始動的行為でもない。それが道徳的責任帰属の基盤として十分に堅固なものとは思えない。

またこの徴候は、自発的意思をもつ徴候ではない。仮定から、ブラック・プログラムはブッシュに投票しようとする意思の形成そのものを妨げるのだから。この非自発的徴候が、道徳的責任帰属の根拠とされる他行為可能性と呼ばれ得るのか。それはないだろう。

 「ほんのわずかな論者」によって提示されている他行為可能性は道徳的責任を課す根拠として十分に堅固なものとは言えない。したがって、道徳的責任はレギュレイティブコントロールを必要としない、と結論づけられるだろう(147)。

 

4 因果的決定論、神の実在、道徳的責任

 

とはいえ、上記から直接、ガイダンスコントロールが道徳的責任にとって条件として十分だということにはならない。ガンダンスコントロールは因果的決定論と完全に両立可能に見える、というところから始めよう。次のようなことになりうる。つまり、道徳的責任にとってレギュレイティブコントロールは不必要だが、ガイダンスコントロールがあれば十分だとして、ある種の他行為可能性は道徳的責任に不要だが、依然として、因果的決定論の不在が要求されるのだ、と(147)。

 

ある種の両立不可能論にとっては、決定論が道徳的責任を脅かすのは、それが他行為可能性を締め出すからである。この両立不可能論にとっては、道徳的責任がレギュレイティブコントロールを必要としないということは、致命的である。だが、別の種類の両立不可能論もある。それによれば、決定論が責任を掘り崩す理由は、それが他行為可能性を掘り崩すからだ、と言う必要はない。

 フランクファート事例も、リバタリアンを満足させるような日決定論的な仕方で進行しているのだとすれば、ジョーンズはたとえ別様に行為できなかったとしても 責任がある。

別の言い方をすれば、別様に行為できなかった、ということが真でありうる二つの道がある。一つは、現実の連関が、行為者をして別の連関を開始できなくさせるような何らかの要因を含んでいるということである。第二に、そのような要因は現実連関にはないが、他行為連関が、行為者をして現になしたこと以外のことをできなくさせる要因を含んでいる、という仕方である。そして、第二の道がフランクファート事例である(149)。しかし因果的決定論は、まさに現実連関要素の実在を含意する以上、フランクファート事例は、道徳的責任が因果的決定論と両立するという主張にとって決定的なものではない、と。

 しかしこの見解は魅力的ではない。というのも、因果的決定論が道徳的責任を脅かす理由として、それが他行為可能性と関係しているという理由以外の理由を見出すことができないからだ。

 創造性等や「彼自身の」といった言い方も説得的ではない(149下段・省略)

 多くの哲学者が、何らかの非決定論的な「行為を始める能力」が道徳的責任に必要だと考えてきた(150)。

 しかしフランクファート事例はこれを否定している。そもそも、因果的決定論が道徳的責任と両立しないという想定に対して強い理由を見出すことができない。

 結局何が問題なのか。道徳的責任についての一般的説明は、ある種の強制や直接的な洗脳、脳神経障害や心神喪失等の場合には道徳的責任はない、というものになる。とはいえ、こうした人びとに道徳的責任がないと言うために、これらは因果的決定論の不在を措く必要はない。因果的決定論の不在を喚起することはやり過ぎであり、むしろこの文脈では、ある種の「特別な」因果性があると言えばよい(151)。

道徳的責任の説明は、因果的決定論が道徳的責任と両立可能だということを認めるだろう(152)。

 機械論的世界観が責任概念を掘り崩す、と言う直観。予見可能になってしまうと言われる。だが予見可能性は責任を掘り崩すわけではない(153

 因果的得決定論が道徳的責任を脅かす強い理由を、それが我々の他行為可能性能力を問いに付すからという点を離れて見出すことはできない。因果的決定論がそれだけで道徳的責任を締め出してしまことはない。我々は「特別な」ケースで行為者が自由を失う理由を説明するのに、因果的決定性の不在に訴える必要はない。

 

5 フランクファート事例と分裂症的状況

 ※ 省略的

フランクファート事例に重みを置き過ぎではないか、と言われるかもしれない。だがこの事例は双宇宙の議論よりも極端で奇妙だとは思われない。

 

 

6 結論

 

伝統的見解では道徳的責任は何らかのコントロール力を必要とするとされてきた。それはたしかに正しい。だがそのコントロール力は他行為可能性を含意するようなものである必要はない。レギュレイティブコントロールではなくてよい。ガイダンスコントロールでよい。フランクファート事例は一見奇妙だが、重要なことをしめしている。道徳的責任は、実際に起こったことに依存するということだ。

ほんのわずかな自由戦略は、フランクファート事例に抗して、他行為可能性を守ろうとした。しかしそれは失敗している。その戦略の基本的問題は、道徳的責任帰属の基礎としてあまりに弱いと言う点にある。他行為可能性は本質的に道徳的責任にとってイレレバントである。