概要――規範理論と差別論
差別に関する近年の議論は、悪い差別(wrongful discrimination)あるいは不正な(unjust)差別とは何か? という問いを前提にして、差別を「悪い差別」にする要素を明らかにする、という課題のもとで展開されている。
「悪い差別」と「悪くない差別」という区別がなぜ必要なのか? それは、たとえばアファーマティブ・アクションが後者に分類されるからであり、あるいは、「緑色の目」をした人を雇わないという行為や、名前の頭文字がAで始まる人を教室の後ろに座らせる行為などと、人種や性に基づく差異化処遇(differential treatment)との違いを考察するためである。
差別の「悪」についての従来の議論の説明は、ひとまずは、大きく不利益(disadvantage)論あるいは害ベース(harm-based)の理論と、ディスリスペクト論あるいは偏見論に分けることができる。
不利益-害ベースの理論は、差別行為が被差別者(discriminatee)に与える悪影響を問題にする。カール・ナイト(2013)によれば、不利益論は、比較的・相対的(comparable)不利益論と絶対的(absolute)不利益論に分けることができ、それぞれが、その基盤となる規範理論――正義論――を前提にしている。ナイトは、比較的不利益論は正義論として「平等」規範を前提にしており、絶対的不利益論は「優先主義」的な考慮を前提にしている、と分類している。
ディスリスペクト論や偏見論が不利益論と区別されるのは、被差別者が害や不利益を経験・感受(feel)していなくても、ディスリスペクトを表現する行為そのものに「悪さ(wrongfulness)」があるという主張に求められる。とくにこの点を明示しているのは、デボラ・ヘルマン(2008)である。また、ラリー・アレキサンダー(1992)の議論もこのラインに分類される。アレキサンダーは、差別の悪を主に、差別行為に「人格に対する平等な価値」についての差別者の「誤った信念(false belief)」が表現されている点に求めている。このアレキサンダーの議論については、リパート-ラスムッセン(2006)による批判的検討がある。
リパート-ラスムッセンやナイトが擁護する不利益論は、広い意味での帰結主義であり、とくに前者は、差別論の前提にある規範理論を真価優先主義(desert-prioritarian)として明示したうえで、これを擁護する議論を詳細に展開しており重要。
また、ヘルマンは、結論部でウルフ、アンダーソン、シェフラーらの「運の平等主義」批判と自らの議論が親和的であると主張しているが示唆にとどまっており、さらに展開の余地が残されている。
不利益論/ディスリスペクト論のいずれの立場に説得力があるのか、あるいは両者の組み合わせが良いのか、どのように組み合わせればよいのか、さらに、モレー(2010)が指摘するようにたとえば「差別者が被害者の熟慮する自由(deliberative freedom)のセット」への干渉(147)といった別の(第三の?)基準を採用すべきか等、はさらに探究すべき問いになる。
これに答えを与えるためには、様々な範例や反例と理論との反照的均衡を通して――「偽陰性」(Knight 2013: 56)や「偽陽性」についての――さらなる検証が必要になるだろう。
少なくとも、「差別」という語を使う際には、これらの規範的な主張を行う議論の参照は不可欠であり、また実際に規範的な主張にコミットする必要がある、ということは言えるだろう。差別をめぐる議論は、ほとんどつねに「悪い差別」についての議論であり、そこでは、何が・なぜ「悪い」のかに関する規範的な主張、つまり正義や平等あるいは自由や権利等についての主張が、たとえ明示されないとしても前提になっているからである。
もちろん、ウォルツァーが『解釈としての社会批判』で述べているように、どんな規範理論も我々の規範的な直観と実践についての「より良い説明と解釈」を提示するという形で進めるほかない以上、「説得力/もっともらしさ(plausibility)」の問題になるだろうし、曖昧な部分も残り、したがって争点も残るだろう。差別概念についてもどうしても「ファジー」(リパート-ラスムッセン)な部分は残される。
とはいえ、規範的な立場・主張に遡って論点を明確化していくことは、差別に関する議論に混乱や不要な対立をもたらさないためにも、必要かつ重要な作業である。