障害の社会モデル(2) 相互作用モデル

■ インペアメントとディスアビリティの相互作用モデル――川島聡「権利条約時代の障害学」『障害学のリハビリテーション』(2013)

 

① 障害(ディスアビリティ)は障害者が特に被る「不利」である。

 

「用語法の側面に関して言えば、英国社会モデルにおける「障害」(disability)という語は社会障壁と、社会障壁を原因に生じた不利とを意味している。これに対し、米国社会モデルは、インペアメントと社会障壁との相互作用で生まれる不利に「障害」という語を与える。」(92)

 

川島も星加と同じく「社会障壁」をディスアビリティに含める英国社会モデルは適切ではないと指摘する(障壁については「ディスエイブルメント」という別の用語がある)。

 

② 社会モデルの意義は、「不利」としての障害の「原因」についての理解にある。

 

 「因果関係の側面について言うと、英国社会モデルの場合、当事者の不利(障害)は、インペアメントとは無関係に社会障壁から生まれる。これに対して米国社会モデルでは、当事者の不利(障害)はインペアメントと社会障壁との相互作用によって生じる。ただし、米国社会モデルは、医学モデル(還元主義)に対抗して登場した背景・景気をもつため、社会障壁の否定的作用をとくに強調することになる」(92)

 

③ 英米二つの社会モデルのうち、川島によれば、米国の「相互作用」モデルのほうが妥当である。 ※その前に、そもそも「社会モデル」について川島は、「当事者の不利益の原因として社会の側の問題を強調する視点」(93)だとしている。

 米国の社会モデルとは、「障害はインペアメントと社会障壁との相互作用から生じる当事者の不利を意味する」(100)。

 

④ では、「インペアメント」はどのような基準で判定されるのか?

 

 インペアメントと社会障壁との相互作用論では、インペアメントを社会障壁から独立して定義しなければ循環論になる。この点が、「インペアメント」を障害者の被る不利益としてのディスアビリティによって定義する(インペアメントについての)構築主義的な考え方とは異なる。

 この点、川島(2011:「差別禁止法における障害の定義」『障害を問い直す』東洋経済)では、次のように述べられている。

 

 「インペアメント」はひとまず「心身の特徴」である。「そもそも、ある者の心身の特徴――性別、肌の色、年齢、インペアメント等々――を理由とした否定的なリアクションがその者に不利をもたらす」(311)。そしてそのなかで、とくに「障害者差別禁止法」については、「心身の特徴の一つ」としての「インペアメントが何であるかを明確にしておく必要がある」(311)。

 川島によれば、「障害者差別禁止法の文脈」では、インペアメントとは「「一定の活動制限(あるいは一定の機能制約)」を伴う」(311)ような心身の特徴である。

 

⑤ とはいえ、川島(2011)は、活動制限を必要とする「インペアメント」概念は「法律学的用語法」であり、「障害学的用語法」では活動制限は必ずしも必要ではない、と論じている。

 

■コメント

 

川島の議論では、「障害学的用語法」では「社会モデル」は

 

・「インペアメント=心身の特徴」×社会的障壁=障害者特有の不利益としての「障害」

 

という図式で諸現象をみる一つの「視点」であるとされる。

 

 第一に、この視点について、「インペアメントの存在、すなわち心身の特徴」(川島 2011: 315)だとするならば、性別、肌の色、年齢も「インペアメント」に含まれうる、ということになるだろう。

 もし「心身の特徴」から「性差」や「年齢」を排除するとすれば、その基準が別途必要になる。また、病気やケガから来る苦痛はどうか。性別も年齢も、病気もケガも「心身の特徴」として記述できる。たとえば、病気等の苦痛が放置されることは「不利益」と言えるだろう。そして、医療保険制度が整っていないという「社会的障壁」や「社会環境」により、病気やケガという心身の特徴を持つ人が被る苦痛≒不利益は「障害」であり、それらも「インペアメント」だということになりうるのではないか。近年話題になっているような不妊やインポテンツ、セクシュアリティ、禿げや肥満等は「インペアメント」なのかどうか。

 他方、「活動制限」あるいは「機能制約」を入れるならば、インペアメントの範囲はより狭く限定されるかもしれない。とはいえもちろん、何を「活動制限」や「機能制約」に入れるのが適切か、という問題は残るだろう。その定義次第では、性差、禿げや肥満、病気等も「機能制約」と言えるかもしれない。

 心身の特徴や、それに機能制約を加えて医学的・生理学的に規定するとしても、さらにその基準が問題になる。とはいえ、それは理論的な欠陥ではないだろう。 川島の議論の主眼は、そうした曖昧な部分は敢えて残して、今後、多くの不利益を包摂してそれらを解消する方向性を考えるための契機としての「社会モデル」の有用性(発見的機能)にあるようだからである。性別や年齢、病気や容姿等々も含めて「障害」カテゴリーに様々な人々が包摂されることで、多くの「不利益」が解消される道が開ける可能性を残す、という点が問題意識としてあるのだろう。

 

 第二に、相互作用モデルは、ディスアビリティの原因がインペアメントと社会環境双方にあるとするので、それ自体としては、ディスアビリティ解消の方法として社会環境の改変に重みを置く議論にはならないだろう。川島は相互作用モデルと米国社会モデルを区別して後者を支持し、社会環境の改変に力点があると述べているが、原因を双方向に求める理論であれば(同書でも佐藤が指摘するように、またBarclayのCAと同様)両者はやはり同じであると言わざるを得ないのではないか。もし社会環境の改変を重視するとすれば、さらに別の根拠づけが必要になるだろう。