Ⅰ導入
「平等か優先か」において、デレク・パーフィットは、有利な人と不利な人(less advantaged
individuals)との間で利害が対立する場合に不利な人を優先する傾向をもつ分配原理について、二つのカテゴリーの区別の重要性を指摘した。平等主義原理は、ある個人が他の人々よりも暮らし向きが悪いとして不利な人を優先するのは、それが本質的に悪いあるいは不公平だと考えるからである。他方、優先主義原理は、不平等は非本質的に道徳的に遺憾だとは考えない。優先主義が不利な人を優先するのは、利益の道徳的価値あるいは負担の反価値は、当人の状態が良くなればなるほど縮減していくと考えるからである。この二つの原理についてはすでに一定の議論蓄積がある。他方、これらに対する第三の道として、「十分性原理(sufficency
principles)」が重要な論点を提起している。(296) この原理は不平等の撲滅を支持しないし、最不遇者の利益を有利な人よりも重視するというわけでもない。そうではなく、異なる分配を評価する際に、個人の利益が何らか基準となる閾値以下に落ちない程度に十分に所有しているかどうかを問題にする。
平等と優先の原理については洗練された理解があるが、十分性についてはそうではない。以下では、このアンバランスを是正するために、十分性原理が分配的倫理学の中で、平等と優先の原理に代替するというよりも補足的な役割を持ちうるかどうかを評価する。
Ⅱ 十分性の構造――二つのテーゼ
カール・ポパー『開かれた社会とその敵』には、消極的功利主義に影響を与えた文章がある。これは十分性論者もしばしば引用している。「苦しみと幸福(suffering and happiness)、痛みと快楽の間には何の対称性もない。人間の苦しみは直接的な道徳的アピール、とくに援助に対するアピールになるが、すでに普通に暮らしている人の幸福の増大は同じような要求をもたらさない」。また同じく、彼の「問題は個人が十分に持っているかどうかだ」という主張は、二つの異なるテーゼを表現している。剥奪から自由な状態で、ある種の閾値以上の暮らしを送ることの重要性を強調する積極的テーゼと(297)、〔閾値を越えた〕ある種の追加的な分配要求の重要性を拒否する消極的テーゼである。(298)
A 積極的テーゼ
ハリー・フランクファートは積極的テーゼについて次のように述べる。「道徳的見地からみて重要なのは、万人が「同じ」ように所有すべきだということではなく、各人が「十分」に持つべきだということである」。そして「十分性」の範囲を最大化することが重要だと述べている。
だが、このようなフランクファートによる積極的テーゼの定式化は問題含みだ。このテーゼによれば、十分性ラインのほんの少し上の人々が住む人口過密の世界を、この線をはるかに下回る多くの人々を含んでいるとしても、万人が非常に暮し向きがよいが先の世界よりもその人数が少ない世界よりも好む、ということになってしまう。これを避けるために、われわれは「不十分な人々の最小化」を要求することができるかもしれない。だが、不十分最小化世界は、もしかすると誰もいない世界になってしまうかもしれない。これらの問題を避けるために、一定の人口を保持できるようにして、十分性以上と以下の人々の「比率」に着目することができるかもしれない。それでもなお、フランクファートの議論は、一人の個人を閾値のわずかに下からわずかに上にすることを――たとえ、そうすることが閾値以下の多くの人々をさらに閾値よりも下にするとしても――要求する点で、もっともらしくない。さらに、この議論は、百万人を酷い剥奪から天国のような状況にすることよりも、百万人と一人を閾値以下から以上にすることを要求することになる。
他方、ロジャー・クリスプの定式化によれば、問題は「閾値以下の人々に利益を与えることに絶対的な優先性」を置くことにある。これにクリスプは「同情原理」を加えている。つまり、瑣末ではない利益だけが優先性をもつという原理である。「閾値以下では、人々に利益を与えることは、その人々がどれくらい悪い状況にいるか、そうした人びとがどれくらい多くいるのか、問題の利益の大きさがどれくらい大きいのかが重要である。閾値以上では、あるいは閾値以下でも瑣末な利益だけに関わる場合には、優先性は与えられない」と。とはいえ、クリスプの原理によれば、瑣末ではない利益を閾値以下の誰かに認めることが、残りの人間を同情の閾値にまで低下させることを要求するとして、我々はそうするように要請される。(298)だが、これは直観に反する。
とはいえ〔積極的テーゼの〕より穏当な発想は広く受け入れられており、他の諸原理とも両立可能だろう。つまり、ある種の剥奪、たとえば飢餓、病気、無視等の除去が政治的要請として大きな重みを持つことを否定する人はほとんどいない。
B 消極的テーゼ
十分性、平等、優先は、相互に排他的な原理ではない。クリスプの議論は、優先と十分性を、基準となる閾値以上の人よりも以下の人の利益に対して辞書的な重要性を認める、という点で結びつけている。だが、他のハイブリッドな議論の可能性もありうるだろう。
とはいえ、「問題は個人が十分に持っているかどうかだ」という主張はしばしば、平等と優先性の重要性を否定するために使われている。たとえばフランクファートは、「もし万人が十分に持っているならば、誰かが他の人よりも多くもっているかどうかは、道徳的な重要性はない」と述べている。以下、先の積極的テーゼだけでなく、ある閾値以上では平等主義的理由づけも優先主義のそれも否定する消極的テーゼを含む立場を、十分主義(sufficiantarian)と呼ぼう。(299)ある立場を十分主義にするのは、単に、剥奪の除去に最大の重要性を与えるからだけでなく、ある種の追加的な分配要請に重要性を与えることを欠くという点である。(300)
フランクファートが平等を否定するのは、平等の追求は剥奪の除去と競合しうるし、またそれに挫折する、という理由からである。純粋な集計原理や真価原理(desert principle)は、十分主義と対立する可能性があり、実際これらにたいする十分性主義の反対はより強い。
ただ、十分主義は集計ないし真価(あるいは平等ないし優先)へのアピールも不可能ではない。だが、フランクファートもクリスプも他の原理と十分性の組み合わせを考慮していない。クリスプは「十分性に制約された功利主義」の成立可能性に言及しているが、諸個人が閾値以上になればその人の持ち分の多寡は重要ではないからである。
真価については、クリスプもフランクファートも支持していない。(301)フランクファートはさらに、平等主義者を、比較を煽るという廉で批判している。それによれば平等主義は「彼自身が実際に配慮している事柄を発見するという努力から目を逸らさせる」。
とはいえ、十分性原理が、他の追加的原理によって補完されるかどうかを考えるにあたって、フランクファート自身が、差別の悪を説明するために「リスペクト」の要請を支持していることには注意しておこう。フランクファートは差別の悪を説明するために、「イレレバントなモノによって引き起こされるような不合理を避ける」ことの重要性に訴えている。とはいえ、彼は重要な理由によって支持されないようなすべての行為や態度が禁止されるわけではないということを知っている。(301-2)フランクファートは、差別のオルタナティブは「平等ではなく、レレバンスだ」と結論する。
フランクファートは差別に反対する説得力のある非平等主義的理由を同定したが、われわれとしては、彼は十分性の教義に対する一つの反論を反駁しているにすぎないということを確認しておこう。後でいくつかの追加的反論を検討するが、ここでは、フランクファートによる差別の悪についての説明が、慎重な反論を十分に反駁しえているかどうかを疑うに足る理由を考えておこう。
13歳の少年を(有能なのに)雇わない雇用者と、ある人種の人を(有能なのに)雇わない雇用者がいるとする。前者ではなく後者の方が差別だと考えられるだろう。これについて平等主義は、13歳の少年を雇わない雇用者は、社会集団に対して意図的かつ体系的に不利益を与えていないという事実に訴えることで、説明することができる。というのも、年齢差別は、特定の個人に不利益を与える傾向を持たないからである。フランクファートの立場は、この二つの事例に対するわれわれの異なる対応を正当化しようとする上で、深刻な問題に直面する。
年齢も人種も「イレレバント」だと言える。(302)また、たとえば女性はケア役割を担わされてきたことで職場から排除されることが多い。フランクファートの議論では、これは仕事の能力発揮にとって「レレバントだ」ということになりかねないだろう。
リスペクトに訴えることは、差別に反対するために平等主義を不要にする、というフランクファートの議論は疑わしい。たとえば、13歳の少年でもたとえば犯罪に直面した場合には権利や義務を持つべきであり、それは比較的考量に依存するだろう。これを誰かの「本性と合理性(nature and rationality)」だけしか見なくてよい、と言うとすればそれはもっともらしくない。
次に、積極的テーゼと消極的テーゼの関係性をめぐって、十分性についての議論で無視されている問題に移る。
C 支配テーゼ?
フランクファートとクリスプは、平等を斥けることに傾注するが、自らの立場を駆動する関心についてはあまり語らない。たとえば、十分性論は、積極的テーゼに主に配慮することができる。たしかに、十分性論は、人間のほとんどが死んだり苦しむという事実によって駆動されている。それ以外の分配に関する事実は、比較的重要性を持たないのだから、グローバルな貧困に焦点化すべきだ、ということになる。(303)この立場では、グローバルな貧困に対するわれわれの義務に比較して、先進国内部の不公平は重要でない、ということになる。
他方で、十分性論は消極的テーゼによって駆動されているかもしれない。
ただ、十分性の教義は理論化されていないので、以下ではその欠陥を正す方向を考えよう。以下では十分性論の明示的な主張に議論を限定する。Ⅲでは、反平等主義的な十分性論がもっともらしくないことを示唆し、Ⅳでは十分性論の多元主義的なバージョンは依然として考察に値することを示す。ⅤおよびⅥでは、この方向でより構築的な議論を行う。
Ⅲ 十分性の基盤――四つの議論
A 剥奪論
十分性説は平等主義を、あまりに少なくしか与えないということを理由に批判していることがある。(304)剥奪論は、平等主義が――優先主義とは異なり――考慮していないような観点、剥奪に対して比較に依拠しない重要性を与えることを可能にする、と。だが、すべての平等主義が「他者よりも貧困であること」を、「貧困であること」と混同しているという主張は受け入れられないだろう。また、貧困の存在に依拠しないような平等の擁護もありうるので、剥奪論は消極的テーゼを基礎づけるのに失敗している。
B 忠誠論(allegiance argument)
政治的原理が、分配のために個人に課される負担に対する規範的同意を生み出すのが望ましい、というのは確かだろう。そしてそれはソーシャルミニマムになるとすれば、そのことは十分主義を支持するか。
確かにそれは積極的テーゼに対する一定の支持根拠にはなるかもしれない。だが、十分性を保障する原理が、それに失敗する原理よりも支持を得るという事実は、不平等を削減しつつ十分性を保障するような原理が、単に十分性を保障する原理よりも忠誠を促進しないと主張するための根拠にはならない。この議論はしたがって消極的テーゼを支持しない。さらに十分性論者の不平等への無関心は、相対的不利益を受ける人々について何も言わないので、人々に受け入れられないかもしれない。
C 稀少性論(scarcity argument)
稀少性論が注目するのは、基準となる閾値にすべての人ではなく何人かの人は到達することを確実にできるような状況である。フランクファートはこの状況で「平等主義的分配は災厄を引き起こす」と主張する。そして、「ある人々が十分に持っていないようなところで、誰も他の人々よりも多くもつべきではないという主張を固持するのは間違いだ」と結論づける。そして、最も不利な人にとって資源が生み出す利益があまりに少ない場合には、その人への分配をやめて、より利益を多く得られる人に与える方が良いこともあるだろう、と付け加える。
ここではまず、極端に希少なシナリオによって、十分主義が二つの異なる批判を行っていることを確認しておこう。それによれば、平等主義原理が正しくないのは、それは、ある人々が十分に持つことを妨げて、(a)単にすべての人が不十分な利益の平等な分配を享受することしか保障しないからであるか、あるいは(b)そうすることがいかなる個人の利益にもならないとしても、ある人々が十分に持つことを妨げるからである。(306) 言い換えれば平等主義が論駁されうるのは、それが不十分な状態を導くか、あるいは(パレート)非効率な状況をもたらすからだ、と。
1 平等と不十分性
ここに、五人の患者を生かすが残り五人を苦痛の中で死なせるか、あるいは10人を苦痛なく死なせることができるに十分な医療があるとする。稀少性論の擁護者は、平等主義原理は10人を苦痛なく死なせるという選択肢を採るだろうがそれはもっともらしくない、という。平等主義はどう応答すべきか。
単純な応答としては、この例は消極的テーゼではなく、積極的テーゼしか証明していないというものである。われわれは、個人に対して、彼らが生きるために十分な薬を与えるべきだ、と。稀少性論は、万人の命が救われたさいに、平等は不要だということは言えていない。要するに、この議論は、「万人が十分に持っているときには、不平等に追加的資源が分配されても構わない」ということを証明できていない。
またこの議論は、「万人が十分に持つことができる場合、平等主義的考慮は重要性を持たない」ということも証明できていない。ここで、二種類の事例を考えよう。まず、分配されうる医療が、死を妨げずに単に苦痛なく死なせることしかできないとする。もし、その苦痛緩和医療が少数の人にしか分配されないとすれば、それは不公平だろう。その医療が十分性を確保できないという事実は、その分配を道徳的に瑣末なものにするわけではない。
第二の事例はフランクファート自身の事例である。10人のうち五人しか救えないとする。十分性論は、このような場合、平等主義者は10人全員の死を選択するだろう、と想定している。だがそうではない。平等主義は利益を「破壊」するよりもそれを「分配」することを望んでおり、各個人の利益に対する平等な主張を満足させるようなやり方で利益を分配する。つまり、全ての人に生き残る平等な機会を与える。十分性主義とは異なり、平等主義的な医者は幸運な五人を選択する公平な方法を追求するように要請される。(307) たとえば、平等が要求するのは、患者の年齢を考慮に入れることなどである。不十分性を最小化することは重要なのだが、平等もまた重要だということになる。
要するに、稀少性論は、平等主義の核にある確信、つまり(ⅰ)たとえ普遍的に十分性が達成されたとしても、依然として平等は問題になるという確信と、もし仮に普遍的に十分性が達成されなくても、平等は(ⅱ)あまり重要でない利益あるいは(ⅲ)重要な利益を享受する機会の分配において問題になる、という確信を掘り崩すことができていない。
2 平等と非効率性
より洗練された議論、つまりレベリングダウン反論として知られる議論は、平等主義原理が尤もらしくないのは、彼らは、たとえ誰にも不利益がなくて少数の人に利益がある場合でも、不平等を非難するからだ、と平等主義を批判する。この反論はとくに稀少性シナリオで力をもっている。たとえば、上記の事例で、すべての患者を救うことができない平等主義の医者は、全ての人を死なせようとはしない。だが、多くの平等主義批判論者は次のように想定する。この医者〔平等主義者〕は、もしすべての人が死んだとしても、そこには不平等が存在しないので、少なくとも「一つの点で(in
one way)」よいと信じている、と。そして、このシナリオでは、平等主義は単に非効率あるいは無駄が多いだけでなく、むしろ邪悪(perverse)に思える、と。これは強力な批判だが、十分性説の消極的テーゼを支持する議論ではない。そして、平等主義はこの批判に対しても幅広い応答方法を持つ。
第一に、多元的平等主義は、平等化に対する決定的(decisive)理由と、程度に応じた(pro-tanto)理由を区別し、次のように論じる。われわれがレベルダウンを嫌がるのは、単に、平等がつねに決定的な重要性を持つわけではないということを示しているだけだ、と。万人が、より平等であることが一つの観点から見てつねによい、ということを確信するわけではないだろう。条件付き平等主義主義、つまり平等追求が十分性や効率性を犠牲にしない限りで、平等追求の理由を肯定すると応答する立場を好む人もいるかもしれない。多元的平等主義、「十分性に制約された平等主義」については第五節で考察することにして、ここでは、条件付きの平等主義に最も近い立場は、正義は最も平等で効率的な分配を要請すると論ずるパレート的な平等主義である、と言っておけばよいだろう。(308-9)ロールズ格差原理がこの議論を使っている。最不遇者に不利にならない限りで、不平等の拡大は正当である、と。
第三の条件付き平等主義もある。それはレベルアップ平等主義と呼べる。それは次のような態度をもつ。チャリティー会議で、われわれは、貧困な個人の集団を裨益することと、ある種の非個人的価値、たとえば芸術作品や失われつつある習慣の保護との間で悩んでいるとする。次にわれわれは、暮らし向きのよい人々の集団が存在しているがゆえに、貧困な集団を裨益する計画を選択すれば、単に暮らし向きの悪い人に利益を与えるだけでなく、一つの不平等が解消されることを知る。二つの理由の間でのバランスに関する疑いは消滅し、この計画を支持するようにわれわれは決定する。後に、われわれは、先に利益を与えることを選択したのと同じくらい貧困な第三の集団が存在していることを知るとしよう。最初の決断は一つの不平等を除去したが、それが、それと同じ大きさの不平等を生み出す、と。しかしわれわれは最初の決定を覆す選択はしない。というのも、不平等の縮減はそれが諸個人に利益になる限りで価値があると信じているからである。
最後に平等主義と優先主義的要素を結合するようなハイブリッドな原理は、反論に対する別の応答を提供する。これを優先平等主義(prigalitarian)と呼ぼう。標準的な優先主義は比較主義ではないことを思い出そう。それは、個人を裨益することの道徳的価値は、彼女が何らかの絶対的尺度から見て暮らし向きが良くなるにつれて消滅する、と主張する。この立場は、他者との比較での総体的尺度に個人を位置づけることには関心がない。他方、比較的優先主義(comperative
prioritarianism)は、他者と比較して不利な人を裨益することに優先性を与える。よりもっともらしい立場、混合優先主義(mixed
prioritarianism)は、比較的尺度と絶対的尺度の双方から見て不利な人を優先する。(309)平等と優先は、別の仕方でも結び付けることができる。たとえば、不利な人に優先権を与えることに加えて、われわれは、利益の平等な分有という観点からみて、それよりも少ない人をとくに重視するかもしれない。われわれは彼らにほんの少しだけ配慮するかもしれないし、平均以下の個人を辞書的に優先するかもしれない。こうした平等主義的理由づけは、十分性論に抵抗する更なる可能性を提供する。
いずれにしても稀少性論は平等と優先の原理が分配的倫理学のなかで重要性を持たないということを示すのに失敗している。
D 富裕性論
極端に裕福な場合が想定され、百万長者を億万長者よりも優先するべきだといった議論を否定する。
こうした議論に対する批判者は、極端な稀少も極端な富裕も、ロールズとヒュームによる「正義の状況」の外部にある、と応答するかもしれない。たとえばわれわれは、諸個人がある一定の利益の水準に達するならば、追加的資金が彼の人生を改善しえないと信じるかもしれない。また、追加的資金が差異を作り出し得ないならば、裕福な人々の不平等の間の不平等は不正義を構成するような問題ではない、と信じるかもしれない。いずれの場合でも平等主義も優先主義も極端な状況に適用されないということを認めることは、それらがより一般的状況で重要性を持たない、ということを示すわけではない。とはいえ、批判者はこうした応答は説得力がないと考えるかもしれない。なぜなら十分性原理のように、この応答は異なる状況を区別する閾値に依拠しているからである。これに対する一つの応答は、われわれは正常性の概念を持っており、それは何らかの特定の閾値には依存しないというものである。
また他の批判者は、平等主義ないし優先主義に、別の説明を与えることを試みるかもしれない。(310)たとえば、不平等の除去は問題の個人が良い状況になるにつれて価値を失っていくことを認めるかもしれないが、同時に、十分性が満足されれば不平等の除去は何の価値も持たないということを否定するかもしれない。不平等の反価値あるいは誰かに利益を与えることの価値は、その人がより暮らし向きが良くなり問題の善がより少なくなるにつれて消滅するとして、百万長者の間で少量を分配することが重要にならないとは思えない。
最後に、批判者たちは、ロールスロイスとダイムラーの間での直観に反対し、非常に裕福な人々の間であっても不平等は問題だという主張することもできるだろう。たとえば、自然災害があった場合、莫大な寄付をすべきなのは最も裕福な人々だと論ずるかもしれない。十分性論は、こうした尤もらしい信念と一致しえない。さらに、十分性説は百万長者と億万長者の間の不平等だけでなく、億万長者の間での不平等にも無関心なので、両者が十分性を保障することができるとして、累進課税を支持することもできない。これは直観に反する。マルクスとシェイクスピアの「各自からは能力に応じて、各人には必要に応じて」という箴言は、単に十分性の達成の価値だけでなく、最も持っている人からより多く採ることの重要性も強調している。だが、十分性論者は、各人は十分にということだけに焦点化する。
また、十分に持っている人々の間での不平等は重要ではないという十分性説の主張は、ロールズのいう「公正な機会の平等」の重要性を信じる人々にとって、この立場の説得力を失わせる。たとえ万人が十分にもっているとしても、単に生まれによる利益不利益の差は大きな不公平だと思われるからである。(311)
ロジャー・クリスプのビバリーヒルズ事例を最後に検討しよう。リッチとスーパーリッチがおり、高級ワインを10人のリッチに提供することで彼らの厚生水準が80から82に上昇し、それは道徳的価値390をもつ。他方、別のワインを一万人のスーパーリッチに提供することで彼らの厚生水準は90から92に向上し、その道徳的価値はギリギリ390以下である。彼は、ここで「リッチはスーパーリッチよりも優先すべきだと考えるのは馬鹿げている」と主張し、このような場合「「より暮らし向きの悪い」人を優先するなどとは言えない」と述べる。
この事例はしかし脆弱である。第一に、彼自身の積極的テーゼ擁護論が瑣末な利益を、それが重要な利益に対する別の直観を喚起し、彼自身の見解をもっともらしくなくしてしまうという理由で排除している。第二に、この事例は、極端に高い敷居を示唆しており、それは「同情」が設定する「暮らし向きの悪い」人々のレベルをはるかに上回っているため、ミスリーディングである。
Ⅳ 十分性に伴う問題――四つのジレンマ
A 曖昧さと恣意的閾値の間の選択問題
「十分(enough)」の基準設定問題がある。フランクファートの基準は高くも低くも解釈できる。クリスプは曖昧さを避けようとしているが、他方で恣意的になっている。(312)
B 可能的な配慮の単位の間での選択問題(313) ……省略
C 高い閾値と低い閾値の間での選択問題(315)
まず、低い閾値は、積極的テーゼが言うように万人が十部に持っているべきだと主張することをもっともらしくするが、豊かな人の間での分配コンフリクトを解決する際の平等主義と優先主義に対する消極的テーゼの批判に賛成することを困難にする。また、低い十分性論と高い十分性論は両者同時に人々の忠誠を得るのは困難だろう。低い十分性説は賛同を得るために少なくしか徴収しない。高い十分性説は、不利な人を、できるだけ多くの人が十分に得るために犠牲にする。(316)
高い閾値を採用することは富裕論の説得力を高めるが、あてょう、剥奪論と稀少性論の説得力を減ずる。
フランクファートの10人の患者の事例を考えよう。五人しか助からない。フランクファートは、十分性論が五人助けるのは、「できるだけ多くが十分にもつこと」を保障しようとするからだという。もし、「十分」が「生存に十分」を意味するならば、このルールは五人の究明を要求する。だが、十分に持つ人の数を最大化するという要請が、すべての資源をある一人を生存を越えてフランクファートのいみで「満足」に達する敷居に到達させることを要求するならば、9名を死なせることになるだろう。
この帰結は忠誠について問題を生じさせる。見捨てられた9人は非常に強く憤りを感じるだろう。また、高い十分性説は剥奪論からも支持されない。
結局閾値を決めることの困難があり、にもかかわらず十分性論はこの線に強くこだわっているのは驚くべきだろう。閾値以上の人や以下の人に対する無関心は、彼らの線を越えることへのオブセッションと対照をなしている。閾値はあまりに低くもあまりに高くも設定しえない。要するに、単一の閾値が十分性論者のすべての主張の説得力を支えている、ということはありそうにない。(317)
D 単一の閾値と多元的閾値との間の選択問題
フランクファートもクリスプも積極的・消極的の両テーゼともに同じ閾値を含んでいると考えているが、前節での問題を解決する一つの方法は閾値の多元性を採用することである。多次元的十分性主義を理解するためには、クリスプの主張、つまり、その線以下の個人はそれ以上の個人に対して絶対的優先性を持つと言えるような一つの閾値があり、それは優先主義が採用するよりも低い、という主張を想起することである。彼は何の正当化論も提示していないが、クリスプは二つの閾値が一致すると想定している。対照的に、多次元的十分性論は、低い閾値以下の個人に対して絶対的な優先性を与えるとともに、高い閾値を越えるまで、彼らに何らかの優先性を与える。これは、絶対的優先を持っている状態から、閾を越えた瞬間に何の優先性も持たない状態に落下するような議論よりも説得力があるだろう。さらに、第一の十分主義閾値を越えたところで優先主義を維持することは、完全に全般的な優先主義に依拠せずに、ある程度十分に持つ人も他の人に何らかの形で優先する、ということを可能にする。
E 十分性と優先性の選択問題
とはいえ上の考察は更なる問題を提起する。十分性主義を支持するためには優先主義を否定する必要があるのではないか、と。(317)十分性論者が、優先主義は、われわれの現実世界では適切なガイドになることを認めていることを確認しておこう。
クリスプはテムキンの批判にこたえて、ビバリーヒルズ事例はわれわれの世界の話ではない、と言っている。だがこのような、現実世界を前提にした議論の放棄は、現実世界におけるクリスプの優先主義批判の妥当性に疑問を投げかける。
Ⅴ 十分性の場――三つのハイブリッド理論
十分性の重要性を強調する積極的テーゼと、平等や優先を否定する消極的テーゼについて検討してきた。既にみたように、積極益テーゼのそれほど極端ではないバージョンは、十分性の最大化あるいは不十分性の最小化に対する絶対的要請を、十分性の重視という主張に置き換える。以下、消極的テーゼを再検討し、それが、平等や優先は十分性の考慮を伴わずに成立するということを否定しているだけだ、という点を確認する。それにより、平等主義にとっての三つの問題を提示し、十分性が平等と優先に「置き換わる」のではなく、「補足する」だろうということを見る。(318)
A 普遍的盲目
レベリングダウン反論の、無制約な平等主義は全員を盲目にすることを支持するという批判は、たしかに一定の説得力を持つ。このレベリングダウン反論の力は、人々がある種の閾値以下に落ちてしまう状況から得られているので、条件付きの平等主義原理、つまり十分性を犠牲にしない限りで平等を支持する立場を採用すれば、その反論の力は失われる。つまり十分性によって制約される平等主義である。これを「十分性に制約されたレベリングダウン平等主義(Sufficiency-Constrained
Levelling Down Egalitarianism)と呼ぼう。この立場からは、全員が盲目になるのはいかなる観点から見てもよくない、と言える。もちろん、十分性の閾値の曖昧さは、この多元主義的アプローチにも受け継がれる。しかし、もしレベルダウンしない平等主義が支持できないとしても、このハイブリッドは無制約なレベルダウンよりは好ましいと思える。
だが、この立場は、レベルダウンを支持する人からも、またそれを拒否する人からも否定されるかもしれない。前者は、特に恣意的な非平等主義原理を付加しなくても、レベルダウンを制約することで同じような解決が可能だと論ずるかもしれない。また後者は、制約されたレベルダウンも受け入れられないと論じ、別の改訂を提唱するか、あるいは平等主義を完全に拒否するかもしれない。とはいえ、優先性は、十分性原理によって解決されうるような強力な反論に直面する。
B 送信室
優先性論は、分配に配慮しない立場、たとえば功利主義などに比べれば極端な集計的な結論には傾き難いが、その穏当なバージョンでもまだ、多くの有利な人々が瑣末な利益の大量に享受するために、不利な少数者を犠牲にすることを強いるだろう。(319)テレビ局の送信室に子どもが迷い込み電気機器が彼女の上に落ちてくる。すぐに救出できるが、それはワールドカップの決勝の放映を一時中断しなければならない。放映を楽しみにみている多数の人々がいる。その人々の利益のためには、その子はゲームが終わるまで電気ショックの苦痛を受け続ける状況で放置されなければならないとする。優先主義はこの子を放置するだろう。
これを避けるためには優先主義は、「十分性に制約された優先主義」を採用する必要があるだろう。ある種の決定的な閾値以上の人々の利益のために、それ以下に誰かを放置することを避けるような立場である。
とはいえ、優先主義者は十分性原理を使わなくても、このような過剰な集計を避けることができると応答するかもしれない。ある種のたとえば辞書的な優先順序を作ることで。また、別の道で同じ目的を達成するかもしれない。子どもを助ける理由は、彼女がディーセントミニマム以下にあるからではない、と。仮にそうでなくても、彼女を放置することは、彼女の重い利益を、観衆の瑣末な利益のために犠牲にすることは受け入れがたいからだ、と。(320)
これは、瑣末な利益をディスカウントすることで、それは可能だという立場である。とはいえ、別の事例を考えれば、十分性原理がつねになくて済むものだという結論はあまりに性急になるだろう。
迷子の子を、80代の美食家――人生順風満帆の人――に置き換えよう。残念ながら、この人の残りの人生は短くなってきており、尊厳のない状態での余命に直面しているとする。ところが幸運にも、彼女は、この状況を、数人の十代の子を犠牲にすることで回避できるとする。この子供たちは彼女よりも成功していないが、誰も決定的閾値以下になることはないとする。さらに、この子供たちに対して否定される利益は全く瑣末ではなく、むしろ、彼らの残りの人生に反映するものだとする。
この80代の人とティーンエージャーのどちらを裨益するかの選択に直面した際、優先主義的な計算が後者に利益を与えることを支持するとしても、80代の老人をある閾値以下に落とすことを認めるのは悪いことだろうと信じるのには、説得力がある。もしこれが正しいとすれば、ここにはある種の十分性原理が存在するということになる。とはいえこのケースは十分性原理の必要性を示す事例ではないというかもしれない。そして別の問題、人生全体に焦点化するようなどんな原理も不足するような問題を示しているという人もいるかもしれない。
C 運の平等主義の焼き直し
責任と平等あるいは優先の原理との関係性についての議論がある。(321)「運の平等主義」と批判者が呼ぶ議論である。自己選択の人は過酷な状況になっても放置される、という批判。これに対して「十分性に制約された運の平等主義」を考えれば、ある水準以下が不十分である場合、それは自己責任にはならない、という議論が可能である。
とはいえ、これにも批判があるかもしれない。ハイブリッドな議論は一貫した理由づけを書いている、と。だが、選択が生み出した不平等と選択が生み出した不十分性を認めることのコストと利益を使えば一貫した説明が可能だろう。帰結の平等を維持することは、個人の選択の制約や、あるいは他者の選択に対する責任を過剰な形で要求することになる。だが、十分性を確保することは、自由に対してあまり大きな制約を要求しない。(322)また、不十分性を目撃することは、不平等を目撃することよりも大きなコストになる。
Ⅵ ロールズ的十分性――三つの原理
ロールズの議論は十分性を考慮した議論になっている。
これを理解するには、ロールズの格差原理が、他の補足的要請、たとえば十分性原理のように、満足させられる、そして非比較的な政治的目的について語る原理と一緒に作動していることに注意すべきである。その補足的原理の一つは、「最低限の社会的保障」であり、既に本論の最初で見た。ただ、格差原理はすでに最不遇者への最大の裨益についてのものであり、さらに「最低限の保障(guaranteed
minimum)」は冗長だと考える人もいるかもしれない。(323)だが、最低限の保障が格差原理にとって魅力的な補足原理であるのは、それは望ましくない帰結を除外するからである。
「最大限の自由ではなく十分な自由を保護する原理を導入することは、他の原理の導入にも場所を空けることになるだろう――受け入れ可能な不平等に制約する原理を含む。」(324)
「厚生としての正義は複合的な見解であり、そのなかでは格差原理は少なくとも三つのさらにsatiableな要請、つまり市民の自由、ソーシャルミニマムそして自由な制度の持続可能性に関わる要請と結び付けられている」(326)