Egalitarianism: New Essays on the Nature and Value of Equality

Holtug, Nils; Lippert-rasmussen, Kasper eds. 200702 Egalitarianism: New Essays on the Nature and Value of Equality, Oxford, 352p. ISBN-10: 019929643X,ISBN-13: 978-0199296439

◇まとめ

An Introduction to Contemporary Egalitarianism
Nils Holtug
Kasper Lippert-Rasmussen

1 平等とは何か

 ネーゲル(1979)が言うような、「人々の間での道徳的平等の想定」⇒「各人は平等な重みを与えられるべき(equal weight should be given to each person)」(2)という広い意味での平等はほとんどの論者に共有されている。
 たとえば、功利主義者は人々の利害を等しく重要なものとして扱うことで、人々に平等な重みを与えている。リバタリアンはすべての人は彼ないし彼女自身と私的所有に等しい権利を持つと考える。民主主義者は人々に平等な投票権があると考えるし、保守主義者とほとんどすべての人々は、人々は法の前で平等だと考える。
 だが、これらのすべての人々が「平等主義」ではない。平等主義者は人々の間での道徳的平等の想定の「特殊なparticular」解釈を採用するからだ。すなわち、人々は、資源ないし厚生といった財の平等な分有を有するべきだと考えるか、あるいは、それらの財に対する平等なアクセスあるいはその獲得の平等な機会を持つべきだと考える。
 もちろん、平等に道具的価値を賦与する理論もある。功利主義もそうだ。だが平等主義は、平等の価値は単に他の価値を促進するところにあるとは考えない。つまり平等主義者は、平等には固有の(intrinsically)、非道具的な価値があると考える。

2 何の平等か/平等の通貨をめぐる問題(2-3)

ドゥオーキン(1981)の二つの論文を端緒とする議論。ドゥオーキンの厚生平等主義批判。
 たしかに、厚生主義は一見妥当に見える。資源は厚生を導くからこそ重要だからだ。だが、ドゥオーキンによれば厚生の平等は却下されるべきである。
 一つの理由は、高価な嗜好を含めた、人々の選択に対する責任を考慮に入れないからである。
選択に対する責任を考慮に入れた平等主義理論のあり方について、ドゥオーキンは、外的資源に対するオークションと内的資源に対する仮設的保険市場論で対応している。(4)
 とはいえ、これには多くの批判がある。スーザン・ハーレーが言うように、たしかに厚生主義は高価な嗜好と病気を区別できない。だが、ドゥオーキンの議論もまた、健康に特別な重要性を賦与することはしない。健康も他の能力と同じ内的資源とされ、他の財で補償されるモノと位置づけられる。
 別の批判は、ドゥオーキンは、責任の問題を、平等主義者は資源を採るべきかあるいは厚生を採用すべきかという問いと混同している、という批判である。たとえば、アーネソンは厚生に対する機会の平等を採用し、意図的に獲得された高価な嗜好は補償されるべきではないと論じることができる、と指摘する。(4-5)
 問題は、ある適切な時期において、人々は他のすべての人と同じ選択肢をもっていたということであり、彼らが実際にそれらの選択肢を上手く使ったかどうかではない。
 同じ問題は資源に関しても生ずる。人々は、資源の獲得ないし逸失に対する彼ら自身の責任に無関係に、資源を平等に分有すべきかどうか、あるいは、それらの資源を責任を反映させるように調整すべきかどうか、と。これは、平等主義者は厚生に関心をもつべきか資源に関心をもつべきかという問題と、それらが責任についての考察に適合されるべきかどうかという別の問題にまたがっていると言えるだろう。

3 誰の間での平等か

 「何の平等か」をめぐる問いに答えが出たとしよう。しかし平等主義者は更なる問題に直面する。誰が平等な関係性に置かれるべきか、という問題である。
 第一に、集団と個人のどちらに平等が適用されるのかという問題がある。(5)
 とはいえ集団間の平等という考えには、集団内の不平等問題がある。(6)
 また平等の理念は政治的統一体(国家)内部で適用されるのか、あるいは国家間にも適用されるのか、という問題もある。(7)
 世代間の問題、人間と動物の問題もある(8)

4 いつの平等か?

 aとbがいるとする。人生の前半はaは暮らし向きが非常に良いが、後半で非常に悪くなるとする。bは逆だとする。トータルでみると、二人の人生の暮らし向きの良さは――単純に加算できるとして――、同じだとする。これを状況Cとしよう。

T1 T2 T3 T4 total
a 9 9 1 1 20
b 1 1 9 9 20

 他方、別の世界「D」では、aもbも人生全般にわたって、そこそこ悪くもよくもない暮らしをし、最終的には浮き沈みのある人生と同じ程度の暮らし向きをしたと言えるとする。どちらが平等主義的にみて望ましいか?(9)
 ほとんどの平等主義者は、「人生全体の平等主義」と呼べるだろう。この立場からは、上の事例では全体として同じであるからどちらがより良いということはない、とされるだろう。Dennis McKerlieはこの見方に反論し、CはDよりもよくない、と述べる。
 これが示唆するのは、人々がそれぞれの時点で等しい暮らしをしているかどうかが問題だ、ということである。人生全体よりも短い時間的幅に焦点化する平等主義的見解になる。たとえば、「タイムスライス平等主義」は、時間のどの時点でも、もし誰かが他者よりも暮らし向きが悪いとすれば、それは悪いということを含意する。タイムステージ平等主義は、ある一定の時間的幅の間、誰かが他者よりも暮らし向きが悪いならば、それは悪いことだということを含意する。このいずれの立場からもCはDよりも悪い、ということになる。
 タイムスライス平等主義と人生全体平等主義の違いは、世代間平等において明確になる。タイムスライス平等主義は世代間不平等を嘆く理由を与えない。
 他方、タイムスライス平等主義は、同時点における異なる世代の人々の間の不平等に反対せざるを得なくなる。若者が老人より現在暮らし向きが良いということは、タイムスライス不平等があることを意味する。しかしこれは人生全体では不平等だとは必ずしも言えない。いまの老人は昔は若者だったわけだし、今の若者はいずれ老人になるからである。(10)
 人生全体平等主義にタイムスライスあるいはタイムステージ平等主義が単純に置き換わるかどうかは疑わしい。次の状況を考えよう。

T1 T2 T3 T4 total
a 9 9 9 9 36
b 1 1 1 1 4

これはそれぞれの時点で見ると上と同じ不平等がある。だが、我々は上の方がマシだと考えるのではないか。
 本書でMcKerlieはタイムスパン平等主義を再検討している。この見解はコントロバーシャルな考えに依拠している。それは、我々は時間そのものに道徳的重要性を付与すべきだという考えと、人生のある時間的ステージが分配の場として適切だ、という考えである。
 なぜ、人生全体ではなくタイムスライスあるいはタイムステージに焦点化するような平等主義的な見方は、時間そのものあるいはタイミングに関する事実に道徳的重要性を賦与するのか。人々がある時点で不平等であるかどうかは問題に思えるが、彼らが別々の時期を比較して不平等であるかどうかは問題にならないからである。問題は「同時的(simultaneous)」な不平等である。しかしMcKerlieが指摘するように、彼はなぜ時間そのものがそれほど重要なのかを説明せず、直観に訴えているだけである。
 パーフィットの個人のアイデンティティをめぐる見解に訴えることもできるかもしれない。だが、McKerlieは、それはもっともらしい選択肢ではないと論じている。別の見解でよりうまく説明できる。それは優先主義である。平等とは異なり優先性は本質的に比較を含む概念ではない。ある個人をりすることの道徳的価値を評価するにあたり、我々はその個人がどの程度よいかを知ることだけが必要になるからである。(11)

5 平等の尺度

 異なる不平等な結果の間での選択問題がある。どの不平等な結果は他のモノよりも悪いのか、という問題は極めて複雑になる。
 999人が暮らし向きが良く、一人だけ悪い状態から、一人だけ暮らし向きが良く、999人の暮らし向きが悪い状態という極端があるとする。全員が平等にはなれないとして、中間に500人が良く、500人が悪い状態がある。この間に様々な状況が想定されるとする。平等という観点から、どの状態が望ましいと言えるか。全て不平等だが、これらのなかで平等が支持する状態を決めることはできないのではないか。(12-15)

6 平等主義のための議論

 これまでの平等主義の議論では、どんな平等が望ましいのか、という基本的な問いが省略される傾向にあった。
 平等を理解することなしに、どんな平等が望ましいのかについて語ることはできない。また望ましさの意味を理解することなしに平等についての説明を行うこともできない。望ましさ問題を切り離して考えよう。
 平等が本質的に正義に適っているあるいは本質的に望ましいという主張を支持する二つの議論がある。第一に、平等はより基本的な道徳的価値に由来すると論じようとする議論。第二に、反照的均衡、つまり平等の理念は、我々の道徳的信念に関する説明と最も一貫した構成要素だという議論がある。たとえば、同じ量の厚生を総体として含む二つの分配状態を比較したとき、一方は平等であり、他方は非常に不平等だとすると、多くの人は前者を後者よりも好むだろう。この選好を平等は説明するという点で、これは、平等の理念を(功利主義に反して)支持するものと理解されるかもしれない。(15)
 とはいえ、この弱い主張は批判されてきた。第一に、この選好は、別の見解、たとえば優先主義で説明できると指摘されてきた。第二に、平等主義者はすべての人の暮らし向きが等しく悪い方が、平等ではないがすべての人の暮らし向きが良いよりも望ましいという。だがこれはもっともらしくない。これらを鑑みると平等よりも優先によって我々の選好が説明されるように思える。とはいえ、それでもレベルダウンはある観点からは良いと考えるのはもっともらしくない、と論ずる論者もいる。(16)
 より根本的な道徳原理から平等を導出する試みに移ろう。これは多くの議論に見られるが、平等を、分配に対する運の影響の中立化という目的(the aim of neutralizing luck)によって基礎づけようとする議論である。ロールズの道徳的恣意性論、コーエンの議論などがある。だが、ハーレー(2003)はこれを批判する。運によって平等が成立する場合もある。運と平等が共存する場合もありうるが、その場合平等な分配がより正義に適っていないということにはならない。(16-7)
 ハーレーの見解への応答として、「運の中立化」は「人々の諸利害に対する運の問題だと思われる要素の影響の差異を除去する」ということの短縮形だと論ずることもできるかもしれない。それはそうだろう。しかし、ハーレーが指摘するように、仮にそういう意味だとしても、そこから運を中立化するという目的を通して平等を正当化するための試みが形成されるということにはならない。平等は、それが運の帰結である限りで、そこからの逸脱が不正であるようなデフォルトポジションとして扱われるからである。だが、運の中立化という目的に関係したいかなる理由も、平等がデフォルトポジションだと考えるための理由を与えたことはない。
 この批判は別の正当化を探求するように強いている。二つの選択肢が本書にはある。Perssonは、極端な平等主義的立場に立って、それによれば、正義はすべての人が等しく(厚生に関して)良い状態にあることを要求する、と論じている。この立場は二つの主張を伴う。第一に、国家が正義であるのは、すべての人が、誰かが他者よりも暮らし向きが良いということを正当化しうるものがないならば、等しく暮らし向きが良いとき、そのときにのみ正義に適っている、という正義の形式的原理。第二に、誰かが他者よりも暮らし向きが良いということを正当化するものが存在しないという消極的主張。形式的原理からは、それを否定する誰かは、正義概念の誤解を示しているだろうということになる。
 消極的主張からすれば、誰かが他者より暮らし向きがよいことを正当にする真価(desert)ないし権利があると想定することはエキセントリックではないだろう。Perssonは不平等がつねに不正義だと考えてはいない――ある状態は正当でも不正でもない、と。
 Christianoは、正義の形式的原理、この場合人は比較的同様のケースでは同じように扱われるべきであり、似ていないケースでは異なって扱われるべきだという原理に訴える。彼はこれをさらに三つの主張に結び付けている。すべての人間は歩と強い道徳的地位をもつ。人間の間のいかなる差異も、ある人が他者よりより多く福利を受け取るべきだということを含意しない。そして、福利には根本的な価値があり、それは、人は(自分自身と同じく)他者の福利を促進する理由をもつということを含意するような価値である。(17)
 Christianoの複雑な議論は大まかには次のようになる「もしある人が他の人よりも良い暮らしをしているのが正当だとすれば、それは、形式的原理によって、彼らを違うようにするだけの相違点が存在していなければならない。従って不平等は形式的原理と両立できず、また重要な違いが存在しないという想定と両立しない」(18)

7 平等と責任

 かつては平等主義者は不平等はそれ自体で悪いと考えていたが、今ではそう言う人はほとんどいない。選択と責任の重要性を認識しているからである。
 とはいえ三つのタイプを区別するのが有用だろう。「責任拒否的平等主義」「責任肯定的平等主義」「責任寛容的平等主義」である。
 責任拒否的平等主義は、誰も暮らし向きが悪いことに対して責任はない、と信じる立場である。これは単純で魅力的に見えるが、しかし責任についての常識を否定するという理論的負荷がある。(18-19)とはいえ、アーネソンが指摘するように、この対立は多くの人が論ずるほど根本的なモノではないかもしれない人々が自らの暮らし向きを悪くするような行動に責任がある。と思えるようなほとんどのケースでも、究極的に言えば、彼らには自らの行為に対して責任はないからである。
 Perssonは彼の極端な平等主義擁護論で、後退原理(regression principle)に訴えている。責任の後退・巻き戻しは無限ではありえないがゆえに、責任は不可能だということになる、と。
 しばしば責任と真価は混同されているが、両者は異なる。非常に有徳な人が小さな危険を冒して、最悪の帰結を被るとする。他方、全く有徳でない人が同じ危険を冒して、運よく、非常に良い帰結を享受するとする。この場合、我々は、有徳な人物はその結果に対して責任はあるが、その悲惨な状態に値する(deserve to)とは言わないだろう。
 真価と平等をめぐる議論もまた、責任と平等の関係性に関わる議論と多くの点で似ている。したがって、真価と平等の関係についても、責任と同じく三つの区別をする必要がある。拒否的、肯定的、寛容な立場である。真価拒否平等主義は何らかの後退原理に訴える。
 有名なのはロールズの真価を否定する理由である。(19)

ロールズは「優れた性質」をもつ個人がより大きな報酬に値するということを否定する。
 第二の平等主義は「責任肯定的平等主義」である。これはある程度は責任があるとする。ドゥオーキンの高価な嗜好をめぐる議論がその標準である。
 ドゥオーキンに対して、アーネソンとコーエンは意図的に形成された高価な嗜好の持ち主に対する対応には違いがあるにせよ、高価な嗜好の持ち主が他の人よりも厚生が低くても平等の見地から悪いと考える必要はない、という点で一致している。この立場は責任と真価に関する一般常識と整合する。
 責任肯定的平等主義についての主な問題は、平等主義的直観とこの一般常識とを把捉できるかどうかにある。また、責任肯定的平等主義は責任と真価の可能性に反対する哲学的議論を否定しなければならないという点にもある。
 責任寛容的な平等主義は、人々は暮らし向きが悪いことに対して責任があるかどうかという問いに対する態度をもたない。アーネソンの1989年の論文はそう解釈できる。彼は、もし強い決定論が真であるならば、そしてそのときのみ、厚生に対する「機会」の平等は、厚生の平等に還元されると述べている。ただ、強い決定論が真であるかどうかについては何も述べていない。
 コーエンも自由意思問題がネックだと述べている。とはいえ、彼の議論は、我々が自由意思問題に解決をもたないので、それが平等主義にとって厳密な政治的含意を持つような正当化された説明ももたない、と言っていると思える。(20-21)
 本書でアーネソンは平等(ないし優先)が真価とバランスされるべきだという考えに同情的だが、明示的には真価を擁護する理論は存在しないだろうということを認めている。彼は、平等と真価の考えを統合するより尤もらしい説明に従事するとしている。彼はコントロール原理、つまり人々はコントロールできるポジションにいるときにのみ、それに値すると言われうる、という原理を示唆している。
 責任寛容的平等主義は、責任の説明を行うという重荷を負わない。その主な欠点は、平等主義は平等主義の正確な政策的含意について寛容的な意思見決定な立場にならざるを得ないという点にある。 人々は悪い立場に責任がありうると結論づける平等主義は、自分の失敗で非常にひどい状態になった人は、他者に援助を求める正当な基礎をもたないという見解にコミットすることになるだろう。たとえばラコウスキ―(1991)はその立場を採る。だが、マーク・フローベイが言うようにそれは過酷すぎる。フローベイは代わりに、正義はあるミニマムを保障すべきだというような充分主義的要素をもつと述べる。これに対してピーター・バレンタインは、選択運の悪い結果を選択運の良い結果の人からの徴税で補償すると宣言するシステムについて、不正なところは何もないという見解を擁護する。バレンタインは、これは左派リバタリアンに対する反論を弱めると考えている。
 Andrew Williamsは本書で自由と責任と平等を、統合的な分配的正義の説明の中でどのように結びつけるかという問題を考えている。正確に言えば、彼はスキャンロンの選択の価値についての契約論的説明の平等主義への含意を検討している。(21-22)スキャンロンによれば、我々が自らの生に対するある種の力と機会を望むには、「道具的」「表象的」「象徴的」理由がある。そのような力と機会は、我々の選択を、より満足したモノにし(道具的価値)、我々自身の趣味等を反映し(表象的価値)、意思決定能力と独立性のシグナルになる(象徴的価値)。だが、ウィリアムズは、この説明は、自由の許容可能な制約についての尤もらしい説明を提供するために、また我々が自らの選択の結果として傷ついた人を補償するのを拒否することを許容可能な時についての尤もらしい説明を提供するためには、さらに展開される必要がある。とくに、そうした説明は、いかに負担が課されるかを決定する際、意思決定者以外の行為者の観点にも訴える必要があるだろう。

8 平等の価値

 更なる問いは平等の価値とはどんなものか、である。平等主義の議論では、しばしば平等は良いモノだと主張され、不平等は悪いと主張される。一方で平等が積極的な本質的価値をもつならば、不平等はその価値を排除するがゆえに悪いということになる。同じように、もし不平等が本質的に消極的な価値をもつならば、平等はそれを除去するがゆえに良いということになる。
 だが、ここには問題がある。すべての人が価値ゼロの人生を営むような結果を考えよう。もし平等が積極的で本質的価値をもつならば、この結果はそのような価値を含んでいることになる。他方、もし不平等が消極的で本質的な価値をもつならば、この帰結はいかなる積極的で本質的な価値も持たないということになる。
 また、平等主義の非人格説と人格影響説を区別することができる。非人格節によれば、自体あるいは他の非人格的実体が、平等の価値(あるいは不平等の反価値)の担い手(bearers)である。人格影響説によれば、不平等の反価値はその人にとって悪い(the worse off)個人のなかにある。後者は不平等は個人の厚生に対して、他者よりも悪くするという否定的な影響を与えるということを含んでいる(そしてそれは人々の感覚や選好等々には関係がない)。(22)次の事例を考えよう。二つの大陸に二つの共同体があり、両者は他方の存在を知らないとする。ある日、地震が起こり、他方よりも暮らし向きの良い人々の厚生のレベルを低下させるとする。もう一方の、最初から暮らし向きが悪い人々の厚生には何の変化もない。にもかかわらず、人格影響説によれば、後者はより暮らし向きが良くなった、ということになる。
 更なる区別はパーフィットによる目的論的平等主義と義務論的平等主義である。目的論は不平等はそれ自体に置いて悪いと考え、義務論はそう考えない。パーフィットはこれらの二つの立場は、その射程と、レベルダウン反論への脆弱性の点で区別されうると指摘する。
 目的論の方が射程が広い。義務論は自然の不平等や異なる共同体に住んでおり互いに関係がない人々の間の不平等にはいかなる反論ももたないと思われるからである。義務論よりも目的論を好む平等主義者もいるが、目的論はレベルダウン反論に弱いと論ずる人もいる。(23)
 第四章でKasper Lippert-Rasmussenは目的論的平等主義と義務論的平等主義を、三つの論理的に独立した区別にさらに分けて、目的論と義務論をレベルダウン反論に基づいてあるいは、その射程に関する考慮に基づいて選択することはできないと論じている。

テムキンはレベルダウン反論の根幹に対して反論する。テムキンは、レベルダウン反論が「スローガン」と彼が呼ぶ原理を前提にしていると論ずる。それによれば「もしそこに、いかなる観点から見てもより悪い(ないしより良い)人が誰も存在しないならば、ある状態は他の状態よりもいかなる観点から見てもより悪い(あるいはより良い)ということはあり得ない」とされる。テムキンは、このスローガンは受け容れがたい含意をもつと論ずる。第一に、これは、自律や自由といった帰結の本質的価値に貢献する理念を除外してしまう。自由は厚生の増大に随伴する必要は必ずしもない。
 第二に、このスローガンは、いわゆる「非同一性問題」に対して直観的に正しいと思える解答を不可能にする。二つの状態間で、同一人物が比較的な悪さ/良さを経験する現実的可能性がなければ、レベルダウン反論は成立しないとすれば、別々の個人が生ずるような二つの事態の間での「より良さ/悪さ」について何も言えないということになる。
 とはいえ、Nils Holtugはレベルダウン反論はこのスローガンを前提にしていないと論じている。この反論は、別の人格影響原理によって支持できる。それは、帰結を、諸個人により良いないしより悪い影響を与えるかどうかという観点からのみ評価する原理でありうる。(25)

9 平等、優先、十分性

さらに、McKerlieは、人生全体ではなくある時間段階に分配される方がよいという点について、平等主義よりも優先主義のようがよい説明を与える、と論じている。(28)
十分性〔充足〕主義は、平等主義に対するもう一つのオルタナティブである。十分性主義は暮らし向きの悪い人が優先されるべきだという点について優先主義に同意する。だが、十分性主義は、優先性が消滅するようなある種のレベルが存在すると論ずる。そのレベルで人々は十分だからである。十分性主義は、我々がある種の閾を越えた不平等を気にしない、という論拠~擁護されることがある。リッチとスーパーリッチの間の不平等はどうでもよい、と。
 ここで、フローベイによるディーセントミニマムの保障を想起してよい。多くの平等主義は、たとえ本人の選択の結果だったとしても、人々には少なくともミニマム水準を満たす分は与えられるべきだということに直観的に同意するだろう、と。とはいえ、ある水準以上の平等に対する関心を欠く点で、十分性主義は説得的ではないと論じられてきた。(28)

10 平等主義への批判

平等主義は功利主義、優先主義、十分性主義から批判されてきたが、それ以外にも批判はある。たとえば、コミュニタリアニズム、フェミニズムそしてリバタリアニズムからも批判されてきた。(28)平等主義は公正であれ資源であれ、他のアイテムであれ、ある種の全体的な善さあるいは利益が存在すると想定する傾向がある。この善さの候補が何であれ、平等主義は、政治的影響力や市民権など、そこでの平等が主要な、上位にある通貨による平等からは独立して評価されうるような領域、いわば副次的な分配領域の存在を認めうるだろう。ドゥオーキンを含めて何人かの論者は、政治的平等の問題を切り離して扱うために明示的に別扱いしている。
 マイケル・ウォルツァーのようなコミュニタリアンによれば、しかしこうした異なる分配領域に関する認識ではまったく十分ではない。彼は「何の平等か」という問いはミスリーディングな問題だと考える。分配的正義の最終帰結原理(end-result principles of distributive justice)を批判して、ウォルツァーは多くの分配領域があり、この多元性は財の間の差異に関するわれわれの共通理解を反映していると論ずる。たとえば教育は才能に応じて分配されるべきだ、等々。
 本書ではジョナサン・ウルフがこのラインで考察している。
 ウォルツァーは自らの理論を平等主義的正義の理論だと考えているが、その非平等主義的な含意は批判対象になってきた。アーネソン(1995)は、ウォルツァーの基準はエリートの存在を許容すると批判する。
 また、別の論者は、共有された文化についての理解へのウォルツァーのアピールは、そんな共通理解など存在しないがゆえに無駄であるか、あるいはそれが存在するとすれば、その最も強力なものは分配は正当ではないという理解になる、と論じてきた。(29)最後に見ておくべき点は、ウォルツァーの主張の大部分が、何らかの全体的な通貨が存在するという平等主義によって提供されうるという点である。
 コミュニタリアンはまた、文化や伝統が抑圧や差別を含むことを看過しているとしてフェミニズムによって批判されてきた。アンダーソンとヤングは同様の批判を主流の平等主義に対して向けている。彼女らによれば、主流の平等主義は自然の不運に対して補償するという抑圧的な観点をもつ傾向にある。だがそれは、支配や抑圧といった社会関係における不平等を看過する傾向にある。(30)
 とくに運の中性化では搾取や周辺化、文化帝国主義等に晒された人々の不正をただすことにはならない。
 たしかに運の平等主義は往々にして、平等者として人々を尊重するという観点と衝突することがある。それはたとえば、「本人に咎なき才能の欠如により暮らし向きが悪い」人に対して憐れみの眼差しを含むことがありうる(ウルフ1998が同様の指摘をしている)。またフローベイが言うように、自らの選択の結果過酷な状況に陥った人を放置するかもしれない。(30)
 本書では、Linda Barkleyがアンダーソンの議論を検討している。バークレイは、アンダーソン自身、不平等な社会関係の反価値について、それらが人々のcapasitiesと福利に影響を与えるという意味で説明しているように見える、と指摘する。とすれば、社会関係は、それが人々のcapasitiesに影響を与える限りで、道具的価値があるということを示唆する。抑圧的関係性を、ある種の重要なケイパビリティつまりある価値のある物事をすることや価値ある状態であることに対する機会ないし自由を脅かすものとして特徴づけることができる。もし社会関係に、こうした派生的な意味での重要性しかないならば、それは平等主義的正義の通貨にはすべきではない。(32)
 ノージックはリバタリアンに基づく批判のなかで、正義の理論が自然の不運の補償に過度に傾いているという点で、フェミニズムに事実上同意している。だがノージックの視線は、この正義論の誤謬は、正義はある種の最終帰結と分配パターンをもたらすことに関わるというより一般的な誤解に起因するという点にある。
 ノージックはウィルト・チェンバレンの事例を用いて歴史原理を擁護する。
 ただ、平等主義者は二つの仕方でこのノージックの議論に反論できる。第一に、自発的同意が必然的に正義を保持しないと。初期状況では、彼らの取り分に対する絶対的な私的所有権を否定することによってこの反論を基礎づけることもできるかもしれない。(31)
第二に、初期の分配をたとえば資源に対する機会の平等という方向で考えることもできる。(32)
 ※ 以下、自己所有権論に関するノージックの議論と反論の概観(32-4省略)


第8章 Linda Barcley "Feminist Distributive Justice and the Relevance of Equal Relations,"
※「」は引用

◇要旨…… エリザベス・アンダーソンが分配的正義論にたいして〈民主主義的平等〉や〈地位あるいは関係性の平等〉論で提起した論点の重要性を認めつつ、それでは狭すぎるという点を、(狭義の)福祉の観点から批判。

1 導入

 フェミニストが分配的正義理論に期待すべきものは何か?
 分配的正義に対するフェミニストの強力な批判があるが、フェミニストによる代替案はあまり展開されていない。エリザベス・アンダーソンの「民主主義的平等」は重要な代替案の一つである。
 アンダーソンは「運命の平等」あるいは「運の平等主義」への応答としてこの観念を練り上げている。アンダーソンによれば、運の平等は平等主義を主張しているが、平等の真の価値あるいは真の論点を手つかずのままにしており、その主要因は、それがすべての人々を道徳的に等しく尊重することに失敗していることにある。運の平等主義は、暮らし向きの悪い人に対する軽蔑を含みの憐れみ(pity)を誘うような議論である。また、この理論は、社会的抑圧や制度的抑圧という形態の不平等を扱い損ねている。(196)
 とりわけ、社会化のパターンと社会関係、制度的ルールと規範、そして文化的かつ象徴的な表象の諸形態こそが、多くの人々が上手くやっていくための機会を著しく妨げるものである。(197)
 フェミニストの不満は、単に正義をめぐるほとんどの議論で抑圧の重要な形態が看過されているということにあるだけでなく、正義論が抑圧を扱うことが「できない」という点にある。その要因は、ほとんどの現代正義理論が、富と所得といった私的に享受される可分的な財(divisible goods)の分配にかかずらってきた点に求められる。たしかに富や所得は重要だが、不正義の多くの形態は貨幣の再分配によって扱うことはできない。(197)
 平等主義正義論はこれらの形態の抑圧を扱わなければならないし、扱うことができるのでなければならない。厚生への機会平等論も資源平等論も、これらの抑圧の諸形態を扱うことができる、という議論も展開されている。(197)
 〔それにたいして〕アンダーソンの解決は資源主義的アプローチと厚生アプローチ双方への却下を含んでおり、「何の平等か?」という問いについて、平等の指標は市民の平等な関係であると答えている。それは厚生の平等の単なる一要素ではなく、また、広義の資源平等の結果でもないとされ、平等な関係それ自体が平等主義的正義の目標であると論じてられいる。とはいえ、私はこれは採用しがたい議論であると思う。アンダーソンのようなフェミニストは、市民の福祉にとってある種の社会的・制度的関係性が重要であるということを正しく強調してきたが、正義のすべての要求を市民間の平等な地位という問題に還元することは間違いである。(198)

2 民主主義的平等

 アンダーソン特有の平等観によれば、民主主義的平等とは「市民相互の間の根本的な義務は万人の自由の社会的条件を保障することにある」(1999:314)。
 また平等主義者は、センによって明らかにされたケイパビリティに関して、万人の平等を追求すべきだと論じられている。消極的には、たとえば、貧困は人を搾取と支配の関係に巻き込まれやすくするため、一定の水準の物質的富を全ての人々が与えられることが主張されるかもしれない。積極的には、市民社会への平等者としての参加が必要だということになる。(199)

3 平等な関係と福祉

 アンダーソンの見解によれば、可分的な財の分配パターンは平等な関係性を実現するために必要だが十分ではない。
 とはいえ、平等な関係性の本質とそれを保障するケイパビリティとは何かについては非常に不明確であり、両者の関係性もよくわからない。アンダーソンはI・M・ヤングの「抑圧」についての説明に依拠している。それは五つの異なった形式をとるとされている。搾取、周辺化、無力化、文化帝国主義、暴力(に晒されること)である。そうした抑圧に晒されないようにするのはもちろん重要である。だが、アンダーソンの議論でそのために必要とされているもの、富、政策、法、社会政策は、ケイパビリティではなく、それを保障するための手段である。(200-201)
 同じ不明確さが「民主主義的平等」の積極的な面についても言える。問題はどんな種類の参加か、であり、どのような社会規範と諸関係が参加を脅かすのか、である。(201)
 アンダーソンはゲイやレズビアンを例に挙げており、それは納得できる。だが、では、奇妙な宗教はどうか。不正な不利益には基準が必要になるのではないか。それについてアンダーソン自身が、いわゆる「客観的テスト」について言及している。たしかに客観的テストは、本人の主観的に参加を妨げられていない場合にも不正な不利益を指摘できる点で意義はある。聾者の事例では納得できる。しかし、それは他方で逆に、本人の主観的地位が重要でないという見方を導きかねない。そしてそれは間違っているだろう。(201)
 総じて、人々がもつべきケイパビリティの具体的な特定がなければ、アンダーソンの議論は曖昧なままに留まる。(204)

4 平等な関係性と不平等な人々

 ケイパビリティリストを明確化すればよいのか。たしかに、不平等な関係性が否定するケイパビリティの具体的リストがなければ、地位の平等は分配要求に応えるための基礎としてはあまりに空虚で無差別的なものである。とはいえ、平等な地位に関して国家が関心を持つべきものにケイパビリティと機能の範囲を限定することは、他方であまりに狭すぎる。私たちの基本的福祉の部分となり、分配的正義の中心に据えられるべきであるような重要なケイパビリティと実際の機能には大きな幅があるのであって、それらは直面的な対他者関係における私たちの地位とはあまり関係がない。
 サミュエル・シェフラーはアンダーソンと同様に、分配の問題が重要なのはある種の分配が平等と合致しないからだと述べ、「基本的ニーズを満足できない人々は、他者と平等な地位をもって政治的生活や市民社会に参加できず、もしできたとしてもつねに多大な困難を伴う」と言う。(205)
 飢餓や病気等の一つのケイパビリティの不達成は、たしかに他の多くのケイパビリティの不達成を導く〔※ケイパビリティ論の理解としてこの言い方は妥当か?〕。また、栄養状態を達成できないことは、抑圧的関係性に関わるような、より多くのケイパビリティの不達成をもたらすという事実が、私たちに、危害を改善する他の最善の理由を与える、とされている。だが、次のような事例を仮想してみよう。飢えや病気が抑圧的関係性に巻き込まれる原因とならず、参加にとって中立的であるような事例である。病気や飢えはその場合には改善を要求しないというならば、それは、平等主義的立場にとって信じ難いことだろう。別の事例を考えよう。マラリア患者に対する平等な地位を保障することが、彼らを治療することか、あるいは別の手段で完全な参加を保障することかのいずれの手段でも可能だとしよう。第二の手段の場合、マラリア患者は熱にうなされているが//病気が彼らの平等な市民権にもたらすマイナス影響は除去されている。民主主義的平等の観点からは、これらの選択肢はいずれも等しく良いことになるが、それは明らかに間違っている。(205-6)
 これらはありえないシナリオかもしれないが、フェミニストがずっと関心を持ってきた問題に関わっているので重要である。平等な地位だけに焦点化することは、フェミニストの観点からは受け入れ難い別の誤謬をもたらす。すなわち「人間の依存という現実を看過するという誤謬を」。私たちの権原(entitlements)を平等な市民権という権原に還元することは、この誤謬を犯している。依存する人々の福祉に応答するという私たちの集合的義務は、彼が抑圧的関係性に巻き込まれないようにすることを保障するためである、と言うのは納得しにくい。(206)
 アンダーソンはたしかに、長い期間他者のケア提供に依存していることが、人々のライフサイクルの通常のそして不可避的な一部であることを認識している。だが、依存という現実についての認識がアンダーソンの理論に登場するのは、依存する人々に対するケアの義務が、ケアする人々を不平等な地位に追いやるべきではないという理由を説明するために、である。彼女は、運の平等主義者は、ケア提供者が職場を後にして小さな子や他の依存者の世話を選ぶことを、補償に値しない高価な嗜好だとみなしており、ケア提供者を貧困に追い込み、したがって支配と搾取関係に追い込むのだ、と論じて(は)いる(206)。それに対するアンダーソンの応答は二重だ。第一に、ケア提供者は、//彼らの道徳的義務を果たしているのだから搾取や支配に晒されるべきではないという議論である。第二に、依存者のケアによって果たされている労働は経済に貢献しており、したがって報いられるべきだという議論である。(206-7)
 この二つの応答に私は同意する。だが、依存する人自身の福祉についてはどうなるのか? 依存する人々のニーズの重要性はなぜ、彼らのケア提供者の「道徳的義務」に解消されるのか? この議論の含意は国家は独立した大人のケイパビリティには直接的な責任はあるが、同じ責任を大人に依存する人々にはもたない、ということである。それは抑圧的関係性の否定と平等な参加の保障という観点をとることの帰結だろう。(207)
 たしかに自由な選択は重要だが、たとえばマラリアに罹らないことの善さは、そして少なくともその善さの大部分は「選択やエージェンシーとは一切何の関係もない」。(208)

5 結論

 可分的な財とともに、社会化のパターンや社会的諸関係、制度的ルールと規範、文化的そして象徴的表象の形態は、人々の福祉にきわめて大きな影響をもつ。正義はそれを考慮すべきであり、厚生、資源あるいはケイパビリティといったアプローチのどれがそれをもっともよく扱うかは、依然として検討の余地がある。とはいえ、「平等な関係性」という観点は、分配的正義の観点から重視されるべき福祉の指標としてはやはり狭い。(209)