Distributive Justice and Disability: Utilitarianism against Egalitarianism

Stein, S., Mark 200605 Distributive Justice and Disability: Utilitarianism against Egalitarianism,Yale University Press,304p. ISBN-10: 0300100574 ISBN-13: 978-0300100570

目次

Acknowledgments                    ix

ONE Introduction                      1
TWO Intuitionist Theory and Interpersonal Comparisons   11
THREE Disability and Welfare                23
FOUR Utilitarianism and Distribution to the Disabled    33
FIVE Egalitarianism and Distribution to the Disabled    55
SIX Rawls                         102
SEVEN Dworkin                        119
EIGHT Ackerman                       158
NINE Welfarism Weighted or Unweighted?           180
TEN Intuition about Aggregation              207
ELEVEN Distribution of Life                 222
TWELVE Conclusion: Philosophy and Policy           266

Notes                         273
Index                         301

概要/紹介

※「」のみ引用。カッコ内は頁数・改行はおおむね段落に対応

Ⅰ Introduction 

主題 …… 功利主義と平等主義の論争。
 分配的正義論としての功利主義は、厚生が最大限増進するような人を助けるべきだとするのに対して、平等主義は暮らし向きの悪い人を助けるべきだとする。両者はしばしば収斂を見せるが、分岐する場面もある。両者が分岐する場面の一例が、障害者に対する分配の場面である。
 障害者を含む分配問題については、功利主義のほうが平等主義よりもうまく処理できる。平等主義は、障害者に対して過小であるか過剰であるかのいずれかになる。(1)
 まず、資源平等主義では、障害者への分配は過少になる。他方、厚生平等主義はたとえば、末期ガンに侵された若者の厚生を平等化するために、社会資源を過剰に投入することになる。厚生の平等主義では、非障害者の貧困者は最低の厚生レベルの人々の厚生を上昇させるための手段とみなされるだろう。
 平等主義理論の問題は、相対的(比較的)利益(relative benefit)に鈍感なことにある。資源の平等主義は、追加的資源から多大な利益を得ることができる障害者に対する分配を少なくしてしまう。他方、厚生の平等主義は追加的資源から利益を得られない人に過剰に分配してしまう。これらにたいして、功利主義は資源を人々が最善を達成するところに配置することができる。功利主義は分配的正義の黄金率である。(2)
 第二章では、個人間比較についてのノージックの「功利性の怪物」の事例は、功利主義に反対するためによりもむしろ、功利主義の利益になるように用いることができるということを示す。(3)
 第三章では障害と厚生の関係に関する経験的研究を概観する(4)。ほとんどの分配理論に反映されている常識的見解では、重度障害者は健常者よりも低い厚生しか得られないとされる。これにはおおむね同意できるが、人々は快楽主義的な適応能力をもっているため、障害は、非障害者が思うほどは厚生を低下させない場合もある。
 第三章では障害とは何かという問題を考察する。これについては、普遍的に適用できる定義は存在しない。本書では障害は、功利主義理論と平等主義理論にとっての実験場として用いられる。そのため、広い障害概念を採用する。たとえばガンも盲目と同じく「障害」とする。それは広いとはいえ特異な定義ではないだろう。(4)
 第四章では、障害と分配に対する功利主義的アプローチについて論ずる。また、功利主義は往々にして障害者に少ない資源しか配分しないと論ずるセンの議論を中心に検討する。この議論は特殊な状況を前提にしており正しくはない。(4-5)  第五章では、資源の平等主義と厚生の平等主義という対比について論ずるが、「資源」を物質的な財だけを指すものとして用いて論ずる。また、「厚生」をドゥウォーキンに従って広い意味で用いる。この観点からは、センとコーエンはいずれも、資源から人々が得られる利益に関心をもつ点で、厚生の平等主義に分類される。(5)
 イアン・シャピロが言うように、現代分配的正義論のほとんどは、指標とその指標を適用する原理ないし関数(function)という二つの次元に従って記述できる。功利主義にとって指標は厚生であり、その関数は最大化である。厚生の平等主義の指標は功利主義と同じ厚生だが、その関数は平等化である。資源平等主義の関数は平等化だが、指標は資源である。
 厚生平等主義による資源平等主義批判は、資源平等主義は障害者への分配を過少に見積もりかねないというものであり、逆に、資源平等主義によれば、厚生平等主義では、障害者が非障害者の貧困者よりも支援を要する場合でも、それよりも多い資源分配を認めないだろうと応答する。第五章ではこの批判がいずれも正しいことを確認する。(6)
 第6章から8章では、最も有名な資源平等主義者、ロールズ、ドゥウォーキン、アッカーマンをそれぞれ論ずる。(6-7)これらの理論は、障害者に対する不適切な再分配と過剰な再分配との間で揺れ動いている。そして、これらに功利主義的な要素を導入すればよりよい理論になるということを確認する。(7)
 特に本書ではドゥオーキンの理論に紙幅を割き、その仮設的保険市場論が実質的には、ハルサーニとヴィクレイが提案した仮設的選択に近く、功利主義の一形態であることを確認する。
 第9章では功利主義と厚生平等主義の論争に立ち返り、セン、コーエン、ダニエルズ、ヌスバウムを扱う。これらの論者はいずれも純粋な厚生主義者ではなく、問題の焦点は、功利主義と優先主義との間にあることを示す。(7)
 同章では、優先主義に対する功利主義の利点を提示するが、優先主義を完全に排除することはできず、むしろ優先主義のもっともらしいバージョンは功利主義に非常に近づくということを確認する。(8)
 第10章では、集計をめぐる問題を考察し、功利主義の集計主義的発想は多数者のために少数者を犠牲にするという批判が、ほとんどの場合には当てはまらないことを見る。我々は、多数者の少数の利益が少数者の多大な利益よりも総計として上回ると考えることはほとんどないし、また、少数者よりも多数者を助けることが間違っていると考えることもほとんどない。
 第11章では、生命の分配について論ずる。功利主義は、障害は実質的に厚生を低下させる、という想定に基づいて実質的な支援を擁護することもできる。ただ、この想定は、障害を持つ生はそうでない人の生よりも救う価値が低い、という反直観的な帰結を示唆している。(8)じじつ、シンガー等はそう述べている。臓器移植のレシピエントを選択する際、障害者よりも健常者を選ぶべきだと言っている。このような帰結は悩ましい。だが、功利主義が生命の分配に関して障害者を差別するよう要請する、と断定はできないことを示す。ただ、やはり功利主義はこの問題に対して正しい解答をつねに与えるわけではなく、この領域については、功利主義擁護論は十分なものではないかもしれない。(9)
 生命の分配問題が功利主義に難問を提起するとして、それは平等主義者に対しては、さらにより大きな問題を提起する。いずれにしても、相対的利益の一形態を考慮せざるを得なくなるからである。平等主義の多くのバージョンは、我々は、救命医療の配分に関して障害者の利益になるように差別することを要求する。この政策は、障害者差別よりもさらに直観に反するものだと思える。(9)
 本書は平等主義批判が主題ではあるが、私は二つの点で分配的正義問題において平等に価値があると考えている。(9-10) 第一に、社会は少なくともすべての成員を平等な尊重をもって扱うべきだと信じている。(10)
 第二に、経済的平等は、貧困者は追加的資源からより大きな利益を得るがゆえに功利主義的基盤からも正当化される。本書が反論するのは、哲学的平等主義ないし分配原理としての平等主義である。(10)

Ⅱ Intuitionist Theory and Interpersonal Comparisons

 まず、本書の方法論は直観主義的理論である。どんな規範理論も直観に訴えるのでなければ説得力がない。私はまず第一に直観主義であり、その上で、功利主義者である。功利主義は、多くの点で平等主義よりも読者の直観に合致するだろう。これを説得するために、本書では多くの事例を用いる。(11-13)
 次のポイントは「厚生の個人間比較(interpersonal comparison of welfare:IPCs)」である。その際、単なる個人間厚生比較(IPCs)と個人間厚生の増分比較(increment IPCs)の二つのレベルを設定する。増分(個人間厚生)比較は、厚生の獲得分と喪失分の個人間比較である。たとえば、Aが渇きで死にそうであり、Bが僅かに喉が渇いているだけだとする。「Aの厚生はBよりも少ない」と言うのが通常の個人間厚生比較である。「AはBよりも一杯の水から多くの利益を得るだろう」と述べる場合、増分比較を行っていることになる。これは、低い厚生しかもたない人は同じわずかな資源からより多くの利益を得るケースであり、多くの場合に妥当である。とはいえ、つねにそうなるわけではなく、例外については「知ったかぶりの懐疑論」として後述する。(14)
 厚生については現代功利主義でも快楽説と知悉選好説があるが、本書では功利主義内の論争には中立の立場を取る。(14-15)ただ、古典的快楽説に説得力があると考えている。(15)
 ある種の分配状況では、両者が別の分配を支持することもあるが、本書の関心は両者が一致するケースにある。たとえば、先のAとBの事例でAの方が水に強い選好をもちかつより多くの幸福を得るということは合理的だろう。(16)
 ところで、仮設的事例を用いた個人間厚生比較には、正しい方法と間違った方法がある。間違った方法とは、現実味のない「規約的」な個人間比較である。たとえば、AがBよりも乏しい資源しかもたないのに厚生レベルが高い事例を想定してみよう、という仮想的な「規約」に基づく事例が用いられることがある。だが、それは直観を誤らせることがある。そうした事例はしばしば資源平等論と厚生平等論の論争でも用いられている。
 有名な事例が、ノージックが功利主義を批判する際に持ち出す「功利性のモンスター」である。ノージックは、「どんなに他者が失うとしてもその犠牲から莫大な量を得る」というモンスターのような人がいた場合、功利主義は、我々すべてがこのモンスターの犠牲になることを要求するだろう、と述べる。このようなことは本当はありえないのだが、権利ベース理論が功利主義に対して優位性をもつということを説得するためのテストとして用いられている。つまり、この事例は功利主義には説得力がないという判断を支持するために用いられているが、普通我々は、ある人のために多くの人が無制限の犠牲を払うことは、厚生の集計においてもドラスティックな削減になる、と思うだろう。ここで、権利ベース理論のほうが功利主義よりも直観に合致するという我々の道徳的直観は、はたして「規約的」個人間比較にだけ反応しているのか、事実が示唆するような逆の個人間比較(多数者の厚生の莫大な削減)に反応しているのか。これは実はよく分からない。功利性のモンスター事例は、功利主義の直観的アピールにいったん乗っ取られた(commandeer)後に、この同じ直観を功利主義自体に向けているのではないか。
 もちろん、功利性モンスター事例について、それが恐ろしいのはただ権利を侵害するからであって、厚生の莫大な削減を示しているからではまったくない、と思う人もいるかもしれない。しかし、この事例には、功利主義的直観を喚起しつつ、それを功利主義に対して向けさせているという可能性があり、それゆえこの事例は、やはり功利主義に対する権利論の優位を示すためのテストに用いるのは公平ではないだろう。こうした個人間比較を使わない方がよい。先述したWiseacreについても同じことが言える。渇きで死にそうな人が、ほとんど喉が渇いていない人よりも一杯の水から得る厚生は少ない、などという事例が実際に存在するのだろうか〔存在しないだろう〕。(16-20)
 とはいえ、仮想的な設定が使えるような場合もある。それは説得力のある個人間比較を得るためである。仮想的な設定にはつねに警戒する必要はあるが、説得力のある設定はわれわれの直観に焦点を当てる。(20-22)

Ⅲ Disability and Welfare

 障害とは何か、という問いに対して確定的な定義を与えることは難しい。たとえば、ADAでは「障害」を「身体的ないし精神的な損傷であり、それが一つあるいは複数の主要な生活活動を実質的に制約するもの」としている。この定義では、苦痛は機能を損傷しない限り障害ではないということになる。じっさいコーエンはドゥオーキンの理論で、補償の対象になる障害のなかに「苦痛」が含まれていないことを指摘して批判している。
 本書では、障害を、それが厚生にネガティブな影響を与えるがゆえに障害であると考える。したがって、本書の主題は「障害」そのものであるというより、厚生を削減すると予想される健康関連状態だ、ということになる。そこには、狭い意味での障害と、苦痛、病気そして怪我も含まれる。(23)
 分配的正義論では、障害者は非障害者よりも少ない厚生しか経験していないと想定されている。しかしそれは障害によるし、同じ障害についても人による。聾が典型である。聾者のなかには、聾は障害ではなく文化だと言う人もいれば、障害でしかないという人もいる。障害の厚生に対する影響については、心理学研究で主観的福祉あるいはQOL等などの用語による蓄積がある。(24-25)
 身体障害について、脊髄損傷の人に対する研究では、平均的に厚生は低いが、多くの人が思っているほどではないとされている。それは「快楽主義的適応」として解釈されている。(25)脊髄損傷のように状態が固定した障害についてはそれはありうる。他方、多発性硬化症のような場合には異なるだろう(25-30)。
 情緒障害(emotional disability)、たとえば鬱等の場合はどうか。鬱は厚生を大きく削減するという心理学の研究がある。他方、統合失調症はそれほどでもないと言われている(30)。
 知的障害はどうか。知的障害と情緒障害はしばしば精神障害と一括りにされているが、厚生に対する影響の観点からは異なる。知的障害は厚生に大きな影響を与えない。他方、知的障害になることよりも鬱等々の方がマシだ、と言う人〔健常者〕が存在することは確認しておこう。(31-32)

Ⅳ Utilitarianism and Distribution to the Disabled

・最大の利益基準

 功利主義の分配原理の第一レベルは、その資源から最大の利益を得る人々に資源を分配するというものであり、ここで「利益」は厚生の増大として理解される。コストベネフィット分析は功利主義にとって有用でありうるが、功利主義と混同されるべきではない。(33-34)

・境界問題

 いかなる分配理論も境界問題に直面する。誰を理論の利益主体とみなすべきかという問題である。境界問題には大きく二つある。国境を超えてその射程は拡がるのか、種を超えて拡がるのか。功利主義の普遍主義的な傾向は論理的に必然的ではない。境界問題が提起する問題は、道徳性は我々に不偏的視点を採用するよう要求するのか否か、という問題である。とはいえ本書の課題にとって、国境や種を跨いだ功利主義理論の適用問題について深く取り組む必要はない。(35-37)

・障害の回復

 もし資源が障害の治療ないし改善に使えるなら、障害者はその資源からより大量の厚生を得るだろう。この想定は、障害は人々の厚生を障害がない場合よりも低下させるだろう、という見方のなかに含意されている。ただ、車椅子やその他の物理的環境の改変もまた、厚生を実質的に増大させることができる。
 障害者や障害者の権利擁護派は、障害はそれ自体として厚生を削減しないと信じている。むしろ障害者に対する社会的処遇が厚生を削減するのだ、と。功利主義はこの見解をある程度は受け容れることができる。問題は、障害そのものであれ社会的処遇によってであれ、厚生が削減されてきたということであり、厚生は様々な支援(assistance)によって増大されうるということである。
 障害を改善するために用いられる資源が障害者に多大な利益を与える限り、功利主義は、障害者に対する資源再分配を支持するだろう。(37) もちろんそれは、他の人々の厚生の増減の程度との兼ね合いではあるが。もしコストがあまりに多く、そこから期待される利益があまりに少ない場合、功利主義は障害者のための再分配を中止することを要求し、別のところに回すだろう。厚生の平等主義では、こうした判断を下すことはできない。
 広く厚生を害すると思われる障害が病気である。(38)病気はしばしば厚生を大きく削減するので、功利主義は国民健康保険制度を支持する。(39)

・非医学的消費の限界効用の逓減

 貧困者は平均的に金持ちよりも追加的な金からより多くの利益を得るがゆえに、功利主義者はつねに富裕者から貧困者への一定の再分配を支持する。(39)
 障害者が非障害者よりも追加的資源から多くの利益を得る理由について、広く採用されている説得力のある理由は、第一に、障害者は障害を改善するためにその資源を使うだろうというものであり、第二に、障害を改善するために自前の資源を使うと、その後に障害者に残されるのはわずかな資源になってしまうからだ、というものである。(40)

・障害者を支援することが非障害者にもたらす利益

 非障害者もいつかは障害をもつ可能性があるし、インクルーシブな社会に住むことの利益がある、等。(40)〔後は省略〕

・功利主義が障害者に少なくしか分配しない場合

 功利主義は、障害者に過少な分配しかしない資源主義と、過剰な分配をしてしまう厚生主義の間の黄金率であると思えるが、それでも功利主義が、重度障害者は資源から利益をあまり得ないという理由で障害者への資源分配を少なくする場合もあるかもしれない。それでは不公平だという批判がある。
 この批判の典型は、センによるものであり、スキャンロンやエルスター、ローマー、フローベイ、ビッケンバッハにもそれは共有されている。だがこれらは、障害者が非障害者よりも追加的資源から少なくしか利益を得ないような状況についての誤解に基づいている。また、仮にそうした状況が稀にあるとして、その場合、障害者に少ない資源しか配分されることが不公平であるとは思えない。(41)

・低い厚生は、資源から得られる限界厚生(marginal welfare)の低さを含意しない

 功利主義を批判する平等主義は、しばしば身体障害者は非障害者よりも資源から少なくしか利益を得ない、ということを示唆している。(41)だがこの想定の中で、平等主義者は、低い厚生は、資源からの低い限界厚生を含意するという間違った想定をしている。(41-42)
 センは、『不平等の経済学』において、障害をもつBと非障害者Aについて、BはAよりも同じ所得から得る効用が二分の一であるという事例を挙げ、両者が所得に対する下り坂の限界効用曲線をもつとして、Bの限界効用はAの二分の一であるとする。そして、功利主義は、その目的――同じ資源でより多くの厚生を達成する――からして、同じ資源から二倍の効用を得るAの方に、彼はBよりも金持ちであるにもかかわらず、資源を分配することになると批判している。
 センの事例で、Bの障害は二つの想定を支持するために用いられていることが重要である。第一に、AとBが同じ所得である場合、BはつねにAよりも少ない厚生しか得られないという想定。第二に、両者が同じ所得であるとき、同量の追加的な資源から、Bはつねに少ない厚生しか引き出せないという想定である。この第二の想定は、資源から得られる低い限界厚生についての想定であり、功利主義的分配分析にとって直接関係のあるものである。センの事例の誤謬は、それがあまりに簡単に、低い厚生についての第一の想定から、第二のもっともらしくない想定に横滑りしている点にある。(42)
 センと同じくAとBが同じ所得をもち、それが基本的ニーズを満たすに十分だとする。そして、残りの所得は、Bにとって車椅子を買うに足るものだとする。ここで、Bが車椅子を買って移動できるということから引き出す利益は、Aが同じ所得から引き出す利益よりも大きいだろう、と容易に想定できる。ここで、BはAよりも同じ所得から得る厚生は少ないとしても、BはAよりも、彼の自由にできる所得から低い限界厚生を得るわけではないだろう。Bの残りの収入から得る厚生は、Aのそれよりも高いだろう。車椅子に所得の一部を使った後のBの非医学的消費に対する所得は、Aのそれよりも少ないだろう。したがってBはさらなる追加的所得から限界厚生を、より多く得るだろう。(43)
 あるいは、Bの車椅子が政府から供給されるとすると、その分の所得をBは他のことに使える。BもAも、残りの所得を音楽鑑賞に費やすとする。どちらが音楽を聴くという経験から多くの利益を得るだろうか? 歩ける人の方が音楽から多くの利益を得る、などという見解に説得力はないだろう。(43)
 センによる、Bが身体障害であるという規約は、BのほうがAよりも少ない厚生しか得ないと思わせるが、Bの障害は、Bが資源から得る限界厚生も低いと信じる理由を、いささかもも与えない。むしろその反対である。Bが障害をもちAはそうではないとして、Bは資源を使って障害を改善するがゆえに、そしてそれに使わずに済んだ所得を残しておけるため、Aよりも多くの厚生を得るだろうと考えることは合理的である。(43-44)
 センの議論では「ハンディキャップを負っている」という表現が、所得を効用に変換する能力の削減、という意味で使われている。もしそうならば、彼の功利主義批判は正しい。しかしセンの用語法では、身体障害について、その身体的ハンディキャップを理由に、所得を効用に変換することにおいても「ハンディキャップを負っている」人だ、という間違った印象を与えられる。(44)
 だが、障害をもつBのほうが、同じ追加的所得を車椅子に使うことで、Aよりも多くの厚生を得るだろうと思える。この場合、所得を効用に変換することについて比較したとき、「ハンディキャップを負っている」のはAかBかといえば、逆説的だがむしろそれは健康なAのほうだろう。(44-45)

・抑鬱

 平等主義理論が不注意に想定しているのには反して、身体障害は資源から得る限界厚生が少ないとは言えない。しかし、情緒障害についてはそう言えるかもしれない。ただ、事態は少し込み入ってくるとはいえ、先に見たのと同じことがたとえば抑鬱についても言える。
 鬱はたしかに、他の多くの身体障害よりも厚生の低水準を含意する。では、鬱の人の限界厚生もつねに低いと言えるだろうか。むしろ、増大についても低減についても固定していると考えられるのではないか。(45)
 この見解は心理学者には共有されておらず、悪い出来事は鬱の人をより悪い状態にすると言われている。ただ、明確な答えはないので、鬱の人はそうでない人よりも限界厚生が低いと想定するのは性急だろう。(45-6)
 いずれにしても、薬等の資源から限界厚生を得ることは示唆されている。

・障害による少ない利益

 少ない厚生が、資源から得られる限界厚生の少なさを必然的に含意する、という見解の誤謬を除去するのは重要だ。しばしば障害者は非障害者よりも資源から得られる限界厚生が少ないと考えられてきたが、その場合、特定の資源が想定されている。対麻痺患者がお金から得る利益が少ないとは考えられないが、自転車から得る利益は明らかに少ないだろう。(46) したがってその人が、その自転車という特定の資源の配分から排除(差別)されるとして、それが不公正であるとは誰も思わないだろう。(47)

・同じ利益、より大きな費用

 障害者と非障害者が同じ利益を獲得するために、障害者により費用がかかるとしたらどうか。もし障害者が資源を効用に変換する効率性が低いとすれば、その場合、功利主義は障害者に分配しないだろう。そしてそれは不公平だという批判がよくある。(48)
 この問題を考えるために仮設的事例を設定する。

 第一に、社会成員が全員ある病気をもっており、それは一年に12日間だけ深刻な苦痛をもたらす。それを軽減する薬が効き易い人々と効き難い人々がいる。だが、この社会は貧しいため、医療資源にかけられる財源は上限がある。薬が効き難い人々の1時間の苦痛を除去するための資源で、薬が効く人の10日間(×24時間)の苦痛を除去できるとする。240倍のコストがかかるが、資源の制約により二者択一である。薬が効き難い人一人の苦痛を除去する量で、薬が効き易い人の同じ苦痛を、240人分除去できる。この場合、功利主義は、薬が効き難い人――より深刻な障害者――への分配を指示しない。(48-50)

 他方、同じ状況でしかし資源に余裕のある社会ではどうか。薬が効き難い人の12日分の苦痛を除去し、かつ効き易い人の苦痛も除去することができる場合、先の社会とは異なり、すべての人の苦痛を除去する政策が厚生最大化になると思えるのではないか。なぜなら、先の社会のように節約したとして、その節約した資源を別の目的に使うとして、人々により大きな利益を与えるとは考えられないからである。深刻な苦痛を除去することよりも大きな利益は考えにくい。(50-51)

 では、特別教育で一対一の支援が必要な場合を考えよう。アメリカのような裕福な社会の場合、それによって他の子どもの教育資源が枯渇させられるわけではない以上、特別教育に多くの資源を使い過ぎだとは思えない。(51-2)
 貧困な社会ではたしかに事情が異なるだろう。その場合、功利主義的な立場からは特別教育を正当化しえないかもしれない。一人の障害児に一対一の支援を付けるのと、20人の非障害児に教師を付ける政策が二者択一の場合には、後者が支持されるだろう。
 功利主義批判者は、裕福な社会での例を考えながら、それを貧困な社会のケースと混同している。障害者に利益を与えるのにより多くの費用がかかるとして、そのことだけで功利主義者はその利益を否定する、と考えられているとすればそれは間違いである。(53-4)

Ⅴ Egalitarianism and Distribution to the Disabled

 平等主義には資源主義と厚生主義以外にも様々な種類があるのでそれを見ておこう。平等主義者自身の区別ではないが、大きく三つ区別できる。第一に、極端な立場、第二に、一見もっともらしいが障害者を扱うと説得力を失う立場、第三に、障害者を扱ってももっともらしさを失わないが功利主義とある程度一致する立場である。(55-6)

・極端な平等主義

 平等主義が極端になりうる方向性は、レベリングダウン反論を通して確認できる。もう一つ、物質的財の分配に限定せず、身体の一部も含めるような平等主義も極端なものになりうる。ラリー・テムキンは、純粋な平等主義理論は二つの健康な眼球を持つ人はその一つを盲目の人々に分配するように要求するだろう、と示唆している。テムキン自身はこれを誤りだとしているが、その理由は、自由や効用といった他の重要な価値があるからだと述べている。(57)
 平等主義がつねにそうした立場になるわけではないし、そうなるべきだというわけでもない。ただ、しばしば障害者の問題を扱う際に、平等主義理論は自らの主張から距離を取らざるを得なくなる、ということは言える。
 レベリングダウン反論は功利主義にとっては問題にならない。功利主義への反論は、功利主義は致命的でない身体の一部の再分配を要求しうるのではないか、と言う。これは功利主義にとっても問題であるが、同じく平等主義にとっても問題である。功利主義の応答は、腎臓や眼球の分配を認めると、人々の甚大な不安を生じさせ、人々はそれを避けるために様々な努力をし、結局厚生最大化にならない、というものである。功利主義はこうした長期的帰結を考慮する。平等主義者はこうした帰結を考慮することはできない。(58)
 また、さらなる反論は、致命的な臓器でも再分配に賛成するのではないかというものである。これはたしかに功利主義にとって問題だが、平等主義にとっても問題である。(59)
 ただ、本書で扱う平等主義は人体の一部の再分配を支持しないタイプの議論である。最も極端な平等主義は、マキシミン平等主義であり、それは物質的資源の分配に議論を限定し、マキシミン厚生平等主義は、物質的財を最不遇者の厚生レベルが最大化されるところまで分配する。
 近年、「平等主義」は、「レベルダウン」を許容する立場、つまり最不遇者の状況を改善することなく厚遇者の厚生を低下させる立場、あるいはすべての人の厚生を平等のために低下させる立場だけを指して使われることもあるが、本書ではこの用法を採用しない。この立場は、ほとんどの議論で拒否されているからである。(59)

・穏当な平等主義(60~省略)

・資源平等論と障害者(63~省略)

・厚生平等論と障害者(75~省略)

 機会と責任は厚生平等主義にとって重要だが、これらの概念は、非常に低レベルの厚生しか得られないような障害者に対して、厚生平等主義が無制限の再分配を行うことを避けるのには役立たない。(76)

・厚生平等主義の再分配の程度(76~)

 厚生平等主義は、様々な仕方で過剰な再分配を避けようとしているが、それを見る前に多くの国で採用されている障害者に対する再分配について概観する。それらは厚生平等主義の体系内にも位置づけることができる。それは大きく三つある。
 第一に無条件の収入ないし富の再分配。第二に、医療の再分配。第三に環境的な再分配。
 厚生の平等の下で再分配を制約する根拠は四つある。第一に「飽和」、第二に「反生産性」、第三に「厚生の平等」、第四に「同情」。
 第一のものはそれ以上の資源分配が厚生になんら影響を与えないところで、分配が停止するということである。(77-8)ただ、どんなに少ない金でも少しは厚生を増加させる可能性があるとすれば、飽和は再分配を制約するものではなくなる。ロールズの格差原理のように、一定量以上の分配がかえって事後の分配のための生産性を下げてしまうと言えるようなポイントがあるかもしれない。(79)しかし、反生産性は資源平等主義のようには厚生平等主義には効かない。厚生平等主義では、再分配のための課税は極端に高まって、非障害者のほとんどあるいはすべてが貧困に陥るまでに至りうる。
 第三の制約は厚生の平等である。(79)ただ、しばしば言われることだが、障害やある種の苦痛は補償不可能(uncompensable)であると思われる。(80)実際に苦痛を被っている人々は存在しているが、それに対する適切な補償になる量の資源がどれくらいかを考えることができるとは思えない。おそらくそのような状況が補償可能だと思う人はいないだろう。
 ただ、厚生の平等主義の体系では非障害者は僅かな資源も持っている必要はないので、補償に足るという意味ではなく非障害者を貧窮させることで厚生の平等を達成する道はある。これはレベリングダウンとは異なり、障害者の厚生を増加させている。(80-1)
 とはいえ、この厚生の平等を受け入れられるだろうか。これでは極端な平等主義と区別できなくなるだろう。また、中間地帯にいる人々、非障害者で貧困な人々が存在するとすると、その人々は非障害者で裕福な人々と比べて平等ではなくなる、と言われるだろう〔それによって再分配が停止する線が引かれるかもしれない〕。だが、とすれば、厚生の平等主義が穏当なのは、非障害者の貧者に依存していることになる。もし非障害者の貧者がいなければ、極端な平等主義になるからである。(81)
 最後は障害者が非障害者の貧者に同情をするケースである。だがこれは、障害者がむしろ功利主義的な最大の利益基準を内面化していることを前提にしていることになるだろう。(82)

・更なる問題

 厚生平等主義にとって更なる問題がある。誰が最低の厚生の持ち主なのか。いつ厚生の平等を達成すればよいのか。人生全体アプローチを採用すると、現在最も苦痛を被っている人を無視することになるが、同時点アプローチを採ると、いま苦痛を被る人に莫大な資源が投入され、将来的な利益は少なくなるだろう。(82-3)
 最低の厚生の持ち主、たとえば、終末期のガン患者で緩和不能な激痛を被っている若い人を想定してみよう。(83) 厚生平等主義では、その人に対する再分配が甚大なものになるだろう。(84-86) したがって、功利性のモンスターの住処は功利主義にあるのではなく、むしろ厚生の平等主義にある。(87)厚生平等主義のもとでは、最低の人は他者の資源に対して莫大な要求ができる。この主張は説得力のない規約に基づくのではない。(87-8) 厚生の平等主義は最不遇者を功利性のモンスターへと変えてしまう。(88)

・厚生平等主義と幸福な障害者

 資源平等主義からの厚生の平等主義批判の一般的なものは、満足した幸福な障害者を扱えないというものである。(89)満足した幸福な障害者の事例は公正の平等主義にとっては問題だが功利主義にとっては問題にならない。功利主義は現に人がどの程度の厚生をもっているかではなく、どの程度厚生が上昇しうるかに関心をもつからである。(89-90)幼少期にポリオにかかった有名なバイオリニスト、イツァーク・パールマンが現にどれくらいの厚生をもっているかにかかわらず、より簡単に移動できるという利益は大きなものだと言える。功利主義者は、分配政策が障害を治療ないし実質的に改善するとすれば、仮想的に(virtually)あらゆる障害者が厚生の増加を経験するだろうという確信をもつことができる。(90)
 資源平等主義は障害者にはあまりに少なくしか与えないし、厚生平等主義は障害者にあまりに多く与え過ぎてしまう。徹底した厚生平等主義は、最不遇ではないと考えられる障害者にとって、非障害者の貧者と同様、きわめて不利である。また、人生全体にわたって得られる資源の平等化を目指す資源平等主義は、障害者にあまりに多く与えてしまう。これらはいずれも、平等主義が相対的(比較的)利益に鈍感であるために、様々な階層に対して、不適切な再分配をするか過剰な再分配をするかのいずれかの間で揺れ動いている様を示す好例である。(91)
 資源平等主義も厚生平等主義も、彼らが利益を与える集団の外部の人々を、その集団を援助するための手段としてしかみなしていない。それに対して、功利主義は、すべての人(少なくともすべての人の厚生を)単に手段としてではなく目的それ自体として扱う。(91)

・限界平等主義(Marginal Egalitarianism)

 ダグラス・ラエの語で「限界平等主義」という立場がある。限界平等主義は我々に、所与の時点で再分配のために使える資源があるならばどんなものであれ、平等に分配するように、と指示する立場である。
 二人の人に分配するためにここに二ドルあるとする。大富豪とホームレスがいる。功利主義、資源平等主義、厚生平等主義のすべての理論は、二ドルをすべてホームレスに与えて大富豪には何も与えないように指示するだろう。それに対して、限界平等主義は、一ドルをそれぞれに与えるように指示する。
 これは実質的には限界資源平等主義と呼んだ方がよい。理論的には限界「厚生」平等主義も想定できるが、それには説得力がない。限界厚生平等主義は、先のような場合、金持ちに多くの金を与えて貧者には与えないようにと指示する。なぜなら、貧者は、僅かな金でも厚生を向上させることができるからだとされる。それに対して、限界資源平等主義は、先の大富豪とホームレスのような事例でも、いくらかは説得力をもつ。だがそれは、見ていくように功利主義に近い立場だと言える。(92-3)
 苦痛を被る二人の患者がいる。Aは一日15時間の苦痛、Bは20時間の苦痛である。ここに二錠の薬があり、それは、二人から、程度は異なるが部分的に苦痛を取り除く。そして、仮想的ではあるが、永久に供給されるとする。Aが一錠受け取ると一日10時間の苦痛を除去される。彼が二錠飲むと加えて30分の苦痛から逃れられる。Bが一錠飲むと一時間しか除去されない。二錠飲むとさらに一時間苦痛が除去される。
 厚生平等主義は二錠ともBに与えるだろう。功利主義はそれぞれに一錠ずつ与えるだろう。限界平等主義がこの事例に出す答えは、功利主義と同じである。(93)
 限界平等主義も資源平等主義と同様、誰も何も所有していない仮想的状況を想定し、無所有の資源を平等に分配することを要求する点では似ている。(94)
 これに一定の説得力があるのは、分配されるものは何でも平等に分割するという立場が非常に簡単な方法だからであるか、あるいはリバタリアン的な直観に訴えているからだろう。すべての人が現に持っているものに権限があると想定されるならば、分配についての意思決定を下す際に、現に存在している資源保有パターンを無視できるからである。
 この立場は分配的正義論ではなくバイオエシックスでは支配的である。(94)

・平等主義的コミットメントの緊張

 シンガー『実践の倫理』における地震後のトリアージの例が有用だ。

 Aは片足を失い、いまもう一方のつま先も失いつつある。他方、Bは他の怪我は軽いが、片足を大きく怪我しており、治療すれば足を救うことができる。いま医療資源は一人しか治療する余裕がない。どちらを治療すべきか。

 仮に他方がすでにより深刻な状況にあるとしても、同じ資源からより大きな利益を得ることができる人、つまりBではないか。もしそう思うとすれば、それは厚生の平等主義ではなく功利主義を採用していることになる。(95)
 この事例を、資源平等主義にも適用できるようにしよう。Aは明らかに貧困であり、Bは大金持ちである。多くの人々は、それでもBに医療資源を配分すべきだと考えるのではないか。BがAよりもすでに多くの厚生を得ており、かつ資源を多くもっているとしても。(95-6)
 資源平等論はトリアージ事例に理論を採用することを嫌がる。だが、とすれば、資源平等論はトリアージのような事例については何も言えない理論であるのか、あるいは事例に応じて別の理論を採用しているのかいずれかだ、ということになる。この事例では、限界平等論のように資源を分割することはできないが、ここで仮に分割できたとして、その場合、Aはつま先の半分を失い、Bは足の半分を失うというふうに例を変えてもよい。このケースでも、多くの人はBにすべての資源を投入することを選ぶのではないか。(97)
 平等主義による功利主義批判は、功利主義は人々にあまりに過大な要求をする、と主張する。ネーゲルの批判が典型的である。たしかに、〈あなたよりも恵まれた人のために利益を失ったり犠牲になるより、あなたよりも不遇の人のために犠牲になること〉を受け入れる方が、感覚的には簡単ではあるかもしれない。功利主義も、より大きな利益を得るため、あるいは大きな犠牲を避けるために、より恵まれた人のための犠牲になるように、不遇者に要求しているだけではない。(98)
 シンガーのケースで、我々はBのためにAに治療を諦めるようにさせるのが簡単だと考えるだろうか。あるいは、AのためにBに諦めるように要求するほうが簡単だと考えるだろうか。いずれにしても、治療を諦めるように要求するのは簡単ではない。しかし犠牲の「比較的」な簡単さと困難さについては明らかだと思える。
 ネーゲルの議論は一般的に真ではない。一見したところ説得力があるのは、むしろ功利主義に一致するからであると言える。往々にして、あなたよりも不遇な人はあなたの犠牲からより大きな利益を得る、と。(98)

・最大限に要求する理論

 功利主義も平等主義も、ほとんどの場合、分配的な目的よりも、個人がその利害を追求することを認めるが、他方で、個人に依怙贔屓を認めない。ほとんどの場合、いずれの理論も、厚遇者が不遇者に資源を与えることを要求する。しかし例外的状況では、最大限に要求する功利主義は、不遇者にその資源を厚遇者のために差し出すことを要求する場合もある。その資源が、不遇者よりも厚遇者により大きな利益を与える限りにおいて。(99-100)
 最大限に要求する平等主義と、同じく功利主義のどちらがもっともらしいだろうか。
 シンガー事例で考えよう。医療資源を第三者ではなく、AかBのいずれかがもっていたとする。この場合、功利主義は、AはBに資源を提供する道徳的義務がある、と言うだろうが、平等主義は逆だろう。(100)
 我々はいずれも説得力がないと思うだろう。地震の被害者は、自らが必要とする稀少な医療資源を諦める道徳的義務などない、と。しかし、平等主義のほうが功利主義よりも説得力がないと思える。たとえ、〔この事例のように〕人々はその資源をより多くの利益を得る他者のために諦めるべきだ、ということが間違っていることがあるとしても、〔平等主義のように〕人々はその資源をより少ない利益しか得ない他者のために諦めるべきだ、というとすればその方が確実に間違っているだろう。(101)
 依怙贔屓について、功利主義は最大限に要求すべきではないという考えに私自身は傾きつつあるが、この点は本書では措く。

Ⅵ Rawls(102-118・省略)

Ⅶ Dworkin(119-157)

 ドゥウォーキンは障害者に対する再分配問題に対して非功利主義的かつ直観に訴える解決案、つまり仮設的保険市場論を提示した。(119)
 だが、ドゥウォーキンの仮設的保険論は、実際には功利主義の一形態である――最も魅力的な形態ではないのだが。以下、第一に、仮設的保険市場論が、功利主義に似て最大利益基準を使っていることを示す。次に、それはハルサーニらの仮設的選択功利主義の一種だと考えられうることを示す。その上で、仮設的保険市場は、それが功利主義的判断の助けを得た個人間厚生比較を行うための厳密な装置でない限り、説得力はないと論ずる。そして、仮設的保険市場はドゥウォーキンの平等主義理論に安定した基盤を提供していないと論ずる。(119-120)

・仮設的保険と最大利益基準――ドゥウォーキン理論の基礎

 ドゥウォーキンの仮設的保険市場論の説明。(省略)
 ドゥウォーキンは、最近この議論を保険医療領域での二つの主要な分配問題に適用し、保健医療における公正性を保持するための「賢明な保険(prudent insurance)」を提示している。人々は自分が病気や障害を被るか否かを知らないが、それが生ずる確率は知っている。この状況で、多くの人々にとって購入するのが賢明だと思われる健康保険はどんなものかを問う。(121-2) もし多くの人々が賢慮のもとで、ある種の医療をカバーする保険を買うとすれば、普遍的保険医療制度はその医療を提供すべきである。
 これはドゥウォーキンの当初のモデルよりも、さらに功利主義的である。

・仮設的保険市場とリスクへの態度

 仮設的保険市場論の直観的な利点は、厚生の平等と、厳格な物質的資源平等論のちょうど中間の立場を採る点にあると言える。ドゥウォーキンが述べるように、厚生の平等は理論的に重度障害者に無制限の再分配を要求しうる。他方、厳格なイニシャル資源の平等は、障害者にいかなる補償も与えないことがありうる。(122)
 とはいえ、実はドゥウォーキンの仮設的保険市場が両者の間の地位を保つことができるかどうかは、それほど自明ではない。仮設的保険購入者がリスクに対して極端な態度を採るとすれば、この想定は、単純な平等主義の一種になるからだ。(123)
 仮にロールズ正義論でのマキシミンルール、つまり「リスク嫌悪的」な態度を採用すると、起こりうべき最悪の結果を、その反作用がどうあれ、できる限り良いモノにすることが要請されるだろう。
 ドゥウォーキンの仮設的保険市場ですべての人がマキシミン基準を採用すると、初発の資源のストックのすべてを、重度障害者に対して、最高レベルの補償ができるような保険を購入することに費やすだろう。マキシミンルール下では、仮設的保険市場は厚生の平等論と同じものになる。貧困な健常者は障害者よりも不遇になる。
 もちろん、それでも「無制限の」再分配を導くことはないかもしれない。(123-4)何らかの制約がありうるからである。とはいえその制約も厚生の平等主義に対する制約と同様のものであり、ドゥウォーキン自身が厚生の平等主義について指摘する問題が、仮設的保険市場論についても言える。
 仮設的保険市場内の人々がマキシマックス・ルール、つまり「リスク追求型」の態度を採るとしたところで、事態は改善しない。最善を最大化すれば、当然障害者には何の再分配もなされなくなる。それは、厳格な物質的資源平等論と同じ帰結である。(124-5)

・仮設的保険におけるより大きな利益基準と功利主義

 両者の中間として仮設的保険が設定されているとすれば、そこで人々は、「リスク中立的」な厚生の最大化に近い意思決定ルールを採用していることになる。
 このルールは、比較的利益の計算に基づいて、個人「内」の分配的決定をもたらす。マキシミンでもマキシマックスでも、〔それによって犠牲になる他の人々の有する利益は計算に入らないという意味で〕比較的利益は重要性をもたない。(125)
 それに対して、リスク中立的な仮設的保険購入者は、自らの障害という状態とその可能性に対して資源がもたらすと期待される利益が、非障害者である場合に期待される利益よりも「大きい」かどうかに基づいて意思決定を行う。仮設的保険市場論が厚生平等主義と物質的資源平等主義の中間を行く道は、このより大きな利益基準を採用する以外にありえない。(126)
 もちろん、このより大きな利益基準は、功利主義にも中道を行かせる。功利主義の分配原理は、まず第一に、障害者がその資源からより大きな利益を得る範囲内で、資源を非障害者から障害者に分配するからだ。上記のように解釈された仮設的保険市場論が期待便益に従うのに対して、功利主義は現実の利益に従うが、基本的な基準において両者は極めて近接している。(126)

・用語に関する迂回

 「リスク中立的」とか「リスク嫌悪」とか「リスク追求的」といった語を、ここでは、富(wealth)ではなく、効用ないし厚生について使っている。富についてリスク中立的だとすれば、ある量の金を確実に受け取ることと、その二倍の金を50%の確率で受け取ることは同じだという話になる。だが、厚生に関するリスク中立性は、貨幣の限界効用逓減を考慮に入れることができる。厚生に関してリスク中立的な人は、1000万ドルを確実に得ることを、2000万ドルを50%の確率で得られることよりも好むことができる。2000万ドルを受け取ることは、1000万ドルを受け取る場合の二倍の利益をもたらさないからである。
 また、ここで厚生ないし効用に関してリスクに対する態度を問題にする場合には、フォン=ノイマン・モルゲンシュテルン効用(VNM)にではなく、主観的効用を意味している。主観的効用については、リスク嫌悪的ないしリスク追求的であることがありうるが、VNM効用に関してはリスク中立的でしかありえない。VNM尺度は、諸個人のリスクを内包した選択肢に対する選好の観察によって構築されており、したがって、諸個人をその効用に関してリスク中立的にするために、効用に帰結を割り当てる。別言すれば、主観的効用についてリスク中立的だということは、その人の主観的的効用関数は彼のVNM効用関数と同一だということである。(127-8)
 ドゥウォーキンは仮設的保険市場で人々はリスクに極端な態度を採らないだろうと述べているが、それは、より大きな利益基準が用いられていることになる。(128)

・仮設的保険と、二種類の障害のある貧困な社会

 社会成員の11人のうち10人は軽い障害があり、1人は重い障害がある。誰もが治療されなければ一年に12日間、同じ程度の激痛を被る。ここには稀少な医療資源しかなく、資源Eは軽い人々の苦痛を10日間緩和するが、重い障害者の苦痛を一時間しか緩和できない。軽い人々の苦痛緩和期間は240時間なので、軽い人々を緩和することが資源的にみて240倍の効率性がある。重い人の苦痛を一時間緩和するために、軽い人々の240時間分の資源が必要になる。(128-9)
 ここで仮設的保険市場論が出す答えは功利主義者の解決方法に近似するだろう。つまり、すべての医療資源を軽い人々に供給するという方法である。
とすればドゥウォーキンの理論は平等主義ではなく最大化理論だということになるだろう。(130)

・仮設的選択功利主義

 単に似ているだけでなく、実は仮設的保険市場論は仮設的選択功利主義の一形態である。
 ドゥウォーキンの仮設的市場論はロールズの議論に似ている。だが違いは、ドゥウォーキンの仮設的保険購入者は、ロールズの正義の二原理ではなく、平均功利主義を採用するだろうという点にある。(131)ロールズは、原初状態で人々は、平均功利主義を選択するか否かを検討している。(131-2)平均功利主義はロールズによれば、二つの仮定をもっている。一つは、人々は各々が社会の現実の成員のすべてになる可能性を等しくもっているという仮定。もう一つの親-功利主義的な仮定は、期待厚生は社会の平均的厚生と同じだという仮定である。
 ロールズはこの二つの仮定を否定するが、ドゥウォーキンはこの二つを受け入れるところに非常に近づいている。リスクに対する平均的な態度は極端ではなく、リスク中立的だろうと述べているからである。
 では、ドゥウォーキンの仮設的保険市場は功利主義の一形態だろうか。それは現実の人々の厚生の最大化を目指すような伝統的な功利主義ではない。(132)
 ドゥウォーキンの仮設的保険市場から導出される分配は、現実の障害者と現実の非障害者の間で厚生を最大化するわけではない。
 とはいえ、ハルサーニとヴィックレイは仮設的な選択を含む分配図式が、一般的に功利主義だと言えると述べている。ここで両者の議論の詳細な検討はできないが、いくつかパラレルな部分がある。(以下132-5まで省略)

・個人間厚生比較のための装置としての仮設的保険

 仮設的保険と功利主義の違いは、個人間比較を含むか否かにある。ドゥウォーキンは仮設的保険は個人間比較を含まないと述べている。(135)
 ドゥウォーキンの議論も、自分が障害をもつ場合に得られる利益とそのための保険料と、自分が障害をもたない場合に支払う負担を比較している。これは個人間比較ではないか。もし仮説的保険が個人間比較を含まないとすれば、それは公正な結果をもたらさなくなるだろう。

・リスクに対する態度(省略)

・利益についての誤った予測

 自分が受ける利益について誤った予測に基づいて保険をかけない人を、ドゥウォーキンは見放すが、功利主義はそうではない。ドゥウォーキンは最近、「賢明(賢慮)」という語で、誤った予測に基づく意思決定の逸脱の危険性を弱めようとしている。(139-41)だが、「賢慮」基準はより大きな利益をもたらすところに資源を、という議論と変わらないだろう。

・調整問題とインセンティブの効果

 ドゥウォーキンと功利主義の距離は、もう一つ、分配ではなく再分配問題として問題を捉えることで明らかになるかもしれない。ドゥウォーキンは再分配のための労働を強いられる人のインセンティブを考慮に入れていないが、功利主義は考慮に入れる。
 インセンティブ非感応的な議論は、仮設的保険への反感を買うのではないか。誰もが不遇な状況をもたらしかねないからである。(142-3)
 また別の調整問題が、保険のカバーするレベルが低すぎる点からもたらされうる。それを避けるためにドゥウォーキンは、「賢慮に基づく保険」を導入する。だが、それはもはや仮設的保険の購入者が購入するレベルという基準を放棄したに等しくなる。(143-4)
 もう一つ、ワッサーマンが言うように、ドゥウォーキンの議論では、当初個々人が手持ちの資源を保険オークションにかけることにあるが、そもそも社会全体の資源をどう配分するかという問題に答えられない。(144)
 かつてドゥウォーキンはロールズの仮設的選択について、それは独立で公正を導出する議論たりえず、結局、仮設的な同意という装置を、この装置がなくても成立するような状態を作り出すために用いている、と指摘していた。これは正しいだろう。そして、同じことがドゥウォーキン自身の議論についても言える。
 つまるところ仮設的保険市場論の説得力は、そのシステムから帰結する分配意思決定が、資源はそこから最も利益を得る人に分配すべしという功利主義の原理に近いというところから得られている。(145)

・仮設的保険と功利主義に関するローマーとフローベイ

 ローマーはかつてドゥウォーキンは功利主義に近づいていると述べていたが、『分配的正義の理論』ではそれを放棄して、仮設的保険と功利主義の違いを強調している。ローマーの議論は形式的には正しいが、しかしにもかかわらず、彼の昔の洞察は妥当である。仮設的保険が説得力があるのは、その装置にではなく、それが導きだす結果にあるのであり、その結果はより大きな利益基準に基づく功利主義的な立場と同じだからである。(145-6)
 フローベイは喜ばしいことに、ドゥウォーキンは功利主義と等価だという結論に、私とは違うラインを辿って到達している。とはいえ、フローベイは、仮設的保険市場は功利主義と同じく、障害者が所得から少ない限界効用しか引き出せないとき、障害者よりも非障害者を優遇するという「反直観的結論」を生みだす、と述べている。だが、第四章で述べたように、平等主義論者は、障害者が非障害者よりも所得から引き出す限界効用が低いと誤って強調している。(146)

・資源平等vs.仮設的保険

 仮設的保険は資源平等の羨望テストと整合しない。この議論が受け容れられるならば、仮設的保険は、ドゥウォーキン理論における功利主義的要素を示していることが明らかになるだろう。(147)ドゥウォーキンの羨望テストは生来の能力や健康にも適用されるのだろうか。もし適用されるとすると、羨望テストは、ドゥウォーキン自身が述べているように、重度障害者を非障害者と同等にするに十分な物質的資源を青天井にしてしまい、彼の議論は厚生の平等論と同じ難問に直面する。(147-8)
 他方、資源に能力や健康を算入しないとすると、羨望テストは障害者にはなにも補償のない状況を許容することになる。(148)
 つまり、健康や能力を資源と考えるならば、資源平等論は過剰な再分配を要求するし、資源と考えないならば過少になる。そして、仮設的保険はこの問題に対応していない。
 ドゥウォーキンは実際には健康を資源と考えている。では、どのようにして、資源の平等が厚生の平等に陥らないように羨望テストを避けるのか。
 ドゥウォーキンは、一方で、それが青天井の分配を認めてしまうからだと述べている。だがそれはアドホックな議論でしかないだろう。
 もう一つの理由は、何らかの「正常な」力の基準が必要だが、羨望テストは羨望対象を「正常な」力基準以上のところに持っていってしまう可能性を含んでいるからだ、というものである。だが、ドゥウォーキンの議論において、障害者が非障害者に「追いつく」ための資源分配の適切なレベルを測定する尺度は羨望テストに他ならない。(148-9)
 問題は、重度障害者が非障害者と違いがなくなる程度の資源量を決定する尺度とその証明である。そして、ここにはさらに、仮設的保険購入者がどんなレベルの保険を選択するかを決定できないというテクニカルな問題もある。(149)
 羨望テストの直接的な適用を避けて、ドゥウォーキンは生来の資源と物質的資源の間に線を引く。
 批判者は、ドゥウォーキンが、彼の理論は人体の一部の強制的な移植を要求しないというドゥウォーキン自身の安易な想定を批判する。そしてそれはたしかにありうる。
 あらためてドゥウォーキンがどのように仮設的保険論に至ったかを確認しよう。彼は運を選択運と自然の運に分け、保険は自然の運を選択運にすると述べている。そしてその資源平等論では、選択運の結果には再分配はされないと述べる。(150)
 保険を購入しなかった人は、たとえば盲目になったとしても、それに対する補償を得られないと述べている。(152)
 もちろんドゥウォーキンは、何らかの事故の後には、羨望テストの尺度から見て資源平等が存在しないことを認識している。だが彼は、分配的正義論の目的にとって適切な時点は、羨望テストが実際に充足されるとき、つまり事故以前だと信じている。
 とはいえ、それは事前に保険契約をしなかった人には何も与えられないという帰結を生じさせる。それは明らかに間違いだと思える。ドゥウォーキンは障害者に適切な再分配を行う尺度として仮設的保険論を持ち出しているが、それはおかしいだろう。(152)彼はそれについて単に、〈保険市場のアイデアは、実際の世界でハンディキャップの問題に直面した時に資源平等論が採るべき方向性を、反実仮想的に導く〉と主張しているだけである。(153)
 人々は自らの選択に責任があるという原理はドゥウォーキン理論の主題である。この原理に訴えることによってしか、彼は、羨望テストはあらゆる時点で満足させられるべきだ、という主張を拒否できない。だが、人々のその選択に責任があるという原理の直観的な強さは、その選択が実際の選択であるということに強く依存していると思える。(154)
 ここで私が言いたいのは、羨望テストは公正性の尺度ではなく平等の尺度であり、仮設的保険は羨望テストよりも公正だということである。というのも、仮設的保険は功利主義と同じく、より大きな利益基準を含んでいるからである。(146)

・U語を避けるドゥウォーキンの試み〔省略〕

Ⅷ Ackerman(158-79・省略)

Ⅸ Welfarism Weighted or Unweighted?

 資源平等主義は功利主義を導入しなければいくつかの困難に直面する。自らそれを解決することはできない。それに対して、厚生平等主義はより困難は少ない。  厚生の平等主義者による、厚生の平等はそれだけでは分配原理にはなりえないという理解は、とくに障害者への再分配の文脈で一般に生ずる。そこで厚生平等主義は功利主義の要素を導入している。ただそれはほとんどの場合明白なのだが、しばしば完全に明白なものではない(180)
 厚生主義の功利主義への譲歩は二つの道がある。一つは倫理的多元主義。厚生の平等主義と功利主義を含むいくつかの分配原理を同時に主張する。もう一つは、重みづけられた厚生主義である。とくに最不遇者の厚生により重く見積もるべきだとされる。これは「優先主義」と呼ばれている。(181)

・倫理的多元主義の妥協――セン

 センの立場は機能を達成するケイパビリティの平等だが、それは一種の厚生の平等主義である。しかし、センは「集計主義的考慮」が分配的正義にとって重要だとも述べている。(181)
 障害者が低レベルの厚生にしか到達できないとして、すべての人はそのレベルに引き下げられるべきかと言えばそうではない。平等主義者にとってタフな問題は、障害者の厚生を実際にしかし僅かに向上させるために、非障害者の人々の厚生を大きく削減するのは正しいかどうか、という問題である。センが「効率性を含めた集計的考慮」を受容していることから見ると、彼はこれには同意しないだろうと推察できる。だが彼自身は功利主義に至る最後のステップを踏んでいない。(182)

・G・A・コーエン

 コーエンの分配的原理の核心は利益へのアクセスの平等であり、ある種の厚生の平等主義である。コーエンは平等を制約する一つの価値は「集計的な厚生を高く保つこと」だと述べている。だが彼が実際にこの価値についてどの程度同意しているのかは明確ではない。(182)
 コーエンは障害者が同じレベルの厚生を達成するためのにより多い資源が必要だという仮説を立てている。「彼らは通常の比率の二倍必要としている。なぜならその半分は彼らが被るハンディキャップの悪影響を打ち勝つために必要だからだ。その半分は腎臓透析のコストになりうる」。腎臓病で追加的資源を生きるために必要としている障害の被害者に関してコーエンは、反対論があると述べ、「腎臓病の人に対するコストをかけて集計的な厚生を保つことは、何かをより平等に分配する方法ではない」と述べている。
 だがこれは、集計的な厚生を高く保つことの価値が平等に反することを示す事例だろうか。腎臓透析にかかるコストは高いが、腎臓透析がもたらす利益は極めて高い。富裕な社会では、功利主義が人工透析に資金を割くことに反対すると信じることはできない。(183)
 集計的厚生を高く保つことの価値が、平等の価値を制約しうる事例は、障害者に対して非常に高価な医学的処置が提供されず、その代わりに、非常にわずかな利益しか提供されないような場合だろう。コーエンもセンと同じく、この場合、障害者に対する厚生-非効率的な資源移転を擁護しないだろう。だが、センと同じく、コーエンはその立場を明確にしていない。(184)

・ノーマン・ダニエルズ

 ダニエルズは、ロールズにインスパイアされているが、実際の彼自身の理論はロールズのような資源平等主義よりもむしろ倫理的多元主義的な厚生平等論に近い。ダニエルズは病気や障害は「正常な種の機能」を毀損するがゆえに道徳的関心の対象になるという。(184)
 それは機会の範囲を大きく削減するがゆえに、保健医療資源の配分に高い優先性があるとされる。これは低い機会を優先する原理(Low Opportunity Priority Principle:LOPP)と呼べる。(185)
 これには、極端な、そして反パレート的な含意がある。極めて少ない改善しか見込めない場合にも、社会は最も重度の人の治療に優先度を与えるだろう。(185)
 この帰結をダニエルズはいくつかの方法で避けようとしている。社会はこのような人に分配するか、劇的な改善を行える人に分配するかを決める必要があると述べているし、また「一般に」とか「かなり〔公平にfairly〕大ざっぱな尺度」といった言葉を使っているところもある。そしてより重要なことは、LOPPとは反対の別の原理、「熟慮を経たライフスパン説(Prudential Lifespan Account)」を導入する。(186)
 これはドゥオーキンの「熟慮を経た保険」テストに重なるものだが、ダニエルズの原理の方が功利主義により近い。センの「集計的考量」が彼の「ケイパビリティ」空間における平等主義に反して作動するのと同じく、ダニエルズの「熟慮を経たライフスパン説」はそのLOPPのもつ説得力のない平等主義に反して作動する。(186)

・マーサ・ヌスバウム

 ヌスバウムはセンと同じく「ケイパビリティ」を使うが、10個の「中心的なケイパビリティ」リストを提示する。
 だが、これらの間のトレードオフが問題になるだろう。ヌスバウム自身は何も述べていないが、とくに病気や障害については社会資源はこのケイパビリティリストのうちの一つないし少数を実現するために提供されるからだ。(187)
 功利主義的見地からみれば、広義の厚生平等主義者としてのヌスバウムにとっても、最不遇者に僅かな利益を与えるために、より軽微な人に莫大な利益を与えるコストを拒否するかどうかが問題になる。これは三つの問いを喚起する。(187)
 第一に、まさにこの問いにヌスバウムはどう答えるか、という問いである。それはおそらく「イエス」だろう。しかし功利主義的見地からはそれは説得力がない。(187-8)
 第二に、ケイパビリティ閾値以下の人に対して、同じく閾値以下だが少し高いレベルにある人に大きな利益を与えるのをやめて、わずかな利益を与えるのか否か。これに対する明確に答えはないが、ヌスバウムはおそらく比較的利益を考慮するだろう。とすれば、功利主義的発想を導入していることになる。(188)
 第三に、あるケイパビリティについて閾値以下の人にわずかな利益を与えるために、別のケイパビリティの閾値以下の人に莫大な利益を犠牲にするのかどうか。ヌスバウムは異なるケイパビリティ間のトレードオフの必要性を認めている。明確な基準については語らないが、そこではやはり比較的利益が考慮されていると言えるだろう。
 資源が限られた国での障害児への特別教育の事例についてヌスバウムは何も述べていないが、もし少数者への特別教育と多数者の初等教育が二者択一であれば、前者を犠牲にして後者を選択するのが妥当だろう。(189)

・優先主義の妥協

 倫理的多元主義的平等主義者は、功利主義と厚生の平等主義を別々の原理として扱うが、優先主義は両者を結びつける。優先主義は集計的厚生の最大化を目指しつつ、不遇者の厚生をより重く見積もる。
 重み付けされた厚生主義理論は様々な呼び名があるが、いずれにせよ分配理論は今や優先主義に落ち着いてきているように見える。残念ながら、優先主義を有名にした二人(パーフィットとアーネソン)の間でその意味について合意はない。(189-190)
 アーネソンは厚生最大化平等主義者は「優先主義の極端なバージョン」と両立すると考えている。だがパーフィットは、優先主義の優先性とは、「絶対的なものではない。優先主義的見解では、最不遇者の利益は厚遇者の十分に大きな利益によって道徳的に凌駕されうる」と言う。(190) ここでは、優先主義と厚生平等主義の区別を維持するためにパーフィットに従おう。厚生の最大化平等主義は、それ自体、平等主義的指令、つまり「最不遇者を助けよ」という指令に制約されうる。優先主義はこの指令を「最も利益を得る者を助けよ」という功利主義的命令に結びつける。(190)
 以下では、最不遇者の厚生を加重計算するような優先主義に対して、加重計算をしない厚生主義ないし功利主義を擁護していこう。もちろん、より厚生の少ない人の厚生を加重計算することは決して正しくない、と主張することはできない。むしろもっともらしい優先主義理論は功利主義に近接せざるを得ず、優先主義を支持する一般的な議論は見かけほど強力ではないということを示す。
 優先主義と功利主義の間でいかにして選択するか。一つはより根本的な道徳原理からいずれかが導出されるという考え方がある。ヘアは功利主義が、道徳判断普遍化可能でなければならないという原理に由来しうるのであり、また人々は平等な尊重をもって処遇されるべきだという原理から導出されうると考えている。(190)とはいえ、ここからはこの問題については何も出てこない。
 もう一つは二つの立場をより抽象的な道徳的直観に基づく判断に従属させるというやり方だ。ネーゲルはこのアプローチである。だが別の方法は、よりシンプルな理論を取り上げることであり、シンガーや他の功利主義生命倫理学者は、この根拠に基づいて功利主義が支持されるべきだと示唆している。(191)
 以下、再び仮設的事例を用いて功利主義と優先主義のコンフリクトを示す。

・シンガーの地震の事例

 事例:一人が片足を失い、いまもう一方のつま先も失いつつある。他方は他の怪我は軽いが、片足を怪我しており、治療すれば足を救うことができる。いま医療資源は一人しか治療する余裕がない。どちらを治療すべきか。(191)
 
優先主義者は、この事例は功利主義支持と優先主義反対論について何も明らかにしていないと反論するかもしれない。優先主義理論は厚遇者の利害に「いくらかの」重みを賦与する以上、資源は、厚遇な要求者がその資源から十分に大きな利益を引き出せる場合には、ときには不遇な要求者よりもむしろ厚遇な人に分配されることに必然的になるのだ、と。シンガーの事例の真の意義は、最不遇者の利益を絶対的に優先するような厚生平等主義に対する優先主義の正当性を示していることにあるのだ、と。(192)
 これにはいくらかの利点はある。たしかにこのケースは優先主義と整合性がないわけではないからだ。シンガー事例は単に、加重に上限を課す事例だとも言える。  ただ、この事例を少し変えるとそうでもなくなる。(192)

 改変(4):一人が片足を失い、いまもう一方のつま先も失いつつある。他方は他の怪我は軽いが、片足を怪我しており、治療すれば足を救うことができる。いま医療資源は一人しか治療する余裕がない。どちらを治療すべきか。この例を読んでいるあなたは、足の治療をうけるBの利益のほうが、つま先を救われるAよりもほんの僅かに大きいだろうと想定する。(193)

 基本的に例は同じだが、個人間の厚生比較(IPC)が加えられている。このIPCによって、優先主義ではなく功利主義を受け入れなければならなくなるだろう。つねに資源は大きな利益を得る人々に分配されるべきだということを承認せざるを得ないからである。ら
 たしかに、この事例の改変は濫用であるかもしれない。功利主義を支持するために濫用されうることを第二章で確認した。(193) 付加された規約は事実に反するかもしれない。(194)
 我々はシンガーの地震事例においてAとBの利益の大きな差を約定することはできない。では、次のような改変ではどうか。

 改変(5):私たちは二人の犠牲者を助けることができる。Aはほとんど片足を失っており、かつ私たちが助けなければ、もう一方の手の小指も失う。Bは他に怪我はしていないが、もし私たちが助けなければ、治療すれば手の親指を失う。

私には我々はBを助けるべきだと思える。というのも、親指を失うことでBは、小指を失うAよりも大きな被害を受けると思えるからである。もしそうだとすれば、これは優先主義の否定に近づきつつある。(194)
もし逆に、足を失ったAにとって生活上、腕と手が重要になり、手の小指を失うことがAに甚大な害を与えるとすれば、そして、Bの親指を失うという害よりも、Aの小指喪失がその生活に与える害が大きいということが分かるならば、私たちはAを助けるべきだと考えるだろう。この変化は、いずれにせよ、功利主義的アプローチになる。(195)

 改変(6): Aは足を失っておりさらに親指を失いつつある。Bは他に怪我はないが同じく親指を失いつつある。

 この事例でより不遇なAを助けるべきだと考えるだろう。ここでは、妥協なき功利主義は明確に否定され、より不遇な人を選択する何らかの平等主義が支持されているかに見える。だがそれは見かけだろう。なぜなら、Aが親指を失うことの方が、Bがそうなるよりもより大きな害をもたらすことが多いと考えるに足る理由があるからである。(196)
 第一の理由はすでに論じた。足を失った人は一般に手により多く依存するからである。また一般に、最初の不幸は次に続く不幸を、その同じ不幸が第一回目に訪れる場合よりも、よりシビアなものにすることが多い。〔もう害を被っているのだからせめてこれ以上は……という発想〕(196-7)
 第二の理由は、同じ損傷が同じ快楽主義的なダメージを意味しないという理由である。一般に、親指の喪失はBよりもAにより大きな害になると考えられる。
 貨幣の限界効用逓減と似て、更に一般的原理として、多くの人は運についても限界効用は逓減すると考えている。薄幸な人は幸運な人よりも、一般に、追加的な不運からより大きな害を被るし、逆に良い運から大きな利益を得るだろう。(197)
 もちろん、害に心理的に慣れてしまっていたり、抑鬱状態で感情が固定してしまっている人もいるかもしれない。またやはり、同じ害の大きさはそれ以前の害に違いがあっても同じだと思う人もいるかもしれない。(197)
 しかし、先の考察が描写しているのは、真に説得的に等しい利益がもたらされるような事例を構築することの困難さである。要求者の一人が不遇であるという単なる事実が含意するのは、表面的な喪失と獲得の同一性が快楽主義的に同一であるとは言えないだろうということである。ときには不遇な要求者の厚生により少ない影響しか与えない場合もある。だが往々にして、より大きな影響を与えるだろうと思われる。

・スキャンロンの苦痛除去事例

 優先主義支持論で別の議論もある。それは功利主義と優先主義の選択問題が困難だということを示している。それはスキャンロンの事例である。スキャンロンは彼の道徳性に対する契約主義アプローチがある種の優先主義に譲歩すると考えている。

スキャンロン(『What』227)の事例:一か月痛みがあるAと、二か月のBで、BではなくAを助けるべきだというのは間違っていると思える。だが、もしAを助けたとしても、五年間同じ痛みを被るが、Bは、助けなくても助けても二カ月後に痛みがなくなる場合、変わってくるのではないか。つまりAの立場から、自分を優先すべきだという主張が説得力を持ってくると思える。

 この事例で、スキャンロンは、Aには五年間同じ痛みが続くという状況を付加することで、結局Aを助けるべきだと言いたいのか、あるいは単にAの主張が強力なものになると言いたいだけなのか。これは必ずしも明確ではない。とはいえ、スキャンロンは、五年間の状況が付加された場合には、Aは一カ月の痛み無き期間からより大きな利益を得るだろう、と言っていることははっきりしている。(199)
 とはいえ、仮に一カ月間は痛みから解放されたとしても、その一カ月が後に続く苦痛に満ちた5年間の最後の安らかな一カ月にしかならないということを、この事例でA自身は知っているのだろうか。もし知っていたとすれば、誰を助けるべきかは私はよく分からないし、また、誰がより大きな利益を得るかも分からない。
 逆に、Aがそれを知らなかったとすれば、スキャンロンも示唆するように、Bが二カ月苦痛から解放される利益の方が大きいと確信できる。その状況では、私には、我々はAを助けるべきだとは思えない。
 もちろんこのような対応は、他の論者には共有されないかもしれない。だが少なくともスキャンロンはそう考えているようである。スキャンロンは五年間苦痛が続くAを一ヵ月間救うよりも、Bを二ヵ月間救う方が利益が大きいという結論に躊躇いをみせている。また彼は、我々はAを一カ月苦痛から解放するべきだという直観的な結論についても躊躇いをみせている。(200)
 これは優先主義の正当化を意図した事例に共通する力学を示している。(201)もしこの例が、我々は最不遇の要求者を助けるべきだという判断を導くために構成されているとすれば、その人が我々の援助から得る利益が本当に少ないということが完全に明らかにならない〔から〕だろう。他方、最不遇者が我々の援助から得る利益が本当に少ないということを明らかにするための事例であるとすれば、この事例はもはや我々はその人を助けるべきだという判断を要求しないだろう。
 スキャンロンは、この事例の事実が、B、つまりよりよい状態の人のほうが、Aよりも援助から得る利益が大きいだろうということを実際に示しているかどうかについては考えあぐねている。なぜ悩むのだろうか。なぜ、読者を、Bが大きな利益を得ると想定するように導いた上で、それでもAを助ける方が正しいと思えるかどうかを考えさせるようにしないのか。上記の事例はそもそも、実際にBのほうがAよりも援助から得る利益が大きいとしても、我々は不遇なAのほうを助けるのが正しいように思えるかどうかを考慮する事例なのか。結局のところ、この事例が何を例示しているのかはよく分からない。(201)

・二人の患者、12の薬

 優先主義に対して功利主義をテストさせる誤った道がもう一つある。その一つは限界効用逓減を看過することである。もう一つは限界平等主義を混合理論にへと投げ込むことで問題を混乱させるという傾向である。(201-2)
 二人の患者が持続的で深刻な苦痛を被っているとする。治療されなければ痛みが一カ月続く。我々は12錠の緩和剤をもっている。Bは一個の薬で一日二時間痛みから解放されるが、Aは一日一時間だけである。どのように提供すべきか。
 功利主義的にはBにすべての薬を提供し、24時間痛みを緩和するのが裁量だと考えられるかもしれない。さらに、我々がこの功利主義的解答を拒否するならば、優先主義のような、功利主義よりも平等主義的な、何らかの厚生理論を導入していることになると考えられるかもしれない。だがこれらの想定はいずれも必ずしも正しいわけではない。
 第一に、苦痛緩和は限界効用逓減を有している。一日10時間の苦痛期間から二時間除去するよりも、24時間の苦痛から一時間除去する方がより大きな利益があるだろう。したがって、単に苦痛緩和時間を最大化することは間違いだと考えるとしても、我々は必ずしも功利主義を拒否したことにはならない。
 第二に、この事例は優先主義に対してだけ功利主義を戦わせる事例ではなく、限界平等主義に対しても功利主義を対抗させている。第5章で見たように、限界平等主義は、つねに功利主義に反して優先主義に並走するとはかぎらない。限界平等主義が優先主義に反して功利主義と並走する事例が存在しうる。もし上記事例で、医療資源が平等に分割されるべきだと考えるとすれば、我々は功利主義よりも優先主義を必ずしも好んでいることにはならない。(202)我々は単純に限界平等主義の直観的アピールに反応しているだけかもしれない。
 第四章で、功利主義に反するバイアスをもつ貧困な障害者社会事例を想定した。この社会は別の仕方で功利主義に反するバイアスをもつ。医療資源から他社よりも少なくしか利益を受けない人々は、いかなる援助も受けないとすれば、その人々はその残りの人生を二級市民だと言われているように感じ、それは甚大な不効用の源泉となるだろう。だが、この社会には、上の患者二人対12錠の薬剤分割問題よりも、利益に関してより大きな違いがある。つまり医療資源から利益を得る人は二倍ではなく240倍の利益があるとされている。このあまりにも大きな違いは、他の検討事項を完全に流し去ってしまうに十分である。優先主義に対して功利主義をテストする際、我々は利益における甚大な違いを示すような事例を用いることはできない。我々は、利益における差異が公正に少ない事例を用いるべきであり、限界効用逓減や限界平等主義と連帯できるような検討事項に注意を払うべきである。(203)

・厚生の「分配」

 功利主義と優先主義の競争について一般的な考察に立ち返る。功利主義の批判者の多くは、功利主義は厚生の分配に関わらないのは間違いだと考える。(203)
  功利主義にとって、僅かな厚生の総計の増大は、より大きな不平等な厚生の分配を正当化できる。(203-4)だが我々は厚生の最大化と厚生の平等化の両方を考慮すべきではないか。そして場合によっては、不公平な分配で厚生の総量が大きい状態よりも、より公平な分配で厚生の総量が少ない状態を選択すべきではないか。
 このような形で問いが設定されると、功利主義を斥けているように見える。しかしこのような問いの形式は往々にして欺瞞的である。ウィリアム・シャウが述べるように、厚生それ自体は決して分配されず、分配されるのは資源である。厚生の分配について語ることは、厚生をあたかも資源であるかのように語ることである。この種の表現は、資源は限界効用逓減があるという認識を含めて資源分配についてのわれわれの道徳的直観を喚起する。(204)
 功利主義経済学者のYew-Kwang Ngは、優先主義は一般に、彼が呼ぶところの「功利性の幻想」の産物であると述べている。我々は富裕者の限界「所得」へのウェイトを軽く見積もるべきである。もし富裕者の厚生ないし効用のウェイトを軽く見積もるとすれば、我々は、実際に臨んでもいないのに二重算入(double-counting)をしていたことになる。私はNgのようにすべての平等主義が幻想や混乱の産物だとは思わないが、厚生の分配について語ることは、厚生を資源として描写することである種の「功利性の幻想」を生みだしていると考える。

・厚生の数

 厚生の分配を含む事例はしばしば、厚生レベルについての仮想的な数を含む。グリフィンが論ずるように、非現実的な数には注意すべきである。(204) たとえば、二人の人の厚生レベルが(50、50)か(100、1)かという状況で「厚生の分配」に達するために資源を分配できるということは考えがたい。さらに現実的な数でさえも、それが厚生を資源として扱い、資源についての直観を喚起するような場合にはとくに欺瞞的であると思える。さらに数を含む事例は、道徳的ではなくむしろ美学的な直観を喚起しうる。(205)
 AとB二つの社会があるとする。一つの政策は厚生の分配(30、15)を帰結し、もう一つは(10、10)を帰結する。第一の数は社会Aの階層の厚生レベル、第二はBを表現しているとする。
 この事例について私は、(30、15)の分配に傾きつつあるが、直観的には(10、10)に強くひきつけられる。この(10、10)の直観的アピールは、この数を現実に移し替えようとすると消失する。もし(10、10)の分配が個々人にもたらしうる潜在的厚生の恐ろしい喪失について考えるならば。(10、10)の直観的アピールは二つの歪曲的な要素のためだと結論する。第一に、数が現実には厚生ではなくて富を表現していると思い、それに反応したのかもしれない。すべての人が貧乏だが等しいとみをもっている社会の方が、すべての人が富んでいるが富が不平等な社会よりも幸福だと考えられる。第二に、(10、10)を道徳的理由ではなく美学的に好んだのかもしれない。もしこれらの現象が存在するならば、この事例は道徳的直観のテストとして使えない。
 個人間厚生比較が露骨な規約ではなく事実に基づいているような事例を特定することは困難であり(205)、また、厚遇者のほうが不遇者よりも資源からほんのわずかに多く厚生を得ることを説得力をもって示す事実に基づく事例を特定することも困難である。(206) したがって、功利主義と優先主義で選択することは困難である。私が功利主義アプローチに傾く理由は、功利主義から離れて平等主義に向かうような分配的意思決定がなされ、それが明らかに間違っていると思えるような事例を多く想定できるからであり、また功利主義から離れて平等主義に向かう分配がなされ、それが明らかに正しいと言えるような事例を考えられないからである。(206)

Ⅹ Intuition about Aggregation

・集計結果が正しいと思える事例

 私にとって、そして私は多くの人もそうだと信じているのだが、百人の人々を盲目や対麻痺等から救うことは、仮に別の一人の人を差し迫った死から救わないというコストをかけるとしても、明らかに正しいように思える。(209)

 私は完全な麻痺から救われることが、死から救われることよりも少ない利益しかないとはまったく信じない。(209-10) とすれば、完全な麻痺から百人の人を救い、他の一人を死から救わないという事例にしたときには、より少ない利益の集計という意味での集計の支持を必ずしも反映しているわけではない。
 他方、私は対麻痺や盲目から救われることは、死から救われることよりも少ない利益しかないと思っている。したがって、百人の人を盲目や対麻痺から救う方が、一人を死から救うよりも良いという立場は、実際に集計の支持を反映している。(210)
 多くの人を助ける方が正しいと思えるような事例、また多くの人それぞれが受け取る利益は実際に一人一人で見れば少数者のそれぞれがえる利益よりも少ないことが明白なケースは存在する。

・集計結果が間違っていると思える事例

 低コストで低利益の手術と高コストで高い利益の手術との間での医療資源の割り当ては、現実の世界で集計が行われる範例である。現実の世界では、大集団に少しの利益を与えることと小集団に大きな利益を与えることで選択しなければならないとすれば、それは一般に、少ない利益が安いからだという点を銘記しておくべきだろう。(211)
 オレゴン州ではかつて、コストベネフィット分析の結果、盲腸の手術は歯に詰め物をする手術よりも優先順位が低いとランキングが出されたことがあり、そのランキングはしかし、直観に反するとして採用されなかったことがある。では、このランキングの反直観性は、集計は原理的に間違っているという道徳的直観を反映しているのだろうか? 私はそうは考えない。この反直観性は、所与の金を歯の詰め物に使う方が盲腸の治療に使うよりも人々に大きな利益をもたらすことはありえない、という快楽主義的直観に基づいている。(211-2) 私がこのランキングを拒否するのは、そこではそもそも当初の利益の評価と集計に何らかのミスがあったに違いないと考えるからである。つまり、私がこのランキングを否定するのは、それが功利主義に整合性がないと思えるからである。集計の結果が有する反直観的な性質が、集計に反する道徳的直観を反映しているということを明確にする唯一の方法は、我々は多数者の少ない利益の集計が、少数者のより大きな利益を上回るということを信じる限りにおいてである。快楽主義的直観の判断が明白にならない限り道徳的直観の判断は明確になり得ない。
 我々のほとんどにとって、集計の結果が道徳的に誤りでありかつ集計が適切に行われたということを確信できる事例はほとんどないだろう。集計結果が間違っていると思うとき、我々は多数者の少ない利益が本当に少数者の大きな利益を合計で上回っているかどうかについて疑いたくなる。

・スキャンロンのワールドカップ事例

 ジョーンズはテレビ局の送信所で落ちてきた機械に腕を潰されてしまう。我々は、ワールドカップ中継の送信を15分間中断しなければ、その機械をジョーンズの腕からどけることができない。ワールドカップは一時間残っており、ジョーンズの怪我はそのままにしていたとして悪くなることはない。しかし機械が壊れて漏電しており、その激痛が彼を襲っている。どうすべきか。(212-213)

 これについて私はスキャンロンと同じく、W杯の中継を中断して彼をすぐに助けるべきだと考えるが、この直観的な応答は、集計が間違っているという判断を示しているとは思えない。中継が中断することで百万人のサッカーファンが被る失望が、ジョーンズの痛みを上回るとは思えないからだ。つまり集計が彼を救うことを遅らせるように導くとは思わない。
 スキャンロンは、ファンの失望がある大きさに至れば実際にジョーンズの痛みを上回るということを主張しない限り、集計の反直観性を示す事例を与えたことにはならない。(213)
 別の事例を考えよう。アラステア・ノークロスは、大多数の人々が微小な頭痛に悩まされており、その苦痛を解消するためにある一人の人間を殺すことは正しいだろうという例を出している。(213-4)
 とはいえ、この事例でもどれくらいの人の頭痛が、一人の死の反価値を上回るかを特定していない。私は65億人の、つまり地球上のすべての人の軽い頭痛が、一人の死の反価値を上回るとは思えない。この事例もまた、集計が間違っているということを示唆していない。集計が正しくなされるならば、一人の人の命を救う方に導かれるだろう。
 私には、少数者よりも多数者を救う方が正しく思われ、かつ多数者のそれぞれの利益は少数者それぞれの利益よりも少ないことを確信できるような事例を想像することはきわめて簡単である。したがって、集計するという判断が正しいと思われる事例を想定するのも簡単なことである。(214)それに対して、多数者を少数者よりも救うことが間違っていると思われ、かつそこで私は多数者の実際の利益が少数者の利益よりも大きいことを確信できるような事例を想像することはきわめて困難である。集計するという判断が間違っているような事例を想定するのはきわめて困難である。(214-5)
 任意の事例で、集計の結果が道徳的に間違いであり、かつ多数者の個々の利益が実際に少数者の個々人のそれ自体は大きい利益よりも総計で上回っていることを完全に確信できるような人もいるかもしれない。しかし、功利主義は集計を含む事例で反直観的結果を生みだすという主張をする理論家と、私の快楽主義的直観が大きく違っているとは思えない。そうした論者は、集計の結果が間違っているという主張だけでなく、集計が適切に行われたという主張をするような事例を特定することに極めて消極的に見える。

・平等主義、集計、権利

 平等主義者は往々にして集計に懐疑的である。実際には集計はしばしば平等主義者に整合的な立場に功利主義者を導く。多くの不遇な障害者と少数の厚遇な障害者がおり、資源が限られている場合、厚遇な障害者に大きなそして高価な利益を与えるか、不遇な障害者に小さなしかし安価な利益を与えるかが問題になり、多数者の小さな利益の総計が、少数者の大きな利益を上回るならば、功利主義者は多くの不遇な障害者を助けることを支持する。それはまた平等主義者の立場でもあるだろう。(215-6)
 だが、少ない利益を受け取る多数者が、多くの利益を受け取る少数者よりも厚遇である場合には、集計は功利主義を平等主義と対立する立場に導く。そしてこの場合、功利主義の方が正しいと思える。たとえば、対麻痺の患者100人を、四肢麻痺患者一人の代わりに助けるべきだということは正しいと思える。(216)
 だが、平等主義者の説得力のなさは別の集計事例で示される。多数者それぞれの利益が、少数者個々人よりも大きいとして、平等主義者は少数者が不遇であるならば、少数者を選ぶだろう。
 100人の対麻痺患者と一人の四肢麻痺者がいるとして、資源が限られており、すべての対麻痺を完全に治療するか、一人の四肢麻痺者を歩けるようにするかのいずれかだとする。厚生平等主義は、一人の方が不遇であるから一人を歩けるようにすべきだというだろう。この厚生平等主義の方向性は、仮に事例を、同数の対麻痺者と四肢麻痺者が存在するというように変えたとしても間違っていると思える。100人の対麻痺者が完全に治療されずに放置されるのは間違っていると思える。

・自由の擁護者としての集計

 集計をめぐる論点は興味深い仕方で権利をめぐる論点に結びつく。集計主義を受容するという理由で、功利主義は平等主義よりもうまく人々が持つべきだとされる権利を保護できるからである。(216) 身体の統合性に対する権利を功利主義は上手く支持できる。功利主義は重要な利害が尊重されない時に人々が感じる不安も考慮し集計に入れる。(217)純粋な平等主義は、最不遇者の利益が権利侵害から得られるような場合に、それを考慮に入れることはできない。
 一人の人間が暴力による死から救われうるならば、自由を制約する平等主義者は警察国家でも支持するだろう。もちろん功利主義も、人が暴力で死ぬことを救うことができるならば甚大な利益があると考える。だが、リチャード・タックが論ずるように、たとえば100万人の自由の喪失は、少数者の死がもたらす不効用よりも大きいと計算されるだろう。(217)
平等主義は、もし厚遇者たちが選挙権をその目的に反した形で使う場合、それを剥奪してもよし、というだろう。(217) 優先主義も、論理的には、不遇者は追加の選挙権を得られるシステムを支持するだろう。功利主義は一人に一票という制度を支持する。

・ロールズの政治的リベラリズムにおける非リベラル性と無政治性

 平等主義は功利主義よりも自由と民主主義を正当化する力において劣るが、同時に別の原理を採用して平等の追求を制約することもある。
 リベラル平等主義は、純粋な平等主義は功利主義よりも自由と民主主義を功利主義に比して擁護しにくくなることを認めるが、他方で、功利主義は、自由に基本的地位を認めないのに対して、ロールズや他のリベラル平等主義は自由に基本的地位を与えると論ずるかもしれない。
 これはしかしロールズの理論体系における自由の地位を誤解している。自由はたしかに格差原理に優越するが、原初状態での選択のためのマキシミンルールには優先しない。(218)タックが示唆するように、ロールズにおける自由の地位は他の論者が思うほど安全ではない。
 また公共理性という教義もまた非常に非リベラルな側面をもつ。共有された政治的正義の原理への同意を維持するという野望は、政治的論議を検閲するような発想を生み出すだろう。(219)
 ただ、ここでは公共の理性の非リベラル性がロールズの平等主義の結果であると主張はできない。それはむしろ、彼のユートピア的契約主義の帰結である。ロールズは真剣に、現在は構想的な政治経済領域を統べるような社会全体の正義の原理への同意を達成し維持することを希望している。他の平等主義理論家は、こんな無政治的な希望を共有していないし、したがって、政治的論議からある種の様式を排除するような非リベラルな衝動も共有していない。(219)

・非リベラルな功利主義?

 これまでたとえばロールズを含む平等主義者は功利主義がむしろ自由を犠牲にすると批判してきた。
 だが、ここには集計について、すでに述べてきたのと同じ間違いがある。たとえば宗教的少数派を迫害することで、その人々が被る苦痛を上回る快楽を迫害者が得るとは思えない。(220)

・「最大多数の最大幸福」

 功利主義は障害者へのいかなる支援も正当化する可能性をもたないと言われることがある。だがなぜか。(220)障害者は少数派であり、功利主義は「最大多数の最大幸福」を求めるからだろうか。(221)
 これまで、グリフィン、シャウ、ジェフリー・スカールなどの功利主義者はこの命題が混乱した形で不正確であることを説明するために心血を注いできた。これは功利主義を適切に代表する標語ではなく、ベンサムがこれを用いたのは一回だけであり、最終的には彼はこの語を「最大幸福」のために捨てたのである。「最大多数の最大幸福」は二つの別々の目的を示している。最大幸福と、最大者の幸福である。これらが一致する場合もあるが、異なる場合、功利主義者は最大幸福を追求する。
 ここに100人の満足した人びとにアイスクリームを与えることができるとする。
他方、50人の別の人々を酷い苦痛から救えるとする。功利主義者は明らかに50人の人々の苦痛を救えと言うだろう。

11 Distribution of Life(省略)

12 Conclusion: Philosophy and Policy(省略)