O'Neill,Martin 2008 "What Should Egalitarianisms Believe?" Philosophy & Public Affairs vol. 36, No. 2 (2008) 119-156

 ・パーフィットによる「レベリングダウン反論」および平等主義と優先主義との関係性について論ずる。平等主義が信ずるべきものについて、より説得力ある説明を与えることが目的。(119)

Ⅰ 目的論的、義務論的平等主義

 パーフィットは目的論的平等主義と義務論的平等主義を区別する。目的論的な立場は、

 (A)ある人々が他の人々よりも暮らし向きが悪いならばそれはそれ自体として悪である。

という「平等の原理」を信じているが、義務論的な立場はこの原理を拒否する。彼らは代わりに、

 (B) 我々は平等を目的にすべきであるが、それは帰結をよりよくするためではなく、別の道徳的理由からである。

という。パーフィットによれば、目的論的な立場は、

 (C)不平等は「悪い」

ということを信じており、義務論的立場は、

 (D)不平等は悪いのではなく不正義である。

ということを信じている。両者では、分配的平等の関心の射程が異なる。目的論的平等主義者は、

 (E)平等主義の射程は全ての不平等を包摂する。

と考えている。義務論的立場はこれを否定し、分配的不平等の問題は「悪」の問題であるよりも「不正義」の問題であると考える。(120)それに対して、義務論的立場は不正なのは状態ではなく、それが生み出された経緯であるとする。つまり、

 (F)平等主義の射程は不正義から帰結した不平等に限定されれるのであり、したがって、悪い行いから帰結した不平等に限定される。

とする。つまり、義務論的平等主義は、「自然の」不平等は道徳的に重要だとは考えないが、目的論的平等主義はそれは悪いと信じている。

・これらの区別は有用であり、後の平等と優先をめぐる議論でも採用されている。だが、この区別はミスリーディングであり、最も説得力のある平等主義を曖昧化する。
・最も説得力のある平等主義とは、上のような意味での目的論的でも義務論的でもなく、道具主義的平等主義である。これを「非本質的な平等主義」と呼ぼう。これは上記の区別とはズレる。目的論的見解は、(A)(C)(E)を受け容れ、義務論は(B)(D)(F)を受け入れる。だが、見ていくように、最も説得力のある平等主義は、(A)と(B)を斥け、(C)を受け入れる。そして(E)と(F)も斥ける。

・それは、人が「平等主義」である理由を見ることで分かる。たとえば、スキャンロンによれば、我々が不平等は悪いと考えるのは、(a)不平等の緩和は往々にして、苦悩と剥奪をなくす条件だからであり、(b)不平等は地位におけるスティグマ課された際を生みだすからである。(121)また、(c)不平等は権力と支配という受け入れがたい形態を導くからである。ロールズもまた同じように述べ、不平等が望ましくないのは、(a)基本的ニーズの満足を妨げるからであり、(b)社会的地位における不平等を導くからだとしている。さらにロールズはスキャンロンと同じく、不平等が悪いのは、それが(c)社会の一部の残りの部分に対する支配を導く限りにおいてだと述べている。(122)
・パーフィットはまた、ネーゲルの議論に従い、我々が不平等に反対するのは、(d)それがとくに暮らし向きの悪い人の自尊を弱めるからだ、とする。ロールズもパーフィットも、(e)不平等は奴隷的な考え方や服従的な行動を生みだす点に問題があると考えている。ネーゲルはさらに、不平等に反対するのは、それが社会全体における健康的で友愛的な社会関係と態度を掘り崩す点に求めている〔おそらくこれが(f)〕。

・非本質的平等主義とは、これら(a~f)の理由に訴える立場を指す。分配的平等主義に多様な理由があることは明らかである。我々はそのすべてかあるいはそのどれかを受け入れるだろう。
・非本質的平等主義を受け入れるとして、では、最初の(A)と(B)について不平等の悪さについてはどうか。(A)は過剰でありかつ過少に見える。なぜ、不平等の存在に対して、それ自体が悪いのだろうか。(123) それは(a~f)の理由を除いてしまうと、きわめて曖昧な主張にしかならない。
・では(B)はどうか。非本質的平等主義はこれも斥ける。我々は、事態の悪さ(badness)を超えて「他の道徳的理由」に訴える必要はない。非本質的平等主義は、この点で目的論的平等主義とともに、ある人が他の人よりも暮らし向きが悪いことは悪いと主張すべきである。しかし、目的論的平等主義が、この悪さは分析不可能な仕方で本質的に悪いという点を、非本質的平等主義は拒否する。この点で目的論的平等主義とは異なる。とはいえ、義務論的立場とも違って、事態の善さと悪さに関心がある。要するに(A)も(B)も拒否する点で、パーフィットの言う目的論でも義務論でもない。

・理由なく平等な帰結を望ましい、とする見解として、功利主義などがあるし(124)、民主主義政治の社会的条件だというルソー的立場もありうる(125)。これらは、あくまで偶然的な意味で平等主義と呼ぶことができる。これを「弱い平等主義」と呼ぼう。これに対して非本質的平等主義は、「強い平等主義」である。

・「強い平等主義」は、平等主義的な考量(a~f)の内容と相互連関を検証してみれば分かる。これらは一つだけの例外を除いて、人々が平等者として共生するべき仕方の複合的背景を描写している。一つの例外は(a)である。それは人間主義的な立場であると言えるからである。そして、(a)の考慮は、それ自体は単に弱い平等主義であり、強い平等主義ではない。(126)

Ⅱ 平等の射程 【省略】

完全に二つに分断された世界において、その、

 (1) 半分が100、半分が200
 (2) 全員が145

という場合、(1)における半分は残り半分とまったく何の相互関係もないので、(b-f)の理由のどこからも、(1)よりも(2)の方がよい、という結論は出てこない。(136)
とはいえ、現代の社会ではグローバルな不平等は相互に関係しているので、(b-f)の観点から是正すべきだということになる。国境を超えて平等が必要だという意味で、国境内の「強い国家主義」を斥けてコスモポリタンな見解を採るが、とはいえ、強いコスモポリタンとは異なり、既存のローカルな社会関係や慣習を無視すべきだという立場も採らない。(137-8)
また、ほとんど関係性をもっていない諸個人ないし集団間の不平等は、緊密に関係している人々ないし集団間の不平等よりも重要性が低い。(138-9)
強い国家主義と強いコスモポリタンの間を行くのが非本質的平等主義だが、それは我々の立場が、目的論的見解と義務論的見解の中間の道を行くことの帰結である。目的論的見解は、平等は政治的価値の一つであるという洞察を見過ごしている。平等が政治的価値の一つだということは、それは人々の相互関係の本質と帰結に結びつく価値だということである。
 目的論では、平等の理念は単純に算術的なものとみなし得るとされる。だがこの立場は維持しがたいだろう。(139)
 義務論的見解では、パーフィットが述べるように平等要求の政治的性質を、領域的にも狭く解釈し、またはその状態に先行する悪行ないし不正義に着目する。だがこれは災害のもたらす不平等や国家を超えた不平等の問題に対応できない。(140)

Ⅲ 平等とレベリングダウン反論

 (3) 半分が100、半分が150
 (4) 全員が99

・レベリングダウン反論とは、平等主義は

 (G)状況(4)が、状況(3)よりも望ましいと考えるが、それは馬鹿げているだろう。

という反論である。パーフィットは、この(G)について、目的論的平等主義だけがこれを拒否する必要があり、かつ目的論的平等主義だけがこの反論に直面する、と主張している。それに対して、義務論的見解はこの反論を避けることができるとされる。たしかに、算術的な平等を追求するだけの立場には、この反論は痛いように見える。しかしこのパーフィットの議論はいずれも間違っている。(141)
・というのは、(4)を(3)よりも望ましいという理由をもち、(G)を退ける理由をもつのは目的論的平等主義だけではないからである。非本質的平等主義も(G)を退ける理由をもち、(4)を(3)よりも好む。たとえば、分配(3)が裕福ではあるが階級による分断に悩む社会であり、屈辱と支配と搾取に満ちているとする。その場合、平等主義者は(4)を好む。(以上141) 非本質的平等主義が、平等主義的な社会関係に価値があると考えるのは、平等は諸個人の厚生に対する影響には還元できない価値があるからである。(3)よりも(4)を好むのは直観に反するかもしれないが、神秘的でも何でもない。我々が平等主義的価値が重要な意味をもっており、それは、諸個人の福祉に対する平等の効果とは独立のものだと考えているならば、そのとき、平等の価値は場合によっては福祉の最大化の価値を上回ると考えていることになる。従って非本質主義的平等主義も(G)を拒否すべきである。(142)
・さらに、パーフィットは義務論的平等主義はレベリングダウン反論を回避できると考えているようだが、それはできない。パーフィットは義務論的平等主義を、「人々が何をするかについての見解であり、事態の間でいかなる補償もしない」立場だと考えている。だが、レベリングダウン反論を一般化すれば、義務論的平等主義もそれを免れない。
 次の主張を考えよう。

 (H)我々は、自分たちが、たとえ全ての人の暮らし向きが悪くなるとしても、平等をもたらすための行為の理由をもつことができると考えるのは馬鹿げている。

 これも(G)と同じく、レベリングダウン反論の力を捉えている。これを逃れる道があるとすれば、義務論的見解を、非常に形式的で薄い形で理解するということになるだろう。(以上142)

 とはいえ、義務論的見解を別様に解釈する道もありうるかもしれない。たとえば、我々が平等を追求する理由をもつのは、我々がパレート原理を侵害しないようにその理由に従って行為ができるときのみだ、という形で理解すればどうか。しかしこれは奇妙な考え方になってしまうだろう。(143)
 義務論的平等主義にはより一般的なレベリングダウン反論を避けることはできない。かくして、上述したすべての平等主義はこの反論の変種に直面する。
 最良の応答は、パーフィット自身が述べているように、ノックダウン的な応答である。つまり、平等主義者にとって、平等が唯一の価値であるのではない、と。(以上143)

 (3)から(4)への移行について、我々は仮に福利に対するネガティブな影響があったとしても平等を促進する強い理由をもつことができる。それを「多元主義的応答」と呼ぼう。
 とはいえ、レベリングダウン反論は問題にならないという結論は性急に見えるかもしれない。(以上144) さらに考察するためには、三つの状況を考えてみるのがよいだろう。レベリングダウン反論の三つのバージョンはそれぞれ異なる背景状況に結びつく。三つの状況とは、①より弱い(wealer)バージョン、②より不毛な(starker)バージョン、③最も不毛なバージョン(starkest)である。「ノックダウン的応答」が有意義なのは①のバージョンに対してであり、②と③に対しては効かないと思われるだろう。とはいえ、レベリングダウン反論は、最もありえない(starkest)な状況以外では無効にできる。
 弱いバージョンについては厚生の低下が、隷属と支配の根絶から得られる利益や自尊心の利益によって凌駕されうると考えることができる。したがって、レベリングダウンが多くの個人にとってより良いと言いうる
 より不毛なバージョンについてはそうは言えなくなるかもしれない。とはいえ、そのような状況を想定することは困難である。(以上145) 実際に存在するケースでは「レベリングダウン」はより弱いバージョンになるだろう。
 議論のために「より不毛な」バージョンも考えておこう。そこでは、平等がもたらす利益は、いかなる個人にとってもどんな良い点もない、という状況である。とはいえ友愛に満ちた平等主義的社会関係は特定の個人にとっての利益に還元不可能な価値があると考えているだろう。非本質的な平等主義は、(b-f)についての平等主義的な考慮からは、単に分配的平等の拡大が個々人にとって価値があるだけでなく、非個人的な価値もありうるという見方を採ることができる。(4)を(3)よりも好む理由は、個人の福利の考慮や個人の私的な価値とは独立して考えられる。これは、パーフィットの「多元主義的応答」が、「弱い」あるいは「より不毛な」バージョンについては正しいということでもある。(以上146)

 多元主義的応答はそれでも説得力がないという反論があるかもしれない。だがそれは、目的論的平等主義の(A)を採用するか否かという点に関わっている。我々は(A)を採用する理由をもたないので、目的論的平等主義を斥けている。そしてこのように言うからと言って、レベリングダウン反論に訴える必要はない。(以上、147-8)

・レベリングダウン反論が説得力をもつ場合もある。それは「最も不毛なバージョン(starkest version)」である。(148-9)
 つまり、平等主義の基礎にある非個人的な善さがまったくなく、誰一人として利益を得る者が存在しない場合だ。

 (5) 半分は150、半分が100
 (6) 全員が75

ここで(5)は先の(3)と同じく、従属と隷属そして支配関係のある二つの階級に分割された社会を示しているとする。だが、先の(4)とは異なり、(6)はまったく魅力的ではないとする。つまり(6)においても、我々は(5)と同じく、支配と従属という酷い社会関係に縛られており、しかもすべての人の状況が等しく悪いとする。この場合、平等主義的な理由(b-f)は、(5)よりも(6)を好む理由をわれわれには与えない。
 したがって、「最も不毛な」状況とは、次の条件が成立していることを指す。

 (i) 状況(6)が状況(5)よりも、たとえば平等主義的な考慮を含めていかなる観点からも、よいという個人は存在せず、かつ
 (ii) 状況(5)よりも(6)を好むための理由になりうるようないかなる非個人的価値も存在しない状況。(以上、149)

 ここで「最も不毛な」レベリングダウン反論は、「状況(6)を(5)よりも好むのは馬鹿げている」という主張になる。
 非本質的平等主義はレベリングダウン反論のこのバージョンを(そしてそれのみを)受け容れるべきである。
 「不平等の縮減が、平等主義的な(b-f)の考量に関係するモノを含めてどんな仕方でも誰にも利益を与えないような場合、そして同じ観点から見て非人格的な価値をもたらすような効果も持たない場合、我々は不平等の縮減を好む平等主義的理由をもたない」からである。逆に言えば、「ほとんどの場合、レベリングダウンは少なくともある人々にある観点から利益になり、平等主義的な(b-f)の考量からみて非個人的に望ましいものである。」(以上150)
 だが、この(Ⅰ)のような状況ではもはやレベリングダウン反論は余計なものになっている。また、我々は見たように、平等がそれ自体で本質的な価値があるとは思わない以上、(Ⅰ)のような状況については同じ結論に至る。そして、レベリングダウン反論が一抹の真を発揮する場は小さいということでもある。(151)

Ⅳ 平等か優先か、あるいは平等と優先?

 パーフィットは目的論的と義務論的平等主義の区別を導入しつつ、優先的見解ないし優先主義を代替案として提示している。それはレベリングダウン反論に対応するものとされる。優先的見解とは以下のようなものである。

 (J) 人びとに利益を与えることは、より不遇な人々に多く役に立つようにすることである。

 これは義務論的原理として理解される。とはいえ、優先的見解は、さらに次のような目的論的な形でも表現できる。

 (K) 個人によって享受される利益の「善さ」は、個人の福利が向上するにつれて逓減する。

つまり、優先主義は、福利における利益の限界的な道徳的重要性の逓減についての主張としても理解できる。(152)
 本稿の非本質的平等主義つまり多元主義的見解は、福利におけるより大きな利益にある道徳的重要性逓減についての目的論的優先主義の見解と調和させることができる。平等主義はどんなバージョンも、完全な価値の理論あるいは価値の学説を提供していない。もし平等主義が平等を他の価値の中の一つとみなすならば、平等主義は多元主義者たるべきである。非本質的平等主義は、暮らし向きの悪い人に対する利益により大きな道徳的重みを置くという優先主義の見解を受け入れる。

 ほとんどの論者は優先主義を平等主義とが競合関係にあると見なしている。優先主義がもし独立した(Stand-Alone)分配論として採用され、平等の分配的価値にいかなる余地も与えないというならばそれは正しい。だがこうした見解は妥当ではないだろう。
 むしろ平等主義は、多元的な理由(b-f)を受けいれる非本質的なかたちで理解されるべきだろう。優先主義的見解は、この非本質的平等主義とは対立しない。
 いまやパーフィット自身、ある種の「混合的見解」の可能性を考慮するようになっている。いわく「最不遇者を優先するのは、部分的にはそれが不平等を削減するからであり、部分的には別の理由からである」。(以上153-4) これは義務論的優先主義であり、それが擁護されるのは、価値のレベルで目的論的平等主義と他の理由の混合に訴えることによってである。とはいえ私見ではこれは、事態の善さと悪さについての目的論的優先主義と非本質的平等主義の洞察を両方とも認めるような「混合的見解」ではない。平等主義はむしろ、不平等の非本質的な「悪さbadness」と、より多くな利益の道徳的重要性の逓減との両方を信じるべきだろう。
 これに対して、独立した優先主義はもっともらしくない分配論である。(以上154)次のケースを考えてみよう。

 (7) 半分が100、半分は200
 (8) 半分が101、半分は400

純粋な優先主義的立場は、仮に(7)において個人間・集団間で社会的相互作用が存在していたとしても、それよりも(8)を好む。非本質的平等主義はそのようには考えない。
平等主義は多元主義を採用することで、過剰に図式化された平等主義の理解も、同じく優先主義の理解もいずれも極端な分配論として拒否すべきである。

Ⅴ 結論

結局、平等主義は何を信じるべきか? 第一に、標準的な平等主義の二形態を斥けるべきである。最初の主張(A)と(B)をいずれも斥けるべきである。そして非本質的平等論になるべきである。第二に、レベリングダウン反論を退けるべきであり、それを未熟な平等主義以外のモノには歯が立たない議論とみなすべきである。つまり(G)と(H)のいずれも斥けるべきである。第三に、優先主義の中心的洞察を、平等主義の核心を放棄することなく、受容すべきである。つまり(J)と(K)を受け入れるべきだが、それらは分配の倫理についての真理を示したものとみなすべきではない。(以上155)
 また、不平等は悪いという主張(C)を受け入れるべきである。そして(E)と(F)を退けるべきである。(156)